(5)

 本当は、慶次に会って何をしたかったのか、元親は自分でもよくわからない。
 立ち止まっていないで進めばいいと強く背を押してやりたいと、思う。叱りつけてやりたくなるときも時々ある。いい歳の男が考えても詮無いことで思い悩んで、家族にも心配かけてじっとひとところにいるのを見ているのは、…むしろ、なんの役にもたたない自分を思い知って歯痒い。
 けれど同時に、それがいらぬお節介であることも承知している。人にとやかく言えるほどに自分が優れているとも思わないし、たとえばそうやって強引に引っ張っても、本人が納得しなければ事態は前へ進まないことも。
(なんつーか、あいつは、他人の気持ちにはやたら敏感…すぎるんだよな…)
(けど、待たせてる女のことは気にしちゃいねぇのか、どうでもいいのか、…)
 共通の「友人」である女性の顔を思い浮かべ、元親はやれやれと肩をすくめた。…これこそ究極のお節介に違いない。女ではなく男にばかりもてる元親が、人の恋愛相談にのる経験が豊富な慶次に男女のどうこうを手ほどきできるわけもない。
「…ちぇっ。サヤカもあぁ見えて意地っぱりだからなァ。まぁ俺の出る幕じゃねぇのかもしれねぇが…」
 慶次の(おそらく恋仲の)相手は、男顔負けの能力を持つ。心も強い。一人で問題なく生きていける。――と、誰もが思っているからこそ、二人とも無理はしていないか、本音は別にあるのではないか、関係修復のきっかけを探しているのではないか。そんなふうに勘ぐってしまう。
 誰にも少しずつ悩みや、うまくいかないことがあって当然だ。水の中に沈みながらもがくように――
(そういう俺だって、…モヤモヤがまったくねぇわけじゃねぇし、…)
 ――また、今日ぶつかったあの青年を思い出す。
 どこの誰かというのはだいたいわかったが、だからといってわざわざこちらから会いに行く理由もない。まして、ぶつかっただけで初対面の相手の頬を打つような相手だ、たとえばもう一度会ったとしても、相手も嫌な思いをするに違いない。
「…ああ、なんか、…苛々するな…」
 元親は、そのまま踵を返すと、自宅のほうへ向かった。大学から与えられた新しい研究室を見に行くつもりだったのだが、明日にしてしまおう。
 元親は、ちらと手に握った花を見た。
「こいつを、水に挿さねぇとな、…しおれちまうし」
 言い訳だ。
 でもなんとなく家に戻る大義名分ができたことにほっとして、元親は歩いて行った。

 *

 翌日、元親は電車のラッシュを避けて少し遅い時間に大学に向かった。
 新しい研究室はどの程度の広さかわからない。梱包したすべての蔵書を送ってみたら棚に入りませんでした…というわけにもいかないので、下見をするつもりである。
 自分も学んだ場所だったが、その建物は当時は別の学部が使っており元親はあまり入ったことがなかった。勤め場所は別キャンパスだったから余計だ。
 手には昨日慶次にもらったあの花を紙に包んで持っている。言われたとおりに茎の足元を水の中で切り、そのまま水に挿しておいたおかげか、昨日のままに花は生き生きと咲いている。
 大の男が花を一輪持っての移動もなかなか面白い絵ではあるが、元親はさほど気にもせずぶらぶらと歩いて行った。
 やがて大学に着き、身分照会をして専用のゲートを潜ると目当ての棟へ向かった。建物自体は記憶にあったが、やはりあてがわれた部屋番号はさっぱり思い出せない。探検みてぇなもんだな、と苦笑しながら、少しばかり新しい場所へのわくわくするような期待感を感じつつ、元親はエレベーターを使わずあえてゆっくりと階段を上った。
 築年数が経っているから真新しさはないが、丁寧に修繕がされていて元親は嬉しくなった。階段の手すりの飴色に光るさまも楽しい。日頃仕事で「新しいもの」を追い求めている分、古いものに愛着が沸いたりする。不思議なことだ。
 目的階に着いた。廊下を辿ってフロアの隅まで順に見ていく。
「えーと…710号…あれか?」
 部屋の斜め前は、関係者用の小さなエレベーターだった。普段はこれを使って登ればいいか、などと考えて――元親は、部屋のドアの前ではたと立ち止まった。
 ドアが、僅かに開いている。
 …そういえば、以前から準備室として学生に開放していたのだと聞いていたことを思い出した。物置きに近い状態だとも学部長が笑っていたことも。待てよ、じゃあ此処にあるもの、俺が片してしまわなきゃならねぇのかよと独り言ちて、元親は慌ててドアを勢いよく開けた。
 開けた瞬間、何故か草いきれと、雨上がりの道路からたちのぼる水のようなにおいがした。


 元親は眼を瞠る。
 …床一面に、緑色の欠片が落ちていた。一体なにか、としばらく目を凝らして、…ようやくそれが、切り刻まれた葉や枝の残骸なのだと気付いた。
 部屋の壁一面には勿論からっぽの書棚があり、ところどころに会議用のテーブルとパイプ椅子が積まれている。ひとつだけある窓にはカーテンは吊られていないが、部屋の向きが東向きのため既に太陽の光は直接は差し込まず、電気のついていない室内は少し薄暗い。
 その殺風景で無機質な白い部屋の真ん中に、会議用テーブルをふたつ並べてあって、その上にも緑の欠片が散らばっている。テーブルの中央にはなにかのせてある…
 そして元親は、ようやくそこに、人がいることに気付いた。
 薄暗い部屋で、相手は身動ぎもせず立っているのはわかった。急に人が入ってきたので驚いたということだろうか。室内が暗く、明るい廊下から来た元親の右目は明暗差にすぐに馴染めない。相手の顔は見えない…
「あ、悪い、…嚇かすつもりはなかったんだ。先客がいると思わなくってよ」
 元親は慌てて銀髪をかきまぜながら、軽く会釈して言った。
 それからふと可笑しくなった。相手は確かに先に此処に入っていたかもしれないが、もう既に此処は元親の部屋のはずだった。…きっと相手は知らないのだろう。
「今度こっちの棟に移動になってよ。近々俺の研究室になるから、荷物とかも運び込むし、もし今まであんたがちょくちょく此処使ってたんなら、悪いが退いてもらうことになっちまうんだが――勘弁してくれ。あんた此処の学生か?だったらよろしく頼むぜ、俺は――」
 気さくに話しながら、元親はぱちりと電気をつけた。
「…――えっ?」


 そこにいたのは、――先日元親がぶつかった、あの青年だった。


 目を大きく瞠り、身動きひとつ、瞬きすらせず、元親を凝視している。
 手には黒光る鋏を持っていた。彼の目の前、テーブルの上には小さな盆のようなものがあって、そこに昨日見たのと同じ…元親の持っているのと同じ花が、他の色の花や葉と一緒に昨日とはまた違うふうに水の中に盛られていた。
(間違いない。あいつだ)
 元親も、どういえばいいかわからず、この偶然にどう反応すればいいかもわからない。そのまましばらく二人でじっと顔を見つめあっていた。
 ――と、青年がいきなり動いた。
 背後の椅子に置いてあったバッグを引っ掴むと、手に鋏を持ったまま元親のいるドアのほうに駆け寄った。そしてそのまま元親を押し退け、出ていこうとする。
 ぶつかられたはずみで元親の手から花は床に落ちた。
「お、――おい待てよ、お前!ちょっと待て!」
 慌てて元親は青年の手首を掴んだ。呼びとめるつもりなどなかったのに、知らず体が動いていた。
 青年は振り返った。
 元親の掴んでいる自分の手首と、元親の顔をまじまじと見つめ――それから、昨日のように端正な面が白くなっていく。元親が見つめている先で、青年はかたかたと震えだした。元親は怪訝に思い俯く青年の顔を覗き込んだ。
「おい、あんた。どうした?」
「…貴様…我に気安く触れるでないわ…!!離せ、この、下種が…!」
 ――心配する元親に返ってきたのは、散々な罵倒の言葉だった。
 元親はついぞ聞いたこともない酷い言葉に呆気にとられた。…それから、なんだか無性に腹がたってきた。昨日といい、今日といい。何故頬を打たれたり、こんな罵詈雑言を浴びせられたりしなければならないのか。俺が何をしたってんだ?と思わず口に出ていた。
 青年は、その言葉に俯いていた顔をはっと上げた。至近距離で見たその顔に、やはり元親は見覚えが無い。
(…くそっ。でも、やっぱ、どっかで…見たような…)
 こんな整ったキレイな顔なら絶対忘れないはず――と考え、同時に慶次の「恋」だのなんだの言っていた言葉が耳に蘇り、元親はわけも無く焦った。握った手首は酷く細い。こいつちゃんと食ってんのかよ、といらぬことを思った。
 その間も青年の身体は小刻みに震えている。
「…なぁあんた、なにそんなに震えてんだ?」
 また元親は思わず訊いていた。
 青年はそれを聞くと、きつく唇を噛んだ。


 ――次の瞬間、青年は思いきり、掴まれているのと反対側の肩で元親を押した。みぞおちに近い箇所を急におされて、元親は思わず体をくの字に折った。…が、それでも手首を離さない。
「てっめ…何度も何度も、好き放題に暴力振るいやがって、何様のつもりだ!?」
「五月蠅い…貴様こそ、この手を離せ!我を放せ!そこをどけ!!」
「喧しいッ!なんであんたの指図を俺が受けなきゃならねぇんだッ」
 元親は意地になって言い返し、強く相手の手首を握った。青年は眉を顰め、掴まれた手に持っていたバッグを落とした。それを目で追って、青年は激しく頭を振り、そして自由なほうの手を振りかざした。…まだその手には、先程の鋏が。
 元親は慌ててのけぞったが、僅かに間に合わなかったらしい。
「い…っ、てぇ…!!」
 頬に鋭い痛みを感じて、元親は叫んだ。
 それでも相手の手を離さなかったのは、意地だ。
 空いた手で頬に触れると、べとりとぬるい感触がした。掌を広げると、鮮血がべっとりとついている。
「うわっ…切れちまったか」
「――あ、…」
 ようやく青年は、暴れるのをやめた。
 自分の手にあった鋏を見つめ、元親の顔を見つめた。彼の震えはますますひどくなっていき、それが元親の、掴んでいる手にも伝わってくる。元親より頭一つ分以上背は小さいため、俯いてしまうと元親にはその表情は見えづらいが。
「…ったくよぅ」
 元親は手で頬を押さえながら、あらためて相手を覗きこむように見た。青年はなんだか泣きそうな表情をしている――ように、元親には見えた。
「あっぶねえだろうが、そんなもん振りまわしやがって…」
「…こ…これは」
「だいたいあんた、俺の部屋に勝手に入ってたんだぜ、普通は詫び入れるもんだろ。別にそれだって、俺は咎めちゃいなかったんだ」
「…」
 青年はもう何も言わない。
 元親は、部屋の中を振り返った。
 テーブルの上の花は、場違いなほどに愛らしかった。状況からしてこの青年が活けたに違いなかったが、この気性の激しい男とあの花はどうしても結びつかず、元親は溜息をついた。
「人の部屋に勝手に入って散らかしやがって、…この部屋、片付けてもらわねぇとな。だがその前に」
 元親は握った細い手首にさらに力を籠めた。青年ははっと顔を上げた。
「とりあえず、あんた俺に付き添って救護室に来い。手放すとどうせ逃げちまうんだろ。だからこのまま行くぜ、いいな!」
「…に…逃げぬ…怪我をさせたは事実ゆえ、…貴様の言うとおりの補償をする、つもりだ…」
「――あぁ?補償だとぉ?」
 元親は舌打ちした。
 いやな奴だぜ、と思った。金銭で解決すればいいと思うのか。そもそも彼は、元親に怪我を負わせたのにまだ謝ってさえいないのだ。
「冗談じゃねぇよ。金とかそういう問題じゃないだろ。あんた、ほら、早く来い。俺の手当て手伝いやがれ。話はそっからだ」
 いつになく、きつい声と語調に、むしろ元親自身が驚いた。自分はこんな酷い物言いを普段しただろうか。…
 小柄な青年は、またひとつ大きく震えた。それから、俯いて、わかった、とだけ言った。


 手首を掴んだまま一緒に歩いていきながら、元親はふと不思議に思った。…どうしてだろう、この青年の顔を見ていると――
(…なんで、こんな、苛々するんだ?俺は?)


(6)