月さえも眠る夜



(3)

 奇声が上がった。止まっていた刹那が動き出す。
 仲間を斬り捨てられ狂乱した敵の一人が元親へと刃構え飛び掛かった。元親の腕に在る細い身体の持ち主はただ元親の為すがままに抱かれていたが、その気配に身を固くし――細身からは想像もできない力で元親の身体を己から引き剥がし突き飛ばした。敵の刃は突進したそのままの勢いで今度こそ、つい先程まで元就が乗っていた駕籠へずぶりと嫌な音をたて深々と突きささった。
 が、当然其処には誰もいない。刀を引き抜こうとして失敗し、敵は誰にともなく罵声を浴びせ振り返る。
 ――文字通り、鬼のような形相の元親が其処に立ちはだかっていた。茫然と男の見つめる先で元親はこれも躊躇なく、いつの間にか拾い上げていた刀を振り下ろした。断末魔の悲鳴は急に強くなった雨音に紛れた。
 肩で息をしながら元親は自分を突き飛ばした…そうやって咄嗟に救ってくれた元就を見た。水溜りの中にしゃがみこんで、元就はじっと元親を見上げていた。
「…ありがとよ」
 元親が感謝を呟いたとき、誰かが、敵が全員片付いたことを甲高い声で告げた。
 元親は緊張に表情を引き締め、油断なく周りを見回すと頷いた。泥水を撥ねさせながら元就の元へ駆け寄り、些か乱暴に腕を掴んで引っ張った。――再度、片腕に抱く。大事なものを離さない強情な子供のような仕草だった。抱きしめられた当の元就の口元から微かに吐息が漏れた。密やかな安堵かもしれず、半ば呆れの混じった嘆息かもしれない…元親は元就の含む心の様々な意味に気づいたが、知らないふりをした。
 部下が馬を引いてきた。この場に一頭だけ、少し離れた場所に最初から連れてきていたものだ。奪った「宝」を…元就を、乗せるために用意したものだ。
「アニキ、傷は…!」
 元親に部下たちが詰め寄る。当然ながら、部下たちは元親の先程斬られた傷を心配している。真正面から突き立てられた刃は元親の左胸のあたりを抉ったようにあのとき見えた。自力で歩いているからには心の臓を破られたわけではなさそうだが、胸部には致命傷になりかねない肺腑があり、動脈が走る箇所である。大丈夫ですかと口々に尋ねてくる不安の滲む泣きそうな声に元親は少し顔を覆う裹頭をずらすと笑んだ口元を見せてやった。穏やかな笑みがくらがりながら皆には伝わったらしい。
「大丈夫だ。たいした傷じゃねぇよ」
「で、でも…馬で駆けて平気なんで?しかもこの人も乗せて…」
「馬鹿野郎。俺を誰だと思ってやがる」
 部下たちは顔を見合わせ当惑している。
 元親は裏頭の袈裟を少したくしあげ、襟元を開けた。下腹巻が覗く。そこにふかい刀傷がある。ざっくりと口の開いた布の上に、血は滲んでいない…皆は目を瞠った。元親は頷くと、掌で傷のあたりを叩いてみせた。下腹巻のさらに奥からがさがさと分厚い紙束のような音がした。
「書物?ですか?」
「いや…書状を束ねて入れてあったんだ。だが結構分厚くてよ、…おかげで助かった」
 皆が一様に納得し、安堵して頷いた。
 元親は素早く目配せした。すでに駕籠の隊列に襲いかかって時が経っている。誰が来るともわからない。或いは逃げ出した下男たちが助けを呼んでくるやもしれぬ。
「さっさと逃げるぜ。いいか、手筈どおりに――落ちあう場所も刻も皆、頭に入ってるな?」
 正体は露見していないとしても、追っ手がかかることは間違いない。捕まれば命は無い。政宗の伊達家にも迷惑がかかる。
 遅れた奴は置いてくぜ、と元親は低い声を発した。部下たちは頷いた。…実のところ、仮に誰か一人が遅れたとしたら、元親が見捨てられず出航できないことも皆重々理解していた。だから彼らは共に往くならば是が非でも元親の乗る船に刻限までに戻らねばならず、遅れたならばそのときは命を絶つ覚悟もできていた。元親も、それを知っている。長い付き合いの者たちだ。元親の我儘をききいれて此処までつきあってくれている、…だからこそなんとしても皆で逃れねばならない。
 各々、三人ずつほどで別方向へ散っていく。少人数とはいえ同じ方向へ全員で逃げては足がつくだろうと考えた結果だった。それぞれに迂回しながら元通り商人に化け、乗ってきた商船に集合しなければならない。正体がばれたときは命捨てるときだ。
 証拠となりそうなものを一切残さず片付け、その場を後にする。
 互いの幸運を祈って一同は別れた。


 まだ元就を片腕に抱いていた元親は、元就に荷物をまとめろと低い声をかけた。元就は相変わらずの無表情に僅かに色を浮かべ、自分が先程まで乗っていた駕籠をちらと見た。
「…無い。何も」
「何も?」
「これで、全部」
 背に負うた小さな包みを少し見せるように身体を少し捻って見せる。ほんとうに僅かの――
 元親はその様子をいじらしく思った。再度片腕だけでぎゅっと抱きしめると、気を取り直し顔を上げ、元親は元就を馬に乗せた。
 自分もその後ろに跨り、手綱を握った。腕の中に元就がいる、その事実に元親は喜んだ。…喜びながらも舌打ちして眉を顰め、先程刺された箇所を片手でそっと、押さえた。
「――痛むか」
 元就の抑揚のない声が問うてくる。元親ははっとした。自分の身体にすっぽり隠れる華奢な身体は、進む先を向いたまま振り返りはしない。まっすぐな髪を目の前にして、元親はそっと彼の頭に頬を、いとおしむように寄せた。
「…なんでもねぇ。あんたこそどこも悪くねぇか」
「…愚か者めが…」
 また、先程と同じ言葉が投げつけられてきて、元親は苦笑した。元就が何に対してそう罵るのか知っているつもりだ。
 元就はなおも呟いた。元親の顔は見ない。
「…大丈夫だなどと見え透いた嘘を」
「動けるんだから大丈夫にゃ違いねぇだろうが。――さぁ行くぜ、元就、これ以上喋ると舌ァ噛むぜ?」
 急がなきゃならねぇんだからよ、と告げて勢いよく元親は馬の腹を蹴った。馬は高く嘶き走り出す。
 元就はもう何も言わなかった。
 振動が傷を苛んで、元親は眉を顰めながらも意識を保とうと必死に前を凝視した。手引きしてくれた者の屋敷まで。あそこに辿りつけばなんとかなる…


 目的の邸に辿りついたのはすでに白々と東の空が明けてくる頃合いだった。今か今かと元親の帰りをはらはらしながら待っていた例の商人は大急ぎで元親と元就の乗る馬を門の中へ引き入れさせた。
 それから屋敷の一番奥まった場所にある部屋に二人を通す。廊下を歩きながら元親の身体は徐々に前かがみになっていた。けれど何も言わない。元就はちらちらとその元親の様子を見つめつつ、無言で案内されるままに歩いていく。
 部屋は屋敷の表からはわかりづらい離れの中二階に巧妙につくられていた。窓の外に小さな坪庭があり井戸がある。そこが脱出口となる隠し通路らしい。ふたりはぐしょぬれのまま板間に突っ立っていたが、まずは着替えられよ、湯殿は階段を下りればすぐにあると言われてお互いの格好を見た。
 少し互いに笑顔らしきものがこぼれ、緊張が緩んだ。
 ありがとよと元親がすこしばかり疲れた笑顔で言うと、盟友である商人は頷き、必要なものがあればあれを引けと窓際に下げられた、先端に鈴のついた紐を指した。元親は頷いた。
「仲間たちも数人は此処に集まることになってる。面倒かけるが頼んだぜ」
 承知した、と短く応えて商人は出ていった。


 二人きりになると元親は壁に背を凭せて板間に座り込んだ。元就が素早く駆け寄ると、元親の来ている僧兵の袈裟を強引に捲り、袷を開き片肌脱ぎにさせる。
「おいおい毛利、随分積極的じゃねぇか?誰に教わったんだ」
「…五月蠅い、黙れ」
 元就は胸元を固める帯を解いた。…中から、油紙に包まれた分厚い包みが出てきた。その真ん中に刀傷。
 元就は眉を顰め、そっとその、紙束らしき包みを持ち上げた。…案の定肌と油紙の隙間はべっとりと滲みでた血に汚れていた。元就は鋭く舌打ちをした。
「見よ。やはり貴様は愚劣なり。なにが大丈夫、なのだ。貫通しておる」
「…なに言ってやがる?もしこいつを懐に入れてなけりゃ、ほんとに背中まで刀に串刺しにされてたとこだぜ。この程度で済んだんだ、上等だろうがよ」
 元親は不敵に笑ったが、直後に痛みに顔を顰めた。貴様は阿呆だ、と苛立ったような元就の声が元親を打つ。…それすらも、今の元親には幸せの一部にちがいない。
「それとても、…何故我を庇った?あんな無茶な真似をしなければ斯様な傷を負うこともなかったのだ。我ごときに酔狂な…」
 元就は唇を噛んでいっとき、黙った。元親は優しい目で元就を見ていた。
 元就は少し考えていたが、また口を開いた。
「――そも、我を奪還するなぞ。貴様の酔狂にのる伊達も伊達だが、なによりまず貴様がやはり愚かに違いあるまい、…よもや本当に外つ国より舞い戻ってくるとは。呆れを通り越して憤りたくなる」
「怒るなよ。だって、俺がそうしたかったんだからよ…」
 元親はごろりと床に転がった。元就が慌てたように屈みこみ、覗きこんでくる。その視線を受けて元親は笑った。
「このくらいの傷、予想してたよりずっと軽いんだぜ。もう血もだいたい止まってるんだ。…あとは野郎共が集まってくる間に少し寝れば治る」
「…阿呆めが…」
「阿呆でも、馬鹿でも、愚かでも、なんでも言ってくれてかまわねぇってさっきも言ったろ。俺は――」
 元親は傍らの元就の手を握った。
「…全部を失っちまった俺には、もう、あんたしか欲しいもんはねぇんだから」


 元就は黙ったまま元親を見つめていた。
 元親は、少し静かな口調で、その服を脱げと唐突に元就に告げた。元就は眉宇を顰めて瞬きをした。
「脱ぐ?」
「濡れてるから風邪ひくだろ、…てのもあるんだけどよ。…証拠残すとまずいことになるから、俺の今着てるものと一緒にここで燃やしていく。だから、その服は脱いでくれ」
「―――」
 元就の身体から一瞬拒否に似た空気が感じられたが、元親は続けた。
「荷物まで燃やせとは言わねぇよ。服だけだ。なぁ毛利」
「…」
 元親はじっと元就の返答を待った。
 …すこしの間俯いたあと、元就は小さく頷いた。
 そして元親の目の前で躊躇うことなく衣服を脱いでいく。萌黄色の衣装は誰にもらったものだろうかと元親は思った。毛利の家にいる頃から身につけていたものなのか、それとも…
(…政宗に、もらったのか?)
 刹那、苦しいような重い心が疼いた。元親は深い息を吐いて掌を胸元に当てた。元就が動きを止めて元親を見る。――そのときにはすでに元就のあばらぼねの浮いた華奢な上半身があらわになっていた。こうやって眺めるのはいつ以来だろうかと元親は過ぎてきた月日を思った。
「…大丈夫だ。脱げよ。俺はここで見てるからよ」
「…」
 さっと元就の目元に朱が走った。行為を命ずる元親の声に別の意味を汲み取ったらしかった。
 元就は視線を伏せると黙々と濡れて身体にはりついた衣服を脱いでいく。単衣も脱ぎ棄て、下帯以外なにも身につけていない状態になる。…
「――それも」
 脱げ、と元親は命じた。…そのとおり、命令に違いなかった。
 元就は黙って頷くと従った。ぱさりとのこっていた布が床板に落ちて、生まれたままの男がそこに立っている。
 元親は起き上がった。手を伸ばした。触れて、――抱き寄せる。
 元就の皮膚は冷たかった。かわいそうに、と元親は呟いた。もう一人にしねぇからなとも。元就は何も言わない。
「毛利、…元就、なぁ元就、俺は――」
 あとは言葉にならなかった。元親は元就の唇に噛みつき、貪るように狂ったように吸った。細い、一糸纏わない身体を確かめるように何度も何度も掌で撫でさする。
 今度こそ俺のものだ、と、心のうちで歓喜に泣いた。

(4)