月さえも眠る夜



(5)


 夜が明ける少し前に、元親は元就を連れてその邸を出た。
 休息はほとんど取れなかったが、同じ場所に長く居るわけにいかなかった。協力者である商人にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
 脱出する前に、これまで着ていたものを、言葉どおり元親は全て竈にくべた。元就も促され自分の着ていたものを差し出した。焔に舐められ黒く炭化していく着物をじっと眺めていた元就は、やがて進み出ると、手持ちの小さな荷物からところどころ焦げた紙きれを数枚、薄く束ねたものを取り出した。
 一瞬の躊躇の後、かまわぬ、という小さな声とともに元就はそれを炎の中に差し入れた。あっという間に紙は燃える火に呑まれた。
「今のは?」
「…」
「…燃やしちまってよかったのかよ?」
 元親が問うと、元就はちらりと元親を見て、かまわぬ、とだけ呟いた。


 滞在した邸の坪庭に作られた古い井戸を下り、途中の壁に掘られた真っ暗な横穴を微かに灯した手の中のともしびを頼りに延々と、元就と手を繋ぎ歩いた。
 時折、元就いるか、と背後に声を掛ける。元就は、微かに返事をするのだがその声はとてもか細かった。闇はとても深く重く、元親は何度も振り返って元就を確かめた。繋いだ手は本当に彼のものだろうかと――やがて数度のその繰り返しの後、微かに笑むような吐息が聴こえて、少しばかりぎょっとして元親は立ち止まり、振り返る。
 元就のほうへ灯りを差し出すと、彼は闇に慣れた目を少し眩しそうに細めた。そして元親を見上げた。その唇が何かを告げた。元親は瞬きをして元就を見つめた。
「なんだ?笑ってたろ」
「…ああ…何故斯様に振り返るのかと呆れておった。我の手を繋いでいるではないか」
 元親は瞬きすると、少し照れたように俯いた。
「ああ、…だってよ、…くらがりに紛れて、あんたが別の誰かに取り替えられてたら、って。ちっとばかし不安になっちまって…」
 二人しかいないはずなのに、空気の漏れる小さな囁きで会話しているはずなのに、声も言葉も石の壁に反響してはっきりと互いの鼓膜を震わせる。…また元就は僅かに口角を引き上げた。やっぱり笑ってんのかよと元親が不思議そうに呟くと、元就は俯いたまま呟いた。
「今更、…我がイザナミのように醜悪な死人(しびと)になっていやるかと怖れるか。既に死んだも同然の身であるというに」
「…そんなふうに言うんじゃねぇ」
 元親は拗ねたように口を尖らせると、そのまま元就を引き寄せて身をかがめ、自分の額を元就の額にこつりとつけた。元就は驚きもせずじっと至近距離の元親の片目を見ている。
「…あんたは生きてる。死人なんかじゃねぇんだ。俺は、生きてるあんたを連れて行くんだ、…外の世界に」
 元就は返事をせず黙って視線を伏せた。
 元親は額を離すと、握る手に力を籠めた。そして自分たちがやって来た暗い洞の奥深くを見遣る。二人の気配と足音だけを呑み込んできた其処は、過去へ通じる道だった。もう後戻りはできず、するつもりも無い…元親は深い息をつくと、そっと笑って、ありがとうなと元就に礼を言った。元就は元親を見上げた。
「何故礼を言うのだ」
「…いや。振り返ってちゃいけねぇよな。俺は、あんたの手を離さねぇ、そうとも…」
 自分自身へ言い聞かせ、元親は進むべき方向へ体を向ける。
 元親が歩き出すと元就の足音もついてくる。剥きだしの岩に反響する足音は確かに二人分あって、元親は耳を澄ませてただ前を見て歩き続けた。


 やがて前方に、光が差し込んだ。
 一度この抜け穴を通ったことのある元親も流石にほっと安堵の吐息をついた。抜け穴は邸から半里も離れた川の、天然の堤に通じている。元親は元就の手を強く握り、行くぜ、と声を掛けた。返事は無かったが掌には力が籠められたのが分かって元親は頷いた。
 最後の縦穴をくぐり抜けると、雑草の生い茂る川べりが唐突に目の前に拡がった。急に目を刺した明るい光に二人は強く目を瞑った。…日輪が既に昇り、地平線から離れるところだった。
 元就はその光景に気付いたらしい。息をのみ嘆息する様子がわかって、元親がようやくほっと肩の力を抜き振り返ると、小柄な青年は真っ直ぐ天に面を向けていた。両手を拡げ静かに深く息を吸い、そして静かに、万物の命の源である陽光へそっと手を合わせた。
 いつか、ずっと前に――長じて再会し、供寝した朝にも。さらにずっと前、まだ互いが子供だった頃に過ごした邸で朝日を迎えた時にも。同じように彼はそうしていたことを元親は思い出した。愛おしさに元親は涙を浮かべていた。
 元就の本質が何も変わっていないことに、今まで絶望することのほうが多かった元親は、そのとき初めて「変わらない元就」に感謝できたような気がした。元就は変わらない。毛利と言う家を捨てても、元就は元就のままなのだ。…彼が元親を本当は受け入れていないとしても。それでも――
「…元就」
 元親は日輪に手を合わせ続ける元就を、痩せた彼の背中からそっと抱きしめ、自分も天を仰いだ。大丈夫だ、と強く言った。
「大丈夫だ、…あの太陽は、これから俺たちが行く場所にも、ちゃあんと在るんだからよ」


 川から少し歩いた別の邸に、部下たち数名が集っていた。誰も予定通り欠けておらず、元親は部下たちと抱きあって暫し喜びを分かち合った。
 やがて馬が引き出され、彼らは馬上の人となった。
 あとは只管に船の待つ港へ急いだ。商船を装ってはいるが内部をあらためられては言い逃れも出来ない。残りの部下たちは別の経路から既に船に向かっている筈である。
 港に着く少し前に、元親は西の方角に嫌な雲を見て眉を顰めた。今日の夜には嵐になるな、と直感し元親は表情を曇らせた。追手がかかる前に出航はしなければならない。しかし天候不順ならば、南西に下って支那の海へ出る海路は使えない。となれば、いったん沖合に出て黒潮に乗り、北上してから大陸沿いに南下していくことになる。本来ならば嵐の海に乗り出す危険は避けるべきではあったが、元就という宝を積んでいくからには何がなんでも元親は根城としている暹羅国へ戻りたかった。戻らなければ――
 …無意識に「戻る」という言葉を思った自分に気付くと、元親は苦笑した。今踏みしめているこの大地は、元親と、部下たちと、…そして元就が居続けることを許してくれない、哀しい故郷なのだと痛感した。
 港に近づき、自分の船の帆が既に張られているのを見て元親は安堵の息をつかずにいられなかった。果たして残りの部下たちも皆無事に辿りついており、再会を喜んだ後、皆は海の男たちに戻って出航の準備に追われた。元親は馬から下りると、同じ馬に乗っていた元就に手を差し出した。おとなしく元就はその手を取り、馬を下りた。元親は頷くと、此処にいろよと念押しして自分は部下たちへの指示に暫くの間没頭した。
 やがて準備はほぼ整った。元親は待っていろと言い聞かせた場所へ行った。
 …馬の姿はあったが、元就の姿が見えないことに気付いたとき、元親は全身の血が凍りつくかと思った。まさか何処かへ去ったか、と辺りを忙しなく見渡し、おい元就!と引き攣った声を上げると、すぐ傍の木立からなんだとどこか無邪気な返事がかえった。
 元親は振り返った。
 元就は不思議そうに木立の陰から元親を見ている。元親が安心したあまり思わずその場にしゃがみこむと、元就の特徴的な足音は近付いてきた。
「何をそのように、怖れておるのだ貴様」
「…元就、なぁ」
 元親はしゃがみこみ項垂れたまま、片手を伸ばして元就の着物の袂を掴んだ。無様にもその手は震えていて、元親は己を哂ってやろうと思ったが笑うことさえできなかった。
「…頼むから、…俺の目の届くとこにいてくれ。頼む。…俺はもう、あんたを見失いたくないんだ、…」
 元就はその元親の嘆願を聞いていた筈だったが、返事は無かった。
 元親が顔を上げると、元就は朝方のように遥かな天を見上げていた。日輪を仰いでいるのだろうかと元親は訝しく自分も空を見上げた。
 遠い遠い蒼の先に、一羽の鳥が優雅に円を描いて飛んでいた。
 元親は元就を見つめた。元就はどこかうっとりとその鳥の影を追っていたが、やがて一歩、船と反対の方向へ足を踏み出した。袂を握っていた元親の手は易く離れてしまう。
 元親が息をのむ、その目の前で、一歩、また一歩。元就は元親から少しずつ離れていく。鳥を追い掛けているのか、それとも――それとも…
「……元就ッ!!!」
 元親は叫んだ。
 弾かれたように立ち上がると、元就へ手を伸ばした。脚がもつれてみっともなくその場にどうと転んだ。ああ俺はどうしようもなく惨めだ、と元親は転がったまま砂の混じった土を強く掴んだ。口の中に砂が入ってじゃり、と噛んでしまう。行くな、と口元は言葉を紡ぐのに喉がからからに乾いて声は出ない。
 さく、と地面を踏みしめる音が転がる元親に近づく。元親は顔を上げた。薄い雲に隠れかけた太陽を背にして元就は元親を見下ろしていた。
「…何をしておる貴様」
 呆けたような声に、元親は頬を手の甲で擦ると黙って起き上がり、胡坐をかいて座った。元就を見ると目が合った。なんとも面映ゆい表情で元就は元親を見ていたが、元親の傍らにそっとしゃがんだ。
「何故、泣くのだ。長會我部。まるで童子よな」
「…うるせぇ。泣いてねぇよ」
 元親は再び、ごしごしと顔を手で擦った。そして自分より余程小さい元就の身体を引き寄せ、しっかり抱き締めた。抱き締めたまま空を見上げる。…まだ、鳥は飛んでいた。
「…我の鳥やもしれぬと、思うたのだ。政宗に預けてきた――」
 囁くような声がそう告げた。
 元親ははっと元就を見た。再会して初めて、元就の口から『彼』の名を聞いた気がした。
 元親は虚空に舞う鳥を食い入るように見つめた。吸い込まれそうな蒼の中で鳥は悠然と滑空している。見上げる元親と元就には目もくれず、…遥かに高い場所を。その場所と、元親と元就との狭間には届かない距離があった。――まるであいつの…政宗のようだ、と元親は思った。
 突き放すわけではない、元親への協力を惜しまず、元就(おそらく誰よりも大事に想っているはずの)の未来を考えて最善の道を探ったとき、政宗は『己の領地と家を守る』という立場を貫くことでそれを為した。本当は政宗は、手元に元就を置いておきたかったのかもしれない…ずっと。
(そして、元就も…?)
 元親の腕の中で元就は身動ぎし、空を見上げようとする。
 元親はそれをさせなかった。見るな、見ないでくれと願った。情けなくてもみっともなくてもかまわない。政宗と元親は違った。元親は政宗のようには出来ない。出来なかった。そのために国も失くした。外つ国に身を潜めても元就を欲した。――それは、独善でひとりよがりで、政宗のとった行動とは真逆だった。
 でも、欲しかったのだ。
 元就の願いより、自分の願いを…ひとつ残された、望みを叶えたかった。
「――元就」
 元親は自分の中に、欠片だけ残された僅かの自尊心をかき集めた。己一人の欲だけを貫き通したいと思っている。失くしたものが多すぎるから、これ以上失くすのをただ指をくわえて見ていることはしたくなかった。行動したことは、元親は悔いてはいない。でも心から元就を好きだから…彼の本当の願いも、聞かなければならないのだと元親は自分に言い聞かせた。


「元就、あんたは、…ほんとうは、どうしたいんだよ…?」


 掠れた声を振り絞り、元親は腕の中の元就に問い掛けた。
 元就は身を固くした。目を瞠り、元親を見上げて見つめる。
 我は、と小さな声が響いた。
「我、は。…我がどうしたいか、だと…?」
 ――元就の口から、聞きたくない言葉が聞こえそうな気がして…元親は、咄嗟に抱き竦めた元就の身体をぐいと離すと、腕を掴み引っ張った。船の方へそのまま歩いていく。元就は井戸の洞道を歩いていたときのように何も言わずついてきた。
 船に渡るための桟へ足がかかる。軋んだ板の音に、元就は動きを止めた。
 元親は振り返った。元就は桟の途中で、元親に腕を引かれたまま後ろを振り返り、――途方に暮れた様子で茫然と天を見上げた。我は、と声を出さぬまま唇が動いた。
 元親は、待った。彼が自分を、選んでくれるのを。
 たとえ…選んでくれたとしても、…元親は知っている。知っているのに気付かないふりをしていた。――自分が既に敗者であることを。
(元就は、…政宗が、好きなんだろう)
 だから、…もし元就が元親と共に往くことを「選んだ」としても。元親は、ずっと背負い続けなければならなかった。心の奥深くに、一番好きだった者を抱き続ける元就を、そのまま受け入れてやらねばならなかった。それが、強引に元就を連れていく元親の務めであり、…永劫受けるべき『罰』でもあった。
 この国から連れ出すこと、毛利という家から解放してやること。それは元就の『自由』と『幸せ』のため、と言い続けてきた、元親は本気でそう思っていた。
 …ほんとうは、元親の自己満足でしかなかったのだろう。綺麗事でしかなかったのかもしれない。
 元親と政宗と、どちらがより強く、元就の幸せを願ったのだろう。手を離した者か。手を掴み続け放さなかった者か。どちらが?
 元親はきつく目を閉じて、審判の時を待つ。


 …やがて、掌に力が伝わった。
 元親はひとつ目を開けた。
 元就は静かな表情で元親を見上げていた。
「行くぞ、長會我部、…いや、元親」
 名で呼び直し、元就は足を船の…元親の方へ踏み出した。元親はぽかんと口を開けて元就を見つめた。元就がふと眉を顰めた。
「…貴様、何故また泣いておるのだ」
「…えっ」
 元親は空いた手で自分の頬に触れた。確かに濡れていて、けれど元親は先程のように、泣いていないと否定しなかった。ただ、嬉しいから、と言って、濡れた顔で笑った。元就は少し呆れているようだったが、やがて少し躊躇した後、手を伸ばし元親の頬に触れた。涙をぬぐおうとしているのだと気付いて元親は微笑んだ。
「暫く見ぬうちに涙もろくなったか。以前から感情的だとは思っておったが」
「うるせぇよ。あんたこそその口の悪さは変わらねぇよな、ははっ」
 元親は元就を抱き寄せた。
「なぁ元就」
「なんだ」
 呼吸を、ひとつ。
「あんたが好きだ。俺は、あんたが、誰よりいっとう好きだ。…こうやってあんたを迎えに来て、この手を離さないことを、後悔はしねぇ。卑下もしねぇ。俺は俺を誇る。あんたを俺の手で生かすことを。たとえあんたに…」
 一旦言葉を切る。
「たとえあんたに、…俺より好きな、大事な奴が他にいるとしても…あんたが此処に来ようと思ったのすら、そいつの影響だとしても」
「――」
 元就は僅かに身を固くして、元親の腕の中でじっとしたまま、告白を聞いていた。あんたの願いを殺すことになるかもしれねぇ、でも俺は俺の信念でこうする。元親は何度も言い聞かせた。元就と自分自身に。
 元就が心から誰かを(政宗を)好きになって、そのことを永遠に忘れられないとしても、自分はそんな彼をそのまま受け入れようと思った。永遠に彼の一番になれないとしても、彼を守り続けようと――
「俺ぁあいつに負けたのかもしれねぇけどよ、…嬉しい。あんたが俺と一緒に行ってくれることが。それだけで、嬉しいから」
「――」
 …元就は、怪訝な貌をした。少し俯き、口元に微笑を浮かべた。それはわだかまりのない、素直な笑顔だった。「元親」と元就は呼んだ。
「ん?」
「…我は貴様も、好きなのだろう。おそらく。でなければこうやって此処にはおらぬ…と、思う」
「――」
 元親は目を瞠った。
「ただそれが…何故なのか、我にはよくわからぬだけで…」
 首を傾げ、考え込む。すべてを頭で理解しようとする…その姿は以前は元親には苦しいものだった。今は、元就がそうやって元親を考えようとしてくれることだけで嬉しい。誰かを好きになり、諦めて、哀しい想いをした元就も愛おしい。全部抱きしめてやろうと思うのだ。この先ずっと――


 元親は頷くと、元就の手を引き、共に船に乗り込んだ。
 桟が外される。
 やがて船は海に滑り出した。


 遠ざかる日の本を、背筋を真っ直ぐ伸ばして立ったまま、元就は船の上からずっと眺めていた。その後ろで元親は彼を包むように、同じように遠くを見はるかし、立っていた。
 ――きっと『幸せ』にする、と、誓った。
 もう二度と会うことのない友人と、自分と、大切な元就と、…何処にあっても変わらない優しい日輪に。(了)