めぐりあひ





元就はようやく座り込んでいた大樹の根元より立ちあがった。
西の空がすっかり紅と黒に滲んで沈んでいる。
ふと、足を踏み出そうとして、自分がどちらから走ってきたのかもわからないことに気付いて途方に暮れた。
左右を交互に何度か見つめたあと、溜息をひとつ、元就は右方向へ、とぼとぼと歩き始めた。



しばらく行くとすっかりあたりは暗くなった。幸い十六夜の月が空にぽかりと浮かんで、雲の切れ間から元就の足元を申し訳程度には照らしてくれていたが、青白い光は僅かな陰影を浮き上がらせるのみで心細いことには違いない。腰の得物に無意識に手をかけたまま、元就は一心不乱に俯いて歩いた。ただ歩いた。
―――ざわ、と、木々がざわめく。
元就は、はっと顔を上げた。ただ風にからからと鳴る梢の音だ。
けれど目の前に黒々と立ち塞がる―――密集した木々は、あるものは葉を震わせ、またあるものは細くどこか血管のように細かく枝分かれした幹を軋ませ。ただひとりきりの元就を哄笑し、試し、観察するように影ごと覆いかぶさってくる。元就は呼吸も忘れて、生き物のようにうねり吠える夜の木立の群れを見つめた。ちっぽけな者がひとりで居る、喰ろうてやろうか。ひとりか。
木々にからかわれ訊かれた気がして、ちがう、と思わず声を出していた。
「ひとりではない、・・・」
元就は狼狽した。
(―――ひとり、か。我は?)
考えてみればひとりのはずである。今の状況も、国元にあっても。最初にひとりを押しつけられたのは元就のせいではないにせよ、ひとりをその後選択してきたのは元就自身だ。
(何故今、ちがうと否定したのか)
ぐらつく不安を噛みしめ。元親の顔が浮かんで、きつく唇を噛んだ。



―――ぼう、と、光が、ふいに目の前で瞬いた。元就の足はその場で凍りついた。腰の得物を握る手に力が籠もる・・・



「ひとりか、貴様」



幼い声がして、元就は抜刀しかけていた手を寸前に止めた。
目を凝らすと急に灯った光は、小さな行燈であった。闇からようやく光に目が慣れて、元就は状況を確認すると黙したままではあったが心底安堵した。声の主はどこかときょろきょろと視線を動かす。
「ひとりか」
また声がした。元就の、足元に近い位置、よく見れば提灯のゆらゆらと揺れる位置は低い。
灯りを掲げているのは、童子だった。
振分け髪を顎のあたりで切り揃え、両の耳元のひと房ずつを飾り紐で結わえている。こんな時間に不自然な、と元就は再び刀の柄に置いた手に力を籠めたが、童子は睫毛の長い一重の目を見開き、じっと元就を見上げてくる。
どこかで見たような、と元就は眉を顰めた。
―――ぐう、と、元就の腹の虫が鳴いた。
朝食の雑炊しか食していないからには自然なことだったが、中国の当主は覚えずこほんと、誤魔化すように咳払いをしていた。それを聞いて、童子は面白かったらしい、水干の袖口で口元を隠してころころと笑った。笑い声は自然な幼児のものだったので、元就は少しばかり安堵した。
「・・・仕方あるまい。朝方より何も口にしておらぬ」
言い訳のように呟くと、童子はついと後方を指差した。童子の指差した先は先ほどの鬱蒼と茂る木立の群れだったが、木々のざわめきが今はすっかりおさまっていることに、元就は気づいた。
「来るか?少しならば食べ物もある」
「・・・貴様の家だと?此処が?」
「そうだ」
元就は、再度その黒い森を目を細め見上げた。胡散臭い話だ、と内心思っていると、こちらだ、と童子が歩き出す。元就は慌てて、足を一歩踏み出した。
数歩歩いたところで気付いた、―――石畳が続いている。
やがて月灯りにも見分けられる、丹塗りの鳥居が現れた。大樹の根に巻かれた注連縄が白く闇に浮き上がる。
「・・・社?貴様、神職の家の身分か」
「まぁ。そうだ」
「では、宮司に挨拶を」
「いらん。此処で我はひとりだから」
「―――ひとり?だと?」
元就は、怪訝な顔をして立ち止まった。やはりおかしいと思う。まだ日暮れからさほど時間がたっていないにせよ、そこは薄暗く狭いこぢんまりとした神社の境内だった。何故こんなところで子供がひとりでいるのだろう?
「今日はひとりだ。皆出かけている」
元就の不安を感じたかのように、童子は言葉を添えた。
「―――ああ。今夜だけ、留守居役か?」
「そう」
短く頷いて、童子はこぢんまりとした堂の正面扉をぎいと開けた。元就は少し驚いて、窘めた。
「童。そこは神域だ、入ってはならぬ」
「・・・何故?我の家だ。いつも入っておる。構わぬ」
「いくら貴様が神職に携わり出入りが自由であろうとも、他人を気安く入れてよい場所ではない」
元就は日輪以外は別に信奉してはいなかったが、祀られるものへの礼儀はわきまえているつもりである(本願寺顕如などは別として)。少しばかり説教めいた口調で再び窘めたが、童子は不思議そうに元就を見つめるばかりだ。
「泊めてやろうと言うに。ふむ、・・・さては堂では気に入らぬか?我儘な客人よ」
「だ、誰も気に入らぬなどとは言っておらぬ。不敬にあたるゆえ、我は遠慮すると」
「家主がよいと言っている。入れ。じきに雨がくるぞ、濡れてもよいのか貴様」
童子の言葉が終わるか終わらないかのうちに、ぱらぱらと水滴の不規則に落ちる音が響いて、元就は慌てて堂の軒下に入った。あっという間に本格的に降り始める。元就はほっとしつつも、おいてきた長會我部はどうしているだろうかと思いめぐらせた。
それから、一人で否定するように左右に首をゆっくりと振った。
(奴ならば一人でなんとかしているだろう。我がおらず身軽でちょうどよいと思っているやもしれぬ)
「早う、入れ」
強引な声とともに、考えに耽っていた元就はぐいと手を引かれた。勢いのままに堂の段を上り開かれた扉の中へ転がるように入った。ばたん、と扉が閉まった。童子の行燈の明かりだけがぼうと浮かび上がっていたが、やがて燭に火をつけたのか、小さな堂の中はほんのりと明るくなった。
放心したようにしばらく炎のゆらぎを見つめていた元就は、やがて状況に気付くと慌てて正面―――祭神の鎮座する方に向かいその場に正座し、一礼した。その様子を見て、童子はまたころころと笑っている。元就はひとつ咳払いをして、とりあえずは童子に「助かった」と礼を述べた。
童子は笑いをおさめると、じっと元就を見つめてくる。元就も、あらためて童子を見つめた。
うないに結った紐は金にも見える明るい橙色で、童子が首を傾げるたびにその頬にゆらゆらと掛って揺れる。やはりどこかで見たような、と元就は訝しく思った。
童子は不躾に、神棚に腰をかけ、手近にあった糯をふたつ手に取り、ひとつをほおばる。ひとつは元就に投げてよこしたので元就は慌てて受け取った。供え物であろうに、と口の中で抗議してみたが、喰わぬなら返せ、我が喰うとすました顔で言われると何も言い返せなくなった。元就は少し躊躇してから、手の中の糯にぱくりとかぶりついた。
「貴様、ひとりか。誰かと一緒ではないのか」
無心に食べていると、また、同じことを尋ねられる。元就は眉を顰めた。
「・・・昼ごろまで連れがいたが、今は知らぬ」
ぷいと、視線を逸らしながらそんなふうに、我知らず呟いていた。ほう、と童子は首を傾げた。
「もう会わぬつもりか、その者とは?」
「・・・そうは言っておらぬ」
「では、会いたいか」
「そうも言っておらぬ」
「一体どちらなのだ。我儘な客人よな」
童子は大人びたものいいをしながら苦笑したようだった。
(・・・これではどちらが子供かわからぬ)
元就は少しばかり自分に呆れた。呆れながら、けれど不審に思った。目の前の童子は小柄で華奢でどこからどう見ても子供なのに、どこかふつうの子供とは違っていた。生意気でこましゃくれた物言いも、立ち居振る舞いも。しかしそうかと思えば無造作に床の上に転がってみたり、供え物に手を伸ばしたり、勿論この堂の中へ躊躇なく入ってみたりという仕草は子供そのものであった。元就は糯を咀嚼しながら(供え物ながら実に美味かった)童子をじっと観察して―――あぁ、とひとり得心した。
(我に、似ておる)
子供のころの元就に、よく似ているのだった。無理に背伸びして生きている感じが―――
「その連れのお人は、貴様のなんだ」
あけすけに訊かれて、元就は口の中にあった最後の糯のかけらをごくりと飲み込んだ。
「・・・何、と問われれば、・・・敵、だな。」
言葉にしてしまうと虚しくなったが、事実ではある。
童子は眼を瞠った。
「敵?敵と一緒にいたのか。連れ去られていたか」
「・・・そういうわけではない」
「では、無理強いされたか。ははぁなるほど、逃げてきたのだな?」
「・・・そういうわけでは」
童子は、ぷうと急に頬を膨らませた。
「貴様の言うことは先ほどからさっぱり意味が分からぬ。我を莫迦にしておるか?」
「・・・そういうわけ、では・・・」
「はっきりせぬお人よな。あぁ、つまらぬ。・・・わかった、連れに会いたくないならば、一晩ここに隠れておるがよい、明日になれば雨も上がろう。それから家路に戻れ」
「・・・会いたくないわけではない」
元就は、ぼそぼそと口にした。家に戻りたいわけでもない、と続けた。童子は溜息をついた。ますますわからぬ、と言って、童子はまたころんと床にうつぶせに寝転がった。頬杖をついて元就をじっと見つめる・・・
「我は会いたい者がおったが、会えぬままだ」
元就は、瞬きをした。
「会えぬまま、とは?その者は死んだのか?」
口にしてから、元就は子供にあからさまに訊きすぎた、と口を噤み手で押さえた。童子は別段気にしたふうもなく、両脚をぱたりぱたりと交互に折りながら、まぁそうだな。と応えた。
「・・・そうか。すまぬ」
「別にかまわぬ。我のかわりに、会えたならそれでよい」
童子は意味不明なことを言ったので、元就は首を傾げた。童子はじっと元就を見つめたまま、ふいににこりとかわいらしく笑った。
「連れの者は、敵だったのに一緒にいたのは何故だ?」
元就は、俯いた。
「・・・別に・・・元は敵だった。今は同盟を結んでおる」
「では、敵ではないではないか」
「・・・まぁ、そうだ」
「二人で此処まで来たのか。遠いところから来たのか?」
「遠い・・・そうだな」
「楽しいか?」
童子はわくわくと訊いてくる。元就は困ってしまった。
(楽しいか、だと?)
元親に半ば無理やり旅に同行させられて幾月かともに歩いているが、これまで考えたことのない言葉だ。楽しいこともあり、つまらないこともあり、哀しいこともあり。
けれど総じて考えれば「楽しかった」・・・ように思えた。
「二人でいるは、楽しいか?」
また、問われた。元就は溜息をついた。
(お喋りな童子よ。留守居役で人恋しいのだろうが・・・)
面倒になって、まぁそうだな、と何度目かの曖昧な返答をすると、童子は「そうか」と嬉しそうに笑った。



「―――今一度問う。再び会いたいか?その者に」



・・・急に童子の口調が変わったように思えて、元就は顔を上げた。目の前の童子は、相変わらずうつ伏せに横たわって頬杖ついたまま、じっと元就の目を覗きこんでくる。表情は、もう笑っていなかった。
「・・・?」
元就も、引きこまれるように童子の眸を覗きこむ。うすい茶色の瞳に映る自分の姿は、やはり、童子とよく似ていると元就は思った。
「何故逃げた。その者が憎いか。嫌いか」
「・・・逃げておらぬ。あ奴からは。我が逃げたのは・・・」
元就は、応えていた。逃げたのは自分の薄昏い過去からだった。長會我部元親は関係ないのである。ただわけもわからず辛くなったとき、目の前にいた元親がどうしてか詫びてきた。八つ当たりをして振り切って走った。―――それだけのことだ。偶然離れ離れになってしまっただけのことであり、逆にこの場合、おそらく悪いのは元就であろう。元就自身も十分理解している。だから、普通に考えれば「会いたい」ではなく、元就は「もういちど元親に会わなければ」ならず、そして会ったなら、詫びるべきであった。
「・・・逃げておらぬし、我は彼奴に会いたくないわけではない。だが」
元就は小さく嘆息した。
「彼奴は面食らっておるだろう。気を悪くしていても然るべきだ。このまま彼奴が我に会いたくないと思っているなら、此処で旅を終わりにしても別に」
「ほんとうに?」
童子は起き上がると、端坐する元就の前ににじり寄り、顔を至近距離から覗きこんだ。元就は少し何故か怖いような心持になって後ずさる。ほんとうにそれでよいのか?となおも問い掛けながら、童子の視線は元就を離さない・・・
(・・・こやつ、・・・何者だ?)
元就は、ようやく気付いた。童子は此処に住んでいると言ったが。
(・・・この社に神祇達の館はあったか?小さなこの祠だけではなかったか?一体どこに住んでいるというのか、この童)
ゆらり、と蜀の焔が大きく揺れた。童子の影がぐんと伸びて、天井まで至る。元就は呼吸を忘れた。まるで先ほど見た黒い木立の影のような―――
(長會我部)
心のうちで知らず、呼んでいた。
(何処にいるのだ。早う我を見つけに来い―――)





ふと、童子が視線を逸らせた。雨音響く扉の外へ。





「・・・来た」





呟くと、童子はぱっと立ち上がり、堂の外へ向かって駆けた。元就は慌てて振り返り呼びとめようとしたが、名前を知らないことに気付いて音を飲み込む。そのときには、もう扉は開いて、童子の姿はするりと扉の隙間に消えていた。
元就は慌てて自分も外へ出た。童子の身うちが戻ってきたのなら、非礼を詫びねばならないと思ったのである。
―――けれど、そこにいたのは、見慣れたひとつ眼の、白い髪の男だった。
元就はあまりの急なことに驚き、その場に縫いとめられたように立ち竦んだ。
驚いたのは元親も同じなのだろう。ぽかんと口をあけ、元就をまじまじと見つめてくる。白い髪もえんじの衣服も、すっかり雨に濡れてその水を含んだ重みはだらりと―――元就の光に慣れた目にもすぐそれとわかるほどだった。
こやつは探していたのだ、我を、と。気付いて、元就は口を開く。
「・・・ちょう、」
「―――毛利ィ!!!」
元就が呼ぶより先に、元親が賽銭箱を蹴倒さんばかりの勢いで堂への段を上がる。あっという間に元就は元親に抱きすくめられていた。ぐっしょりと濡れた衣服が頬にあたって冷たかったが、背中をもどかしげに抱き寄せる掌は水干の布越しにも暖かく元就はそっと安堵の息を吐き出した。
「・・・ちょ・・・長會我部、貴様、何故此処に」
「馬鹿野郎ッ!!!そりゃこっちの台詞だろうが!!!どこにいったかと・・・俺がどんだけ心配して探したと・・・」
ふと、腕を緩めると元親は元就の顔を覗きこんだ。元就は焦って視線を逸らしたが、元親の指がついとのびてきて元就の口元を掬うように辿ったので固まった。――が。
「おいおい、毛利。・・・なんでこんなとこに餅粉つけてんだ?なんか喰ったのか?・・・まさか供え物を?」
元親が少し呆れたように呟いた。元就ははっと、口元を隠してごしごしと袖で擦った。それから俯いて、この社の者が喰べてよいと言ったゆえいただいた、と歯切れ悪く説明した。
「・・・社の者?世話になったのか?そりゃ礼を言わなけりゃ、・・・どこに?」
「今、此処を出ていった。貴様も見たであろうに」
「・・・今?いや、誰も―――」
訝しげな元親に、元就は嘘ではない、と意地になって声を張り上げた。
「そんなはずはない!子供だ。ひとり留守番をしていると言っていたのだ!」
元親は急に口を噤んだ。



「・・・こども?」



それから、ざわざわと鳴く夜の木立をはっと見上げた。
いつの間にか雨は止んでいる。雲の切れ間から月がほんの少し顔を出した。月の面を、ついと黒い小さな影が横切ったように元就には見えた。蝙蝠だろうかと思って再度眼を凝らしたが、もう二度と視えない。
どうしてか、ふと、あの童子だったのではないかと考えていた。そんなはずはないというのに。
「・・・そっか・・・こども、か」
ひとり頷くと、元親は再び元就を抱きしめる。元就が困惑したように、長會我部どうした?と問うと、元親は元就の肩に顔を埋めたまま笑ったようだった。小さく振動が伝わって、元親の呼吸するたび肩のあたりが暖かくなる。
元就はただじっとしていた。
「・・・ありがとうよ」
呟きは誰にあてたのかわからなかったが、返事を求められていないのだとなんとなく分かって、元就はやはりただ、じっと、していた。



先ほどの童子の、毬の転がるような笑い声がまた聴こえた気がした。
元就は我知らず笑みを口元に浮かべていた。
抱きしめてくる元親の体越しに、淡く社の鳥居が浮かび上がる。―――その足元で、白い石造りの狐の像がじっと元就を見つめていた。