One Day


 「…あの日見(まみ)えたときから、貴様が嫌いだった…!」

 *

 なにが切欠だったか三成はその刹那にわからなくなった。ただ尊崇する軍師のそのときの表情はあとにもさきにも類のないものだった。――不機嫌、と言うにはどこか違う。
 なんだか気に入らないんだよね、とわざと天井を向いて言う声は半兵衛らしくなくすこし上ずっていた。三成は少々居づらい雰囲気に首を竦め、ちらりと執務机の前の半兵衛を見た。
「…なにかお気に障りましたでしょうか…」
「君にじゃないよ。…あぁでも、君に、かなぁ?」
 意味不明のことを言って半兵衛はため息をついた。三成は息を詰めた。半兵衛は書きかけの書状を脇に鬱陶しそうに押しやって、卓に頬杖をついて考え込む。策がならないときの感じとはまた違う。
「…そう、…家康君だね。たぶん」
「…家康が何か失礼を致しましたか?」
「違うけど…気に入らない」
 三成は困惑した。只管に黙って続く言葉を待っていると、半兵衛は癖のある髪を指先で弄りながら血色のあまりよくない唇を開く。
「…似てる気がしてさ…」
 そんな言葉が零れた。三成は引き込まれるように唇を開いていた。
「誰が、誰に、ですか?」
 思わず問い返す――そして直後、三成はしまったと口を噤んだ。申し訳ありません、と小さな声で謝罪した。
 半兵衛は、けれど気づかないのか。促されたように視線をぼんやりと空に浮かせたまま続けた。
「昔のことだよ。どうにも気に入らない男がいて…」
 『気に入らない』と。何度も響く、半兵衛らしからぬ世俗的な言葉に内心酷く驚きながら、三成は無礼を承知でまた問うた。半兵衛のいつもと違う様子が不思議に興味深かったこともある。
「気に入らない、とは、敵で御座いますか、秀吉様の」
「――敵?いや違うよ。それどころか、…だから、気に入らなかった。というか、…そう、『嫌い』だったな」
「…嫌い?」
 三成は心底困った。何を問うてもどの応えが返っても、三成には理解できない。
 どうやら半兵衛は三成に話してはいないようだった。頬杖をついて時折こくりと頷くように顔の傾きをかえ、誰か見えない者に話しかけていた。
「そう、ぼくは彼が嫌いだった。いつも秀吉の傍にいて、太陽みたいによく笑って、秀吉の行動にたくさん影響を与えて、…ぼくの出来ないこと、持っていないもの、なんでも彼は持っていて」
「…」
「ぼくはむかしから身体が弱かったから…思うようにできなくて、二人についていくのに必死だった」
「…」
「…大嫌いだった、な…」
 そして遠くを見る眼差しをする。いつもの半兵衛と似た、そしてもっと優しい目だった。ほんとうにその相手が嫌いだとは三成には何故か思えなかった。
 三成は少し背筋を伸ばした。半兵衛の話は切れ切れで、誰が誰とどうだったのか三成にはかなしいことに辿ることができなかった。だからひとつだけ訊いた。
「半兵衛様」
 半兵衛ははじめて三成に気づいたように、吃驚して目を見開き、三成を見た。なに?と問う。
「教えてください。…その半兵衛様の気に入らないという男は、…もしや家康なのですか?」
 半兵衛はきょとんとしている。
 それから、ようやく自分の発した言葉の断片を記憶からひろい、理解したらしい。小さく苦笑すると、すまなかったね三成君、とどこかふっきれたようにほがらかに言った。
「全然違うよ。…家康君に似ている、別の誰かだよ」
「…では、私はその者を知っていますか?」
「いや、知らない。君は会ったことは無い。…会わせる気も、ないけどね、僕も秀吉も」
 三成は小さく息を吐き出した。何かに安堵している自分が奇妙で滑稽だった。そんな三成に半兵衛は言葉を被せてくる。
「友達だったんだよ、秀吉と、ぼくの。…友だった」
 言葉尻は過去形で、三成の耳にきんと冷酷に響いた。三成はまた息を止めた。
「秀吉を導いて、秀吉を変えて、なのに秀吉に反対し、秀吉を理解できずに去った。…だから僕は気に入らなくて…嫌いで…」
 ――彼が、憎かったのさ。
 凍りついたように動けない三成に、半兵衛はどこかつくりもののような笑みを投げた。
「似てるような気がする。家康君は、…どうしてだろうね?主義主張の無いような貌をして、無私無欲な顔をして、どうしても折れないものを持っているからかな…」
「…半兵衛、様」
「…たちが悪いのはどっちなのかなぁ…」
 最後の質問は宙に浮いた。もう半兵衛は三成を見ず、三成も半兵衛にかける言葉を持たなかった。

 *

 「なぜだ?何故そのような目で私を見る?…」

 *

 三成は家康を探した。早く、見つけて、確かめねばならない。
 家臣たちと鍛錬に汗を流していた家康は三成が近づくのを見ると表情を綻ばせた。どうした、と朗らかに訊く。太陽のような笑顔、と誰もが言う。半兵衛もそう言った。
 だから気にいらない、とも。…
 三成は半兵衛の言葉と微笑を思い出すと、唇を噛んで俯いてしまった。家康は怪訝そうに覗きこんでくる。
「なぁ、どうしたんだ三成?」
「…貴様、先日私に、言ったな。」
「?」
 家康は汗を手拭いで拭きながら、首を傾げた。ワシはお前になにか言っただろうか?と真顔で問い返すと、苛立ったように三成は怒鳴った。
「私と…友になりたい、と、言っただろうッ!!」
「――ああ、…」
 家康は大声で言われた言葉にぽかんとしたが、直後、周りの者たちのくすくす笑う反応に気づいて真っ赤になった。
 そうとも確かに言った。
 切実にそう願ったから、言葉にして伝えた。はっきり言わなければ、三成には伝わらなかったからだ。
 ふと、家康は蒼褪めた。今更そんなことを持ち出すのはなぜだろう?友達になりたいと言った、握手をもとめた。三成はぷいと横を向いて踵を返した。結局家康から差し出した握手の右手は空に浮いたままだった。
 けれど、三成は言ったのだ。「貴様の好きにすればいい」と。
 家康はそのとき、受け入れてもらえたのだとどれほどに喜んだか。
「…なぁ、三成、…なにか不都合があるのか?なんでまた今、そのことを…?」
 こわごわと尋ねる声が、以前の小さくて、弱かった頃の自分そのままで家康はいたたまれず情けなくなった。自分の勝手な勘違いと、思い込みだったのだろうか。それでも必死に三成を見つめる。
 三成は、けれど家康を睨みつけるばかりだ。
「なぁ、三成…」
「――裏切るな」
 唐突に響いた言葉に、家康は一瞬呆けた。
 三成は苛立った様子で草履の先の地面を二度、蹴った。裏切るな、とまた言う。
 はっと、家康は自分の腹のうちを探った。じくりと鈍い痛みが刺さる。
 豊臣への後ろ暗い思いを見透かされた気がした。真っ直ぐな三成は、真っ直ぐとはとても言えない、家康自身の屈折した思いに気付いたのだろうか。
 家康は恐れた。ごくりと唾を飲み込んだ。
 友だちになりたいと言ったのは嘘ではない。三成は、憧れた相手だった。初めて、自分から、友になりたい、近づきたいと思った。傍に立って、もっと彼を知りたいと思ったのだ。その心は嘘じゃない…
「…裏切る、とは、なんの話だ?…ワシは…」
「――『私を』、裏切るなッ!そう言っている!」
 家康は瞬きをした。
 思わず、こくりと頷いた。だって想像もしていなかったことだ。三成を裏切る?どうして?(今思えば滑稽なことかもしれないが)家康は「三成」と「豊臣」は別だと(別になれると)固く信じていた、まだ。
 『豊臣の傘下だから』、三成と友達になりたいと思ったわけではない。『三成だから』、だ。
「も、…勿論だ!裏切らない。ワシは、お前を、裏切らないぞ!」
 自分に言い聞かせるように家康は唱えた。
 その言葉に、ふと三成は表情を緩めた。日頃見ない、柔らかい微笑だった。家康は思わず見入ったが、すぐその光は消えた。そしてさっさと立ち去ろうとする。家康は慌てて追いかけた。並んで歩きながら三成の顔を覗きこむ。
「な、なぁ三成!どうして急にそんなことを?何かあったのか?」
 問い掛けると、三成はじろりと家康を睨んだ。
「…半兵衛様が仰ったのだ。貴様によく似た男が、以前秀吉様と袂を分かったと…」
「え、――」
「話をうかがっているうちに貴様にも話しておこうと思った。それだけだ」
「な、なぁ、三成。誰だ、それは?ひょっとして…」
 家康は喉元から出そうになった名前を飲み込んだ。三成が立ち止まって家康をじっと見つめたからだ。
 苛立った様子はもうなかった。ほんの少しためらった後、三成からすぅと右手が差し出される。家康はまた呆けたまま三成の顔と右手を交互に見つめた。
「ええと、…なんだ?」
 すると三成はいきなり耳まで真っ赤になった。相変わらず激昂したときがわかりやすい奴だな、と暢気に思いながらも(三成のそういうところも家康は気に入っているのだ)、家康は三成の怒号が降ってくるのを予測して思わず首を竦めた。
 …怒りの声はこなかった。
「……ッ、もう、いい…」
 どこか落胆したような声がして、三成は赤い顔のまま歩き去っていく。家康はその背を見送ろうとして自分の右手を見た。
 ――右手――右手。
 …その意味に気付いて、うわあっと声をあげる。三成が驚いて振り返る合間に、ものすごい勢いで駆け寄った。
「な、なんだ、貴様?」
「み、三成!みぎ、右手!!」
 勢いに押され三成から面食らったまま出された右手を、家康は今度こそ力強く自分の両手で握った。離すもんかという力を籠めて。
 三成は呆気にとられ――また、真っ赤になった。けれど俯き、上目づかいに家康をちらと見た。その目元が朱を刷いたように紅いのを、家康は嬉しく思った。そしてこれ以上ない笑顔のまま、三成の手をぶんぶんと上下に振った。何度も力をこめて握りしめ、――そして言った。
 ありがとう、と。
 
 *

(半兵衛様。私も「あの男」が嫌いです)
 三成は心のうちで、ついさっき去っていった男を思いつつ、もういない軍師に話しかける。
 太陽のような笑顔も、人を魅了する力も、時折見せるどこか哀しい優しい表情も、三成を見つめる形容し難い眼差しも――なにもかも。
 信念のために、友を裏切る強さも。
 なにもかも似ていて、(でも、置いていかれた自分にもどこか似ていて)。
「半兵衛様――」
 三成はあのときの半兵衛の腰掛けていた卓に手をつき声を掛けた。
 私は家康が憎い。憎い。憎いのです。でも――
 半兵衛とは逆に、三成は躊躇して「別の言葉」をそっと置いた。籠手に包まれたままの皮膚の見えない自分の右手を見つめる。ワシはお前を裏切らない、と力強く言った声が耳にこだまして三成は奥歯をこれでもかと噛みしめた。
「家康が、…気に入らなくて、嫌い、です、…」
(――昔は、そうではなかった。)
 その男が気に入らなくて、嫌いで、憎かった。そう言った半兵衛を思い出す。
 半兵衛はほんとうにその「男」を憎んでいただろうかと三成は思った。答えてくれる軍師はもう透明な存在になってしまって三成と同じ処にはいない。問い掛ける許可を呉れたはずの秀吉もいない。
 三成はゆっくりと頭を左右に振った。昔は、家康を嫌いではなかった。憎んでもいなかった。今は?今は…
(憎いに、決まっている…ッ)
 自分の愚問に苛立ったように三成は拳を握りしめ、己の腹に言い聞かせ、家康への憎しみを確かめる。確かめる隙間から祈りの声のようにあのときの半兵衛の拗ねたような声がする。嫌いだった。憎かった。そう言いながらそうは見えなかった、…むしろ懐かしさの滲んだ眼差しを。
 それすらも飲み込んで、三成は、また家康の名を呼ぶ。私は貴様を赦さない。赦さない。貴様の罪を赦さない。
(…罪とは何なのだ?…私は、家康の、…何が赦せない?)
 秀吉を殺したことか。三成から奪ったことか。裏切ったことか。傍にいると言ったくせに、今はもう遠い場所で、三成の「敵」として存在し続けることか。…
 ――ふと、去って行ったあの男に問い掛けたい気がした。
 男の髪に差した羽飾りが三成の網膜の上でいつまでも、ゆらゆらと揺れていた。(了)

※「3」慶次と三成の会話より