戻るべき場所





意地を張った。



波斯(はし)まで行くと言ったら苦笑された。
蓬莱やら崑崙やら、元親の行ってみたい場所は時折物語の中にも広がるのでそのせいかもしれない。しかし南蛮人が事実昨今は日の本にも来ているではないか?
「逆に俺が行ったって、いいだろうが」
元親は随分機嫌を損ねた。今でなくともいつかは行きたいと思っている、本当に。
だいたい元就と揉めるのはいつも些細なことばかりだ。大抵は元親が折れる。もしくは、忘れる。元就は怒っているのかいないのか、忘れているのか覚えているのかわからない。
元親は己の髪をひと房、指でつまんで引いた。白と銀色の中間のようなそれは、生まれつきのものだ。色素の薄い皮膚も。
「なんで笑う。俺は本気だ。いつか行きたい」
「くだらぬ。いつか、と言うは、叶わぬと言うも同じこと」
元就の言うことはいつも正しい。そして現実的だった。元親は、そこでやめておけばよかったのだろう。しかし意地を張った。
「俺の先祖は渡来人だ。波斯の、さらにもっとむこうから来たって話だ。この目で見たい」
「―――くだらぬ」
一言で片づけられて元親は呻いた。元就は、いつも正しい。元就にとっては過去はくだらないものに相違なかった。けれど元親にはそうではない。わかり合うことは、つねに元親から元就に歩み寄るということだ。
だから、元親が意地を張るということは、分り合わなくっても構わないということだった。元親は立ち上がった。元就は先ほどから続けている書きものの筆を止めもしない。勿論元親を引き留めることもしないのだろう。
「俺は、行くぜ」
元就は黙っている。元親は舌うちした。
「行ってやる。今すぐだ」
「・・・蓬莱の玉の枝の話を知っているか、海賊よ」
元就の言葉に、一瞬元親は意味がわからず首をかしげたが、すぐに理解すると怒りに顔を赤くした。
「ふざけんなっ。竹取の翁の話かよ?俺が、行くフリして行かねぇって言いたいのか?あのなんとかって詐欺皇子みたいに?」
「―――車持」
「名前なんざどうでもいい!」
元親は足を踏みならした。
「見てろよ。海賊に、渡れねぇ波なんざねぇんだ」



本当は、自分の祖先のことは後回しでもよかったのである。
元親がその波斯という国に行きたいと思ったのは、太陽を模したような黄金細工がその土地にあると聞いたからだった。日輪を信奉する元就にひとつでも与えてやれれば、見せてやれれば、もしや喜ぶだろうかと考えたのである。
だから本当は、いつか行きたい、とは正確な言い方ではなかった。
いつか「二人で」「一緒に」行きたい、だったのだろう。
しかしそうはっきりと言えないまま話は別の方向へそれてしまい、元親は退くことができなくなっていた。



そうやって啖呵をきって本当に元親は瀬戸海を出港した。
野郎どもは大抵はノリのいい者ばかりだが、さすがに今回は諌める声が多かった。国のことはいいとしても(ほんとうはよくないのだが)、正直命の危険があるのは本当のことだ。過去にいくつもの船が、大陸へ向かっては海の藻屑と消えた。明国と貿易が盛んとなった今でもそれは変わらない。
元親は、やめたほうがいいと野郎どもにも言われ、さらに意固地になった。
そういうときは当然、ものごとがうまくゆくはずもない。
・・・当然の結果だったが、元親の船は嵐に阻まれて立ち往生した。難破したり沈没しなかっただけマシだったのだろう。ほうほうのていで九州の南の港に流れ着き、そこで船を修理した。
結局ひと月もたたず、元親は四国へ戻った。
当然、元就へ連絡なぞしない。元就が言ったとおりになって恥ずかしかった。
けれどそれ以上に、彼がまた眉ひとつ表情ひとつ動かさず自分を迎えるかも、と考えると、それのほうがもっと怖かった。
いつも元就は、元親に言う。「くだらぬ」と。
(・・・ひょっとしたら)
元親は思い当って、途方に暮れた。
「くだらない」のは、元就にとっての元親の存在なのかもしれないと、考えてしまったのである。ようするに、元就にとっては元親が波斯に行こうが行くまいが、海の上で死のうが生きようが、戻ってこようがどうしようが、「どうでもいい」ことなのかもしれなかった。



元親は、だから、また意地を張った。
自分からは中国へなぞ二度と行くかと決めた。



三か月過ぎた。
政(まつりごと)の都合で、元親はどうあっても難波(なにわ)へ行かねばならなくなった。そのついでに京都へも足を伸ばして慶次と会った。
あんたのいい人はどう?と会うなり言われて、元親は言葉に詰まった。慶次の言う相手がだれかはおのずと知れたことだった。
腹立たしいことに、こういうことになると鋭い。慶次は返事のないのを見てとって、なんだよ喧嘩かい?と訊く。元親は顔を背けると、吐き捨てるように言った。
「喧嘩にもなりゃしねぇ。くだらねぇって思ってるんだろうよ、俺のことなんか」
「・・・元親、男が拗ねるのはみっともないぜ?」
「うるせぇな!」
慶次は、肩を竦めた。それから、道理でね、と呟くので、元親はふと気になった。
「なにが、道理だ」
「毛利が寺に最近、たくさん写経納めたって話があって」
「・・・それがどうした?」
「いや、表向きは別に。ただ噂があってさ―――」
慶次は小声になった。元親は眉を顰めた。
「はっきり言え」
「・・・ようするに、毛利元就本人が病気なんじゃないかって。だってへんだろう?あの神仏なんか気にしない毛利が写経なんてさ。」
元親の心臓は、凍りついた。



京都から再び難波の港に向かう。四国に帰る船に乗るためだ。
元親は、慶次と別れてから馬上で一言も発しなかった。別れ際、慶次はしみじみと、意地張るのもいいかげんにしなよと諭してきて、それはそれで癪に障った。前田の家を出たまま「意地張って」戻らない奴に言われたくないものである。
しかし元就のことは、考えれば考えるほど気が重くなった。
それとなくさまざまなところで聞いてみても、たいした情報は得られなかった。毛利は他国とほとんど接触をもたないため、内情がどうなっているかは忍びでもわかりづらいという。風来坊の慶次の情報はもっとも信頼できるものかもしれなかった。
(・・・病気?毛利が?)
神頼みなぞ大嫌いな元就がわざわざ写経を納めたなら、よほど具合が悪いのかもしれない。そう考えると、矢も盾もたまらず、元親は船に乗れず港で立ち尽くした。野郎どもが不思議そうに、アニキどうしたんですと訊いてくるが、元親は曖昧に頷いて船の桟橋に足をかけ、―――そして、やめた。
「悪い。俺、ちょっと中国に行ってみるわ」
それでも、先日の喧嘩はまだ元親の記憶に新しい。気まり悪いのは抜けきらず、船でいつものように港へつけることはせず陸路を辿ることにした。



元就が写経を納めたという寺を、元親は領民から聞きだして立ち寄ってみた。
僧は元親の問いかけに丁寧に答えてくれた。すなわち、元就が写経を納めたのは本当であった。元親は眩暈を感じた。ひょっとして、と不安を抱えたまま、おそるおそる尋ねてみる。
「・・・どうして毛利のあるじは急に写経を?どこか具合でも悪いのか」
僧は穏やかに笑顔で応えた。
「あぁ、この写経は違います。ご祈祷は、ご友人の無事でして」
「―――は?」
元親は呆けた返事をした。僧は気づかず続けた。
「お止めしたのに航海に出たきり戻ってこられないそうで。迷惑なご友人ですな、ははは」
「・・・・・・」
元親は我知らず赤面した。「迷惑なご友人」その人は、誰あろう自分かもしれないと思うといたたまれず、俯いて出された茶を口に含んだ。
僧は、しかしあの氷の面をお持ちの方が珍しいことだと、領国では少しばかり噂になっておりましてと小声で言った。元親のように他国から尋ねる者もいるということだろう。
「じゃあよ、・・・毛利のあるじは元気なんだな?」
けれど、その質問への返答はなかった。最近は風冒も流行っておりますなと曖昧な言い方をして、僧は席を立った。
元親は寺を出た。



元親は部下に調べさせた。元就が病に伏せっているのはどうやら本当らしかった。再び元親の心は曇った。早晩死ぬようなものではないが、健康でないことは間違いない。
写経は元親のためのものだったのだろう。
けれどそれと別に、元就は確かに具合が悪いのだ。
元就は自分のためになにかを祈ったりはしないことを元親は思いだした。―――いや、他人のことでも。
(けど、もしそうなら・・・)
「迷惑な友人」のために、元就がした行動は、奇跡のようなことだ。
(・・・このまま、会わないまま、毛利が死んだら?)
考えた途端、足元に暗い穴が開いたような気がした。



元親はその夜、ようやく意地を折ることにした。
供の者に命じて、毛利へ使いを出した。
すぐに、おいでくださいと毛利からも遣いが来た。





三か月ぶりに通された部屋は以前と何も変わっていなかった。
けれどそこに端座する部屋の主人は、燭の薄暗い室内でもはっきりわかるほどに前見たときより痩せていて、元親は申し訳なさに歯を食いしばった。
元就は淡々と元親を見ていたが、やがて口を開いた。
「久しいな、鬼よ」
「・・・・・・」
「さても情けなし。偽物の蓬莱の玉の枝すら持ち帰れなかったと見える」
痛烈な皮肉だったが、元親は怒る気もしなかった。元就ににじり寄ると、肩を片手で掴み、もう片方で額に手を当てる。
肩は肉が削げて薄く、そして額は驚くほどに熱かった。
「・・・熱あんじゃねぇか。なんで座ってやがるんだ、さっさと床に入れっ」
「・・・貴様のような輩でも、とりあえずは客人ぞ。礼儀にのっとって迎えたまで」
「ごたくはいいから、とっとと寝ろって言ってんだ!!」
元親は強引に元就に腕をのばすと、細い肢体を掬いあげるように抱きかかえた。普段ならば絶対にこんな―――女性かぐずる子供を抱えるような―――抱き方をされたら元就は怒り心頭しただろうに、今日は黙って何も言わずされるがままだった。よほど辛いのだろうかと元親は悲しくなった。重さを感じられない体を抱き直し、ちゃんと飯食ってんのか、と訊いてみる。答えはなかった。
「喰ってねぇのか。だから治らねぇんだぜ?」
「・・・・・・」
「どうせあれだろ、喰ってねぇのに、寝ないで仕事ばっかしてたんだろ。・・・それから、・・・写経とか、・・・」
「・・・・・・」
返事はない。さりげなく核心をついたはずが肩透かしをくらって、―――というより無視されたように思ってしまい、元親はひとり赤面した。誤魔化すようにひとつ咳払いをして、子供を諭すような口調で言った。
「・・・ね・・・寝ろ。寝るのが一番だぜ、毛利。寝て、起きて、喰って、また寝るんだ。当分それ以外するんじゃねぇよ、な?」



元親は元就の寝室に入り、腕の中の体をそっと寝かせた。
「―――、」
気づけば元就はすでに眠っている。骨ばった指が元親の衣服を掴んでいて、それに気づいた瞬間元親はぎゅっと胸の奥を掴まれたような気がした。
指を離してしまうことが惜しくて、自分もそのまま元就の隣に転がった。寝息は規則正しく乱れることはない。元親はほんの少し安堵した。
世話役の近習が襖の向こうから声をかけてきたので元親が返事をした。入ってきた近習は、眠っている元就を見て驚いた表情をした。元親が尋ねてみれば、果たして元就はここ数週間ろくに寝ていなかったという。そりゃあ具合も悪くなるだろうぜと元親がぼやくと、年老いた近習は笑顔になって、しかしお眠りになられたのでもう大丈夫でしょうと言って下がった。
誰もいなくなってから、元親は元就の頬に指先で触れた。何度かつついてみる。ひどく深い眠りに浸っている元就はまったく起きる気配すらない。元親は少しずつ指先を動かして元就の皮膚を辿っていく。うなじに手を差し込み、自分の方へ頭を引き寄せた。鼻先に当たった元就のぽかぽかした頭は、三か月前に共寝したときと同じ日なたのような匂いがした。三か月。
三か月もよく耐えたものだ。こんな大事な者をほったらかして。
俺は馬鹿だなぁと、元親は呟いて低く笑った。笑うと涙が滲んだ。鼻先を、そのまま何度も元就の髪にこすりつけた。犬がじゃれているようだと、前に元就に怒られたっけ。犬っころのほうが、けれど素直で元親より賢いかもしれない、些細なことで意地を張って大事な元就を置いて無茶な航海になんか行くはずがないのだ。こうやって具合悪くなっても気づかず意地をはって、無事に戻ったと連絡もせず、―――心配させて。
心配してくれたのだろう。
元就自身が気づいているかどうかは定かでなくても。
「・・・毛利、毛利、毛利」
続けて呼んで、元親は元就を抱きしめた。
宝を取りに出かけた者たちは愛しい姫君の心を得られなかった。何も贈らずとも、傍にいて心を通わせた男一人だけが心通じた。最後は別れが待っているとしても―――
「毛利。俺の意地っ張りのために、体壊すまで無茶すんじゃねぇよ。・・・あんたも相当意地っ張りだぜ」
元親はつぶやいて、笑った。
「けど、まぁ、いいや。・・・あんたはそういう人だもんな。俺は、―――俺がちゃあんと、あんたのほうに寄ってくからよ。だから」
目を上げると、元就の仕事をする小卓の上や脇に、広げられた書きかけの経典の文字が燭の火影にゆらゆらと揺れていた。元親は目を閉じた。



「あの文字千巻分を書いてくれたんなら、・・・俺に歌ひとつ、手紙ひとつでいいから、あんたも送ってくれよ。いつか、―――いつか、でいいから。俺は待てるぜ。なぁ、毛利」




>「チカナリで アニキが航海に出ようと思ったら大荒れで出れなくて 仕方なく戻ってきたら元就さんがひっそり心配していました みたいなのを読みたいです」
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