融解





(後)



“あんたが好きだ”



それはずっと、互いをさまざまな意味で特別に位置づけながら直接には互いの隙間に響くことのなかった言葉だった。聞きたいと願ったことは元就は、無い。無いはずであった。国同士の繋がりでつかず離れず同じ方向へ、あるいは違う道を歩く多くの者の一人のはずだった。
元親という男は。
あっけないことよ、と。ただそう思った。



元就は元親の眸を見つめる。自分でも可笑しいくらいに冷静だった。
「・・・くだらぬ言葉だな」
元就の冷たい声が蔑むように元親を撫で斬った。
じっと見下ろしてくるひとつ目は白髪が絡まって網のように表情に蓋をして、だからどういう色をしているのか元就にはわからない。ただ忌々しそうに舌打ちをし、元親は呻いた。
「くだらなくねぇ。戯れ言でもねぇ。俺ぁ、本気だ」
「・・・くだらぬ」
「毛利、考えろ」
(・・・何を?)
理不尽な、と吐き捨ててやろうと思ったが、元親が再び口付けてきて抗議の言葉は塞がれる。嗚呼ほんとうに理不尽なことよ、長曾我部。元就の中でぐるぐると思考が渦を巻く。同時に熱も塒(とぐろ)を巻いて元就をゆるく確実に締め上げる。
では、これはなんだ、と元就は合わさる唇の隙間から問うた。元親は動きを止めた。元就はその隙にまた問うた。
「貴様はそうやって我の口元を喰らうは何故か。一度聞きたかった、長曾我部。これは、この行為は何のつもりか」
「・・・何、って。」
「じゃれあいか。馴れ合いか。同じ立場の慰めあいか?この行為の意味は」
「・・・・・・」
「・・・こうやっている我等は、何なのだ?この先敵同士になるやもしれぬ我等は一体」
「何、って?・・・あぁ」
元就が真剣にそれを「考えて」いるのだと理解したのだろう、元親は苛々と頭を振って白髪を手でかき混ぜた。
「撤回するぜ。考えるな毛利」
「・・・貴様の変節具合と理不尽さには反吐が出るな」
「毛利。頼むから」
元親は大きな掌で元就の目を隠した。
「頼むから、感じてくれ。あんたにもそれぐらいは出来るだろ?」
「・・・感じる?」
「そう」
元親の乾いた掠れた声が元就の耳を穿つ。



「あんたが好きなんだよ俺は。好きだ。好きだ。何度でも言ってやる、あんたが好きだ」
「それが何か、どうしてか、なんて考えるもんじゃねぇんだよ。俺は、あんたが、好きなんだ」
「だから、こうしたいからしてる。あんたが欲しい。あんたの唇に口付けたい。あんたに触れたい。そう考えるのは駄目か。おかしいか。なぁ毛利、俺はおかしいのか?」
「毛利、じゃああんたはなんで俺の着物にくるまってたんだ。俺と同じ理由じゃねぇのか。なぁ、俺だって言うつもりなかった。でもあれ、見ちまったから。俺は自惚れていいんだって」
「なぁ、俺の、ただの自惚れなのか?あんたは、どうなんだ、応えてくれよ毛利」



(・・・おかしいに決まっている)
言葉には出来なくて元就は心のうちで呟いた。
(男の我をまるで、おなごの、ように)
先程の、夜着を器用に脱がせた元親の手つきを思いだして元就の体は強張った。
(好き、だと?どういう意味だ?何が目的だ?)
元親の言う「欲しい」という気持ちが「互いを理解したい」ということならば元就にも分かる。女子には決して理解できない、自分たちの背負っているもの。その重さや息苦しさは、同じ立場の者でなければ分かるまい。
逆に言えば、「自分」は理解できると――――敵同士であっても同盟関係であっても、出会っていてもそうでなくても、それでも。きっと元親の妾の誰よりも、もっと言えば部下の誰よりも自分は理解できると――――そんなふうに、ひどく曖昧ながら自負めいたものを持っていた。元就は上手く説明できない自分を歯がゆいと思った。もしかしたらそれは少しだけ変則的な「友情」なのかもしれず、ただ友人というものを作った記憶がずっと遠い昔以来持たない元就には、元親と自分の間にある感情と関係が「友情」「友誼」だと呼べると自信を持って断言することも出来なかった。元親が自分の部下たちに求め日頃表す、元就にはとうてい入っていけない人間関係が「友情」なのだとしたら、元親と元就の関係はそれとは違いすぎて元就には適切な言葉はきっと探し当てることは不可能だと最近は思っていた。恐ろしく近づいたと思えばまた何事もなかったように離れ幾月も音沙汰も無い。そうかと思えば、犬猫の仔がするように互いの口を舐めあい手を握り触れて、まるで何か失った遠い母性を互いに探している幼子のような、奇妙な仕草をする。けれどまた少し時間が経てば互いの心は霧のかかった海上のように見えず、出会っていたとき何を話していたのか、一体何をして過ごしていたかすら覚束無い。次に会ったときは当たり前のように殺しあう仲になっているのだろうと冷静に考えている自分が確かに居る。けれど、それはそれで良しと思えた。命懸けられる間柄というのも、確かにひとつの「友誼」のあらわれであることに違いはなかっただろうから。
・・・だから、こうやってまさに自分が元親に「女子のように」扱われるのはどう考えても、元就には理不尽だとしか思えなかった。
元就にはそんなつもりは、妾と同列に扱われるつもりは微塵もない。けれど今まさに元親が元就に訴え切々と語りかける言葉の持つ熱は、流石に鈍い元就にも元親がそういうふうに自分を見ているのではないかと疑わせるに十分であった。元親にこそよく考えろ貴様の言っている言葉の意味を。と詰ってやろうと元就はひとつ息を吸い込んだのだが、開いた唇はただ元親に切ない表情をさせ再び犬歯の覘く鬼の唇がじれったそうに重なりを求めてきただけに終わる。
(着物、・・・何処だ。我の)
元就は、執拗に自分の唇を啄む元親の隙を縫って、部屋の隅に打ち捨てられたままの自分の鶯色の着物を視界の端に捉えた。手を少し其方へ伸ばしてみたけれど届くわけもなく。寧ろ伸ばしたその手は、すぐと元親の手に捕まった。指先が器用に絡められ、指の間を愛おしげに何度も擦られた。伝わってくる恐ろしいまでの独占欲に全身がさらに痺れ、強張る。怖いからなのか、全く別の感情によるものか。元就はけれどそれについては深く追求せず、ただ部屋の隅の着物を見失うものかと意地になって見つめた。
どうしてか、それに手が届けばこの状況が全て元に戻るような気がした。
(元に)
どの時点の「元に」だろう?好きだと聞いてしまう前に?今朝目が覚める前に?元親が帰る前に?
(・・・いっそ)
元親は何度も何度も、元就の唇を軽く吸い、舌先で舐め、甘くあまく食む。先程握った手はまだつながれたままだ。
(いっそ、こやつを知る前に戻れば?)



そう考えてから、そんなことは微塵も願っていない己にやがて気づいて、そうして元就は苦しげに笑った。
何故この霧の深い早朝に、元親の部屋に自分はやってきたのだろう。何故わざわざ自分の着物を脱ぎ捨てて、元親の残していった着物に身を包んだのだろう。何故と先程元親本人に問われ、寒かったからだと答えた?それも元親にはきっと気に入らなかったに違いない。元親の纏う空気に、彼の残した空気に浸りたかったと言えば納得したろうか。
元就は口元を歪める。
いつの間にか彼に貸し与えたものに、毛利のものであっても既にすべてに元親の風が当たって染み込んで拭えない。元親の言うとおりなのだろう、きっと。否定したかったのかもしれない、元親の残像に浸っている自分。それもまた「友情」の表れだと言い張っていいものなのか。
それを素直に認めるには元就の矜持は高すぎるのだ。そうして、素直な元親はそんなことには頓着するはずもなく、最初に会ったときと同じように今自分の思うとおりに元就へ真っ直ぐに向き合って自分の感情をぶつけてくる。違いすぎる自分たちは、最初から、知り合った瞬間にどちらかがどちらかを殺しておいたほうが幸せだったのかもしれないと元就はふと思った。
違いすぎて、すべてが空回る。



「先のことなんか、知るか。そのとき考えりゃいいことだ、俺とあんたがどうなるか、なんて」
「俺は、あんたが欲しい。あんたが好きだ。あんたに触れたい。今」
「毛利、好きだ、好きだ、聞こえてるか。なぁ毛利?」



「・・・長曾我部、我に言わせたいか」
元就の声に元親ははっと顔を上げた。
元就はどうしようもなくて笑顔を作ってみせた。ずっと用意してあった台詞だ。元親もわかっているはずの。どうしてこの場で言わねばならないのか元就は哀しいと思ったけれど、でも言っていいのだとも思えた。言えばきっと楽になれるだろう。元親が気づいたのか、咄嗟に元就の口を掌で塞ごうとする仕草が見えた。元就はその掌の隙間からぽつりと。
「・・・我はきっと、貴様自身が欲しいわけではないのだろう。毛利に用があるのは四国と、四国を統べる者のみ」
「だから、わからぬ。感じることもできぬ、貴様の言葉に応えることはできぬ」



(だから聞きたくなかったのに)
(すきだ、なんて)



元親の動きが止まって、それからしばらく静寂が訪れる。しずかに、しずかに互いの呼吸音だけが響く。
本心かどうかなぞ関係なかった。元就は促しただけだ、元親に、思い出せと。我等は何だ。我等は互いを国主以上に捉えてはならないと諌めるつもりだった。個人としての元就を好きだと元親が言った途端に、元就の中で二人が一緒にいる理由が消えてしまう。何故なら元就にとっては「毛利」が至上のものだから――――それを支えるための同盟国とその主が必要なのは互いの暗黙の了解だった。わかっていたはずだった、元就も、勿論元親も。
何処で狂ってしまった?
すきだ、なんて。一方的で、何の役にも立たない。寧ろ邪魔になると思う。「すきだから」、その理由できっと殺せなくなるだろう。奪えなくなるだろう。だから自分は使わない。誰に対しても使わない――――





「毛利」
苦しげな声がして、元就が視線を上げた瞬間、元親の掌がしたたかに元就の頬を打った。唇が切れて血の味が口の中に広がった。元就は呆然と打たれたままの姿勢で横を向いていた。元親は無言で反対の手で元就の喉輪を冷たい床板に押す。息が苦しくて元就は呻いた。やめろ、と言おうとしたら喉の手は緩んで、けれど今度は髪ごと即頭部を押さえつけられた。こめかみを圧迫されて目の前が霞んだ。
「ちょうそが、べ、やめろ」
声を振り絞ったが、元親には聞こえていないのだろう。聞こえていたらきっと普段の元親なら手の力を緩めてすまない毛利と謝ったはずだった。きっと聞こえていないのだろう、だから元就はやめろと再び声を出した。けれどやっぱり元親は無言で元就を押さえつけ、反対の手で元就の両脚を無理矢理に持ち上げ元就の顔に縫いとめた。当然元就の秘部は顕になる、元就は羞恥に青褪め、これから何が起こるのか流石に理解して身を捩った。
「やめろ、長曾我部」
けれど体は動かない。そうしている間も射るように元親の視線が静かに降ってくる。元親は何も言わない、その静寂がどうしようもなく不安を駆り立てた。元就は押さえつけられたまま気丈に元親を目の端から睨み返した。その甲斐はまるで無くやがていつの間にか元親の恐ろしい熱さと圧迫感が宛がわれ元就を刺し貫こうと身構えている。
悲鳴が覚えず上がった。
「長曾我部、やめよ。聞こえぬか」
なのに元親が笑ったように見えて元就は愕然と震えた。
直後、ついぞ経験したことのない激痛が襲い掛かり元就はがくがくと体を震わせた。いつの間にか口元が押さえられていて声も出なかった。元親は容赦なく押し入っているらしく刀で切られた時以上の、あの金属が肉に滑り込んでくる感覚とは全く別の引き千切られる痛みに元就は不覚にも気を失いそうになった。脳が逃げろと叫んでいたが鬼と呼ばれる男の力は元就に押し退けられるようなものではなく。
目の前が、今度は滲んだ。
(何故こんな)
「・・・そうさな」
元親はやがて応えた。表情ははっきり見えなかった。



「俺も、あんたを隣国のあるじと、勿論思ってるぜ、毛利?だから俺たちは互いを「利用させて」もらうってわけだ。・・・これでいいか?」
「でも、俺ァ、あんたが好きだ。好きだ。うそじゃない」
「だからもう、俺ぁあんたを、『利用』するなんて思いたくないんだ。離れるたびにあんたが何を考えているか分からなくなるのが嫌だ。確証が欲しい、あんたのひとかけらでも俺のものだって、俺は、」
「俺は、馬鹿だな。すまねぇな、毛利、でも俺は」





それからどれくらい元親に抱かれていたのか分からない。一旦その熱を受け止めた体はその後元親がどれだけ楔を打ち込もうと痛みも麻痺してしまって寧ろ何も感じなくなった。声は出なかった、ただ元親の一方的な熱を受け止め続けた。何度か元親は達して、切なげに表情をゆがめ元就に口付けた。吐精はそのつど律儀に楔を抜いて元就の腹へ。薄い腹筋の上に何度も何度も吐き出され、いとおしげに髪を梳かれ、また元就の中に元親が入ってくる。言葉は無かった。何度繰り返しただろう、何も考えられなくて元就はただ自分は嵐が過ぎるのを待つ小船だと思った。沈まないように、せめて矜持だけは沈まないように。おそらく自身のものと思われる、時折鼻につく血の匂いをひどく無駄なものだと鬱陶しく思いながら、元就は目の前で元親の白い髪が揺れるのをただ見つめる。元親が哀れで、でも自分がこういう扱いを受けるのは許せなくて。彼が何を望み元就がどうすれば納得するのか分からない。元親自身にもおそらく分かってはいないのだろう、ただ恐ろしいまでの心の発露が痛々しくて元就は怒りという感情だけは抱けないままにいつか元親の背に腕を回していた。
「毛利、あんたが好きだ」
元親は元就の指先が、掌が触れるたびにそう言って、けれど幸せそうな表情とはかけはなれた昏い目のまま、すまねぇ、と搾り出すように呻くのだった。





元就が気づいたときにはすっかり日輪が昇っており、屋敷の中は耳を澄ませば人の気配が感じ取れるまでになっていた。
動こうとしたが全身を襲う激痛にまったく体は動かず元就はぎりと敷布に爪を立てた。元就の何も身に着けないからだの上に、ただ一枚布が掛けられていて――――
(・・・・・・長曾我部の)
元親の使っていた着物だった。
元就はそのことに気づくと、着物の中にそろそろと体を縮め潜り込んだ。腹の上に溜まっていた白い液体は指で触れると拭われていることが分かった。けれど特有の饐えた匂いがして、確かにさっきまで一方的な情事が行われていたのだな、この体でと元就はぼんやり考えた。同時に痛みがまた襲ってきて、邪魔な血の匂いが微かに立ち込める。
元就は目の前に被さる元親の着物をそっと握り締めた。顔に押し当てると、血の滴りも生々しい雄の匂いも打たれた頬の痛みも全部打ち消してくれる、いつもの元親の穏やかな優しい匂いがして、元就はひどく安心した。そうして、愚かなことよ我も、まさにこの着物の持ち主に先程あれほど酷い目にあわされたというのに、と自嘲した。
「好きだ」と。元親が残した声が今更のように鼓膜に余韻となって響いた。
元就はじっと心をすます。元親は?帰ってしまった?
そうして、もう、二度と来ない?本当に?





「・・・好きだ」





元就は声に出してその言葉を読んでみる。言ってみると思った以上になんでもないことだった。同盟も国主の立場も互いの打算も関係なかった、ただ元親の普段の日輪のような笑顔だけが蘇って元就は拍子抜けした。
再び、すきだ、と呟いてみる。すきだ。すき。すき。
「好きだ、我も」
ちょうそがべ、と続けて言って、元就はぎゅうと更に元親の着物を握り締めた。



「すきだ」「好き、だ」「好きだ、長曾我部」「言って、いるのに、何故」「何故此処におらぬ。何故」



堰を切ったように元就は繰り返す。言うことなぞ思いもよらなかった言葉だ。肉親にすら告げたことはない。ましてや敵国の主に。ぎりぎりの均衡の上にあった自分たちの関係は、言えば何かが終わって変わってしまうと思ったから聞きたいとすら思わなかったのだと元就はやっと気づいた。
だから。
終わらせたく、なかったから。
そうとも、終わらせたくなんかなかった。離れれば見えなくなる鬼の心をどれだけ、自分こそどれだけ不安に思っていただろう?
(長曾我部、貴様は狡猾い。いつも一人思うままに行動して、我を翻弄する。本当は一体我を、どうしたかったのだ?)
今更何を言っても言葉は元親に届かず、元就は壊れた玩具のようにただその言葉を繰り返した。これまでの人生で置き去りにしてきた分全てをあの白い鬼にありったけぶつけるかのように。



「好きだ、長曾我部」
「何故、おらぬ。此処に」





(了)


以前展示していたとき「この二人はこの後どうなるのか」という質問?を戴いたまま放置してましたすいませn
続きは別の話にしたい思います・・・そして「昔、或る処に」に続くようにしたい・・・です