おもひびと





「貴様、そういえば。昨日は何故謝ったのだ」
問われて、元親は文字通り固まった。



一晩を祠のうちを借りて過ごし、明朝出立してからのことである。
再び巡り会えたことに喜んだのとほっとしたのと。互いに疲れていたこともあって、夜は二人で寄り添ってなにを話す間もなく、深く眠った。おかげで朝には二人とも気分よくなっていた。社のあるじである祭神に丁寧に頭を下げて二人で感謝の祈りを奉げた。
元親の濡れた衣服もあらかた乾いている。天気は昨晩が嘘のように快晴だ。万事問題無し、のはずであった。
そこへ先の質問である。
「・・・そ・・・そりゃ、・・・」
元親はようやくそこで、自分がまだ誓いどおりに元就にきちんと詫びていないことに気付いた。迂闊にもほどがある・・・
思い出すとなんとも言えず情けないような、喉につかえたものを飲み下せないような気分になったが、此処は男らしく決めてやるぜと呼吸をひとつ。
「毛利、悪かった」
あらためて腹の底から声を出す。元就は、眉を顰めた。
「だから、なにを謝る。貴様に謝る理由はあるまい?」
元親は、きっと元就は懐広く、先夜の行為を赦してくれているのだろうと考えた。だったらなおさら俺は謝らねばならぬ、と意気込んだ。
「あんたが妙な・・・媚薬に侵されてたのは事実だが。俺があのとき、あんたを楽にしてやるって言いながら、さいごまでその、・・・結果的にまぐわって、あぁいやその、・・・抱いちまったのは、やりすぎだった、てよ。謝る。」
そうして、きつく目を閉じこれでもかと頭を下げた。
・・・元就から返事はかえってこない。
元親は顔を上げず、地面と自分の足先を睨みつけたまま、続けた。
「言い訳に聴こえるかもしれねぇが、俺は、あんとき必死だった。あんたが死んじまうんじゃないかって。どうにかしてやらねぇとって、・・・これは本当だ、信じてくれ。・・・だから、あんたが、あんなことされて侮辱されたと腹立てて俺から逃げたのもわかるが、どうか、勘忍しちゃくれねぇか―――」
やはり、返答はない。
元親はしばらくじっとそのまま頭を下げていたが、やがて堪えられなくなり、おそるおそる、頭を上げて目の前の元就を見た。



・・・元就は、ぽかんと口を開け、眼をいっぱいに見開いて、呼吸することも忘れたように元親の顔を、穴が開くかというほどに見つめている。



「・・・毛利?」
元親は、こわごわと声をかけた。
はっと。我に返ったらしい、元就は瞬きを二三度すると、ゆっくりと右手を口元を隠すように当てた。
・・・次の瞬間、元親にも明らかにわかる勢いで、元就の面は耳朶まで朱に染まった。そのまま視線が彷徨う。



「・・・も・・・毛利?お、おい・・・ま、まだ、怒ってるか?怒ってたの、思い出しちまったか・・・?」
情けない声で元親は訊いた。
元就は、あぁ、とか、いやしかし、と口の中でぶつぶつと呟いている。目の焦点がさだまっていない。元親は少し手を上げて、元就の目の前でゆっくり掌を振ってみた。元就は気づかない。
「・・・計算してないぞ?なんと言った?・・・我を、なに?え?」
「おい、毛利・・・」
「まぐわ・・・だ・・・と・・・?」
「い、いや!あんときゃ本気で、それしかないって思って!・・・媚薬抜いちまわなきゃってよう。あんた自身が俺に頼ってきてくれたってのもあるし・・・ああ、これも言い訳か?けど、本当だ。覚えてるだろ?助けてくれって、壊れちまうって。なぁ?」
「―――」
元就は元親を見上げた。顔はますます真っ赤である。
(やばい・・・相当怒ってるな、こりゃ・・・)
元親は途方に暮れたが、もうこうなっては腹を括ってひたすら詫びるしかないと分かっている。
「だから、あんたの・・・肉欲の・・・処理したのは、俺は別に、あれでよかったと思ってる。問題はその後・・・調子にのってだな・・・そこんとこは本当に、謝るからよ。・・・忘れろっていうなら忘れるから・・・」
言いながら、これは真実は無理だと元親は内心でそっと元就に詫びた。
あの媚態は忘れられるわけもない。
もっと言えば、・・・あのとき交わした言葉(あいしてる)も忘れられるわけがなかった。元就はその場の勢いで口走ったのだとしても、元親のほうは自覚して口にした重い言葉だ。あれこそ元就には、忘れていてほしくもあり、決して忘れてほしくないことだった。
が、今言うべきではない。
「だからよぅ。・・・あんたが体辛かったのも・・・薬のせいもあるだろうが、俺が無茶しちまったせいもあると思うんだよな・・・すまねぇ。殴りたきゃ殴ってもいいからよ。勘忍して、前みたいに普通に、・・・一緒に、その・・・俺の旅に―――」
言い終わらないうちに、元就はいきなり自分の平手を、元親の顔に真正面からべしんと叩きつけた。
さほど痛くはなかったが、突然のことに流石に驚いて、元就の開いた掌、指の隙間から様子を覗う。元就は俯いている・・・
「・・・っ、そ、それ以上言うでない・・・ッ」
「―――え?あ、あぁ・・・けどよ、俺、あんたが急に怒っていなくなっちまってから、謝らねぇとってずっと思ってたから」
「・・・・・・そ・・・それは、もうよいっ」
「いいのか?じゃあ、赦してくれるのか?・・・俺の道行に、まだ付き合ってくれるか?」
真摯に問う元親の顔面から掌はゆっくりと離れ、元就はやがて俯いたまま、微かに首を縦に振った。
「そ・・・そっか!よかった!安心したぜ・・・ほんとに」
元親は大きく安堵の息を吐き出すと、満面の笑みを浮かべた。
「また、よろしくな、毛利!ありがてぇ!!」
言うと、大きな掌で、元就の背中をばんばんと叩いた。元就は俯いて叩かれるがままになっていた。相変わらず耳朶は真っ赤なので、元親は怒っているのを実は頑張って堪えてくれたのだろうかと考え、なんとも言えず嬉しく元就に感謝した。



























(・・・け・・・計算してないぞ・・・っ)





元親はもうすっかり機嫌よく、なにやかやと喋りながら歩いていく。元就は隣を連れだって歩きながら、時折話を聞いているふりをして微かに頷いてみたり相槌を打っていたが、実際はさっぱり元親の言葉は耳に入ってきていなかった。
実のところ、元就は自分から謝るつもりだった。過去の、家臣たちにいいように弄られた屈辱の記憶がよみがえったこと、そのことに苛立ち、元親に思わず八つ当たりをしてしまったこと・・・洗いざらい正直に話して、詫びるつもりだった。独りで勝手に進み、雨の中を元親に捜索させて迷惑もかけたと理解していた。
これまで大抵の場合、どんなに元就が悪くても、どんなに互いの意見が合わなくても、時には掴みあいの争いになっても(めったになかったが、ごくまれに起こる)最終的には元親から折れてくれることがほとんどだった。今回ばかりは我から詫びねばと、珍しく元就はそんなふうに自分に言い聞かせていた。
元親に、貴様は悪くなかったのに(何故謝ったのだ)とまず問うてみて、そのあと順序よく己の非を詫びるつもりだったのである。
ところが、元親の口から出てきたのは思いがけない言葉だった。
(・・・媚薬?だと?)
南蛮人に奇妙な粉を振りかけられたときだろうか。それともあの吹きだまりのような町の空気そのものに酔ったのか?まったく覚えていなかったが、暫しの記憶がぷつりと途切れていることも事実だ。その間の己のことを必死に思いだそうとするが、覚えているのは朝がきて雑炊を食したことだけ―――
(ま・・・まぐわう?長會我部と我が?我が助けを乞うたと?・・・いや、奴が嘘をついているとは思えぬ、しかし)
元就はまた耳朶が熱くなるのを感じた。隣では元親が喋っている・・・
(媚薬を抜くとはつまり、・・・我はどんな痴態を・・・こやつに・・・)
顔が自然と俯いていく。
苦しい。
元親は上機嫌だ。
(何故だ?・・・何故そんなに・・・さっぱりした態度を取って、・・・我が赦すと言ったから?もう終わった話だからか?)
腹立たしいのではない。
(お・・・男の我を・・・抱くくらいは・・・たいしたことでもないと言うか・・・?)
怒りがこみ上げるわけではない。けれど苦しい。
(それはそうであろうな、・・・苦しむ者を救っただけと思えば、・・・思えば・・・悪気があるわけでなし、・・・特別な感情があるわけでなし―――)



ずきん、



なにかが突き刺さった。
元就は咄嗟に蹲った。
元親が驚いて、元就を同じようにしゃがんで覗きこむ。
「おいっ。毛利?大丈夫か!?またどっか苦しいか?」
「い・・・いや、なんともない。平気だ」
「平気なわけあるか!どっか痛いんだろ?強がり言うんじゃねぇ!」
元親が近づくと、余計に元就は慌てふためきどうしたらよいかわからず、ただ阿呆のように口をぱくぱくさせるしかできない。しかし近寄るなとも言えない。
元親はおかまいなしに、肩を貸すぜと言って元就を抱え上げる。
「・・・よせっ、やめろ!」
思わず怒鳴ると、元親は驚き悲しそうな顔をする。あぁそうではない、と、元就は自分を責める。
「す・・・少し休めば治る。胸が苦しいだけだ。」
「あ、あぁ・・・そっか。わかった、ちょっと休憩しようぜ」
元就を手近の木陰に座らせると、元親は、空っぽの竹水筒に気づいて舌打ちした。
「水汲んでくるからよ。じっとしてろよ?ひとりでうろちょろすんじゃねぇぜ、毛利?」
元就は、元親と目を合せないよう俯いたまま、こくりと小さく頷いた。





独りになって、元就は大きくため息をついた。
元親にされたことを想像して・・・辛いわけではない。悔しいわけでもない。怒りがあるわけでもない・・・元親が自分を気遣ってくれるのが心地よい。詫びてくれたことも。
(なんだ、この感情は・・・?)
額にかかる前髪をかきあげて、元就は呻いた。
(・・・嬉しい、なぞと・・・どうかしておる、我は)
けれど、なにごともなかったように接せられることだけは、考えるとすぐにまた何かが刺さる、・・・胸に。どうかしている。どうかしている・・・



(・・・我としたことが・・・うかつ・・・!)