サクリファイス





(後)


 短い面会は終わり、そして最後になった。家康が返答した後、荒々しく襖が開けられ、其処に秀吉が入ってきたことですべての側近は外に出されたのである。半兵衛もそれを望んでいただろう。死んでゆく瞬間くらいは、稀代の天才軍師としてではなく、大事な者の「ひとりの友人」としていたいに違いなかった。



 家康と三成は黙って、今出て来た建物の面した広大な庭の一隅で二人、星空を見上げていた。三成はすでに泣きやんでいる。・・・ただその表情に生気は無く、何処か虚ろな眼差しは落涙こそ忘れていたが何かを探すように時折不安げに足元を見、そしてまた空を見る。その繰り返し。
 家康はやがてひとつ息を吐くと、近くにあった庭石に腰かけた。三成が家康をちらと見る。家康は隣の石をぽんと叩くと、殊更に、いつもどおりの屈託ない笑顔をつくってみせた。
「座れよ、三成。突っ立ってたって疲れるだけだろ」
 三成は眉間にしわを寄せた。
「・・・・・・半兵衛さまが、あんなに苦しんでおられるのに・・・ッ、私だけ、のうのうと座っていられるものか!」
「・・・・・・あのな、三成」
「いっそあの病を、私が引き受けられたらよかったのに・・・」
 苛立った、切ない声だった。家康は短髪をくしゃりとかきまぜ溜息をついた。この青年は大事な者の痛みを全部同じように背負いこもうとする。普段の傍若無人とも見える振る舞いや言動しか知らない者にはわかるまい。そも当人がわかってもらおうとも思っていない。――ーだから家康は、彼をほうっておけない。
 やや声を大きく、家康は諭すように言った。
「お前がそこで馬鹿みたいに突っ立ってたって、半兵衛どのの病も苦しみも無くならない。半兵衛どの、自分が苦しいのにあんなにお前のこと心配してくれてたじゃないか」
「・・・・・・」
「なのに、病気を引き受けたいなんて罰あたりなこと言うもんじゃない。半兵衛どのはそんなこと望んでないんだ。・・・お前は、半兵衛どのや、秀吉様や、皆を。心配させないように振る舞うべきだろ?そう、ワシは思うが」
「―――」
 三成は瞬きをして家康を見た。それから何かを振り払うように頭をゆるく左右に振り、黙ったまま家康の隣に来て腰を下ろした。秀吉や半兵衛のことだとこうも素直になれる、そんな一面がこの友人にはある。いつか自分に対してもこうやって心配してくれるだろうか――ー、と詮無いことを考え、家康は苦い笑いを噛みしめた。ゆっくり腕を伸ばすと、隣の三成の肩を抱くようにして、何度か軽くその薄い肩を叩いた。
「また痩せたな。お前、ちゃんと飯食ってないだろう」
「・・・・・・忘れるのだ。色々考えていると」
「またそんなこと言う・・・刑部も心配していた。配下の兵士も。なにかあるごとに上に立つお前がそんなことでどうする。なぁ、三成―――」
「家康」
 か細い声がぽつりと呼んだ。家康は黙った。俯いたままの三成の肩が震えた。
「・・・どれだけ必死に最善を尽くしてきても、避けられないものがあると知っている。でもそのたび後悔せずにはいられない、私は」
「・・・・・・三成」
「後悔したくない。失いたくない。壊したくない・・・今が、このまま・・・このまま・・・何故、止まらない・・・!!」
 白い手で自分の銀の頭を抱え込んで、三成は道理を知らぬ子供のように我儘で理不尽な、心からの本音を、ただ血を吐くような苦痛とともに言葉にする。
 ―――思い通りになど、ならないのだ。いつだったか黒田官兵衛が三成と口論になり結局退けられたとき、吐き捨てた台詞を家康は思いだした。“思い通りにならないで悔しがるお前さんを、いつか見てみたい”と、黒田はそう言った。短絡なことだと家康は思う。三成はこんなにも思い通りにならず泣いて、痩せていくのに。
 どれほどに栄華を極めても、栄光の先に立っても。手の届かないものはいくらでもある。手をすり抜けていくものはもっとある。家康もそれを知っている。おそらくは三成よりもずっと理不尽なものに苛まれて堪えて、耐えて、生きてきた。だから、簡単に手に入れたものを投げだせないことも十分に知っている・・・



 家康、とまた呼ばれた。ぼんやりとまた星空を見つめていた家康は、呼んだ友人を見た。
「なんだ?」
「・・・貴様、先程、半兵衛さまに言ったな。承知した、と」
「―――」
「私はこれからも、豊臣のために生きる。貴様もそうやって生きろ」
 ぐっとこみあげたものを飲み込んで、家康は少し視線を逸らした。あのとき誤魔化した自分の暗い心を抉りだされる恐怖に慄き、三成の真っ直ぐな目を見ることができない。助けてくれるのだろう?とその目は訴えていた。
 家康が“承知した”のは、「三成のことを頼む」と・・・その一点のみだった。豊臣のために生きると誓った覚えは無い。それをこの場で言わされることは避けねばならなかった。今度こそ友人を偽ることになってしまう。
「・・・三成。誰かの、なにかのためじゃなくて。お前は、お前自身のために生きろよ。・・・それでいいはずなんだ」
「・・・そんなことは聞いていない!こたえろ、家康。私と同じように、豊臣のために生きると――ー」
 三成の表情が苦悶に歪む。



「・・・私を、助けろ」



 頼む、と、続けて小さな声がして、再び先程のように、白い額が家康の肩に寄せられる。家康は落雷にあったように、もう動けない。
 風に煽られ、篝火がぼうと一斉に燃え盛る。命尽きる前の足掻きのようだと考えた直後、たった今出て来た奥の間から秀吉の吠えるような号泣が響いた。三成は弾丸に撃たれたように顔を上げ、立ちあがった。家康もまた、呼吸することも忘れ、声の響く建物の一角を見つめた。
「―――半兵衛、さま・・・ッ」
「三成!」
 よろよろと歩きだす三成の手を、家康は掴んだ。振り返った三成の面は怒りなのか哀しみなのか、いっそ幽鬼のように壮絶で家康は一瞬気後れして手に籠めた力を抜いてしまった。三成はその隙に家康の手をふりほどくと、半兵衛さま、とうわごとのように呟いて歩き続ける。いくらか近づいて――ーかくり、と膝を折りその場にくずおれた。家康は慌てて駆け寄るとぐいと彼の腕を引いた。
「おいっ、三成っ」
「・・・どうして、どうして!何故だ!?何故半兵衛さまが・・・まだ、生きていてほしかったのに、・・・あの方も、生きていたかったはずなのに・・・!!!何故だァ!!」
 髪をかきむしり、三成は地面に突っ伏して慟哭した。家康はどうしていいかわからず、三成の背にそっと手を置いた―――その瞬間、三成はがばりと顔をあげ、家康の胸倉をつかんで力いっぱい地面に引き倒した。突然のことに対処もできずもんどりうって倒れ、家康は低く呻いた。後頭部を擦って目を開けると、ぽたりと温い水が自分の頬に、唇に、落ちた。
 家康に跨り、三成は涙を堪えることなく、泣いていた。
 家康は両腕を差し伸べた。無我夢中で目の前の青年を抱き寄せると、その頬に、額に、鼻先に、瞼に、何度も口づけた。やがてふと触れた柔らかい唇に吸い寄せられるように、家康はおずおずと自分の唇をそこへ軽く当てた。三成は抵抗しなかった。押し黙ったまま、されるがままに家康の触れる熱をすべてすくいあげようとするように、じっと瞼を閉じている。ただその閉じた睫毛から涙だけが滲む。家康は少しずつ、少しずつ、強く彼の唇に触れ、啄み、やがて吸った。三成はそれも抵抗しなかった。待っていたように唇をあけて家康の舌先を食んだ。
 しばらくふたり、転がったまま互いの口を無心に食見続けた。
 ・・・やがて、三成は身体を離した。もう取り乱してはいない。
「・・・こたえろ、家康。私のこの慙愧の念は・・・半兵衛さまの無念だ。私がこれから背負う。でも、私ひとりでは、無理だ。何処へ往きつくか見えない」
 家康は食い入るように三成を見つめた。家康の目の前で、三成は涙を手の甲で拭い、どこか苦しそうに、笑った。
「だから、答えろ。此処で、誓え。さっきと同じように、今度は私に・・・私を助け、豊臣のために生きると」
「―――」
 家康はかき抱く三成の背に置いた手に、力を籠め、擦った。翼を模した模様の刺繍の糸がざらりと指に感覚を残した。
(この翼は、空を飛ぶためのものではない、のか)
 三成の背の羽は翅鳥(しちょう)なのだ。
 それは鎖だ―――逃げ場を奪う。羽ばたくためではなく、彼を捉えるために。半兵衛の願いが滓のようにひそやかに滴り続ける此処に縫いとめるためにあるのだと家康は気づき、唇を噛んだ。死にゆく者とかわす約束は何よりも重く、鉛のように昏く、永劫の枷となって三成を縛るだろう。秀吉のために生きる、それが三成は己の願いだと信じて疑わない。家康は疑う、はじめからそうでは無かった筈だと。豊臣の贄となるべく(そう家康は思った)生まれ生かされ育てられ、此処に立っている“友人”は、本来はきっとそんなものを背負う強さなぞ持っていない。繊細で、純粋で、誰かの背中を追いかけるしかできない。泣いて母を呼ぶ子供のようだ。前に誰かが立って振り返って、彼を導かなければいづれ彼は道を失う。
「三成、・・・ワシは」
 ―――ふいに目の前に、半兵衛の、今はもう動かないであろう血の気のない唇が薄く笑うさまが見えたように思えて、家康はぐっと言葉を飲み込んだ。“君にできるのかい?”・・・以前何度か聴いた、挑発的なあの声が耳元に蘇った。
家康の肩に額を凭せ掛けていた三成はゆるゆると貌を上げた。なんだ?と蒼褪めた面で、必死に、家康を見つめていた。
(約束なんか、できない、と―――)
 家康は、言わなければならなかった。大事な友人に嘘をつきたくなかった。豊臣のために生きる、そんなことが自分にできるはずはなかった。少し考えれば三成にだってわかる筈だと家康は少しばかり哀しく思った。家康は織田家の人質だった頃から彼を支えてくれた家臣たちがいて、彼らを守り報うために生きねばならなかった。誰かのためにと言うなら、それこそが主君の本懐だと―――
 三成には、けれど、分からないのだ。
 そういう男だ。彼にとっては豊臣がすべて、秀吉がすべてだった。家康のことも、豊臣の一員だから視界に入れてくれているだけなのかもしれなかった。たとえそうだとしても家康は満足だった、三成と友誼を結べたこと自体が奇跡に近いと知っている。彼がこうやって自分に頼ってくれる。例えば三成を知ったばかりの頃の自分ならば、どれほどに今の状況を喜んだだろう?
 勿論、今の家康も、そう在れることを嬉しく思いながら、けれどどうしても相容れないものがある。どんなに家康が三成を大事に思っていても、好ましく思っていても、辛い思いをさせたくないと願っていても。
(豊臣のために生きることは、できない、と・・・ワシは、言わねば)
「―――家康」
 呼び掛けられ、家康はすぐ傍にある三成の目を見つめた。先程勢いに任せて吸った唇は温かく濡れて、愛おしいと家康は思った。守ってやりたい。突き離したくない。どの選択を手にしても二人に通じるものを―――約束、を。
 永劫に二人を縛る黒き鎖を。
 豊臣の贄とならんと自ら望む、この透明な青年を―――家康はつなぎとめたかった。
 豊臣のために生きることはできない。けれどそれを彼に告げることもできない。できることは彼を励まし、彼に、己が此処にあるのだと確かめさせることだけだ。彼の視線をたった今半兵衛が飛び去った虚空へ向けてはならなかった。
「三成。・・・ワシは、いるから。お前の前に、・・・」
 それだけ。それしかできない。非力さに気が遠のく。友人の願いひとつ叶えてやれない。
 それでも―――
「・・・どんなになっても。ワシは、お前が来るのを待っていてやる、から」
 それを聞いて、震えながら嗚咽を零す三成の痩せた身体を抱いて、家康は何度も、何度も、その耳元に囁いた。非力な己を無様と哂いながら、けれど嘘ではないと強く強く、大事な人に、そして自分に言い聞かせた。
「だから、ワシの背を―――追いかけてこい。ずっと―――」



 東の空が暁の色に染まり始める。
 家康は三成を抱いたまま空を振り仰いで眼を細めた。冷たく動かない身体を捨てて自由になった天才軍師が、かすかにこちらを見下ろして笑んだように思えた。あとを託した者たちへの慈しみか、それとも挑戦か。
(半兵衛。・・・ワシは、諦めない)
 家康はきつく、三成を抱きしめる。
(ワシはいつか天下をとる。戦火を消してみせる、・・・そして、・・・いつかきっと)
 泣きじゃくる三成の顔を再度覗きこみ、家康は先程よりほんのすこしやさしく彼の唇を吸った。三成は今度も抵抗せず―――ただ甘える子供のように、泣きながら、家康の口づけに応えていた。



(―――きっと三成を、お前の呪縛から自由にしてみせる)