サクリファイス





(前)


 篝火の爆ぜる音に顔を上げた。
 視線の先には見慣れた貌が在る。日頃は撫で斬るが如く硬く冷たい視線を送ってくる眸は、長めの前髪に隠れてよく見えなかった。腕組みをして椅子に腰かけていた家康は、ふと覗きこむように座ったまま彼の―――三成の表情を探った。
 前髪のつくる影の下で、切れ長の瞼を縁取る睫毛が明らかに濡れていて、家康はばつの悪そうに俯いた。何も見なかったことにしよう、そう考えて腕組みを解くと膝に手をつき、深い息を吐く。立ち上がろうと脚に力を入れると同時に、弱弱しい声が頭上から降ってきて己の名を呼んだ、家康は弾かれたように面を上げた。
「―――さま、が、貴様を呼べと」
「・・・・・・」
 来い、と命ずる声はさらに弱く掠れていた。家康はごくりと唾を飲み込み、ひとつ頷いた。三成は表情を変えず黙ったまま身を翻した。その背を追いかけるために立ち上がると家康は密かに吐息をついた。こんな非常の時にもよく見知った限りなく白に近い薄色の戦装束の背で、下がり藤にも似せた翼の刺繍が鈍く光る。
 非常時だからこそ甲冑を纏わねばならぬ友人を哀れに思った。
 天下人・秀吉の右腕、最高司令官にして軍師、そして親友・・・どれをとっても誰も為り変われぬであろう位置にいる天才が、ひっそりと命の頁を紐解くのをやめようとしている。



「やあ、よく来たね―――家康君」
 声は恐ろしく透き通っていて、家康は一瞬身震いして発した主を見つめた。
 時代と、生きる世界の掟のせいで、武士(もののふ)は安楽に死を迎えることをよしとせず、またその機会はほぼ与えられない。だから、家康自身、身近な者を屋根のある場所で浄土へと見送った覚えはほとんど無かった。死はいつも唐突に、足音もたてずにやってきて魂を強引に引き摺りだし奪って、高笑いして去って行く。・・・そんな印象を持っていただけに、ゆっくりと影のように、けれど確実に忍び寄る“そのとき”を待っている者と対峙するのは、もしや初めての経験かもしれなかった。
 床に伏せた半兵衛の顔色は以前会ったときのそれよりもさらに白かった。唇だけがぬらりと紅く見えるのは血色のせいではなく、時折彼が吐く鮮血のせいだろうとわかり、痛ましさに思わず家康は視線を逸らした。
 どこか苦笑めいた息を吐いて、目の前に横たわる半兵衛はやせ細った腕を家康と三成のほうへ、畳の上を這わせるように差し出した。押しいただくように、家康の隣にいた三成がその手を取った。もうそれだけで情感の豊かな三成は泣いているのだと家康はぼんやりと思った。骨ばった手は肉も削げてうすく、これがかつて滑らかにしなやかに関節剣をあやつって縦横無尽に策を下知していたあの手なのだと時の過ぎた事実を茫然と家康は理解した。
 家康の耳に以前聴いた半兵衛の声が蘇った。・・・直接刃を交えたときだ。
“家康君、君には可能性がある。・・・もしかすると、天下を掴むことができるほどの”
“だからワシをつぶすのか!?”
“その通りさ”
「―――半兵衛さま。ご命令どおり、家康を連れてまいりました、・・・私は下がったほうがよろしいでしょうか?」
 三成の声に思い出の声はかきけされ、家康は我にかえった。
 半兵衛はにっこりと笑った。そのまま空気に融けてしまいそうなきれいな笑顔だった。いいんだよ、三成、君も此処にいてくれたまえと言われて三成はそっと安堵したようだった。少しでも多く傍にいたいのだ。半兵衛は三成の恩師で、兄のような者だった。今の三成をつくりあげたのが半兵衛だと家康は知っている。・・・秀吉のために生きてきた半兵衛の分身とも言える、三成を。
 半兵衛は三成に手を預けながら家康を見つめた。戦場で彼を印象付けていた仮面は今は勿論なく、其処にいるのはか細い花のような―――今しも散ってしまう―――ただの青年でしかなかった。 けれど儚げな、と言えばきっと半兵衛は怒り反論するだろう。その視線に宿る焔に家康はそんなことを思った。誰よりも濃密な刹那を生きた自負があるに違いない。そうでなければこうやって天に召されようとしている瞬間に、腹心といえる豊臣恩顧の者たちではなく、いくつもの複雑な事情を互いに持ち探り合ってきた“政敵”家康を・・・今はたとえ豊臣の下風にいるとしても。わざわざこの場に呼びつける筈もない。
「ね、家康君。・・・僕はもうすぐ死ぬ。だから君に、頼みたいことがあって」
 重い頸木のような言葉に家康は応えず、じっと半兵衛を見つめた。半兵衛は苦笑したように見えた。僕がそんなに嫌いかい?と聴こえたような気がした。
(嫌いなわけではないのだ、半兵衛殿)
 家康はひとり内心で答えた。
 此処に彼が家康を呼んだことは理解できる。家康も逆の立場ならばきっとそうしたに違いなかった。死人となりつつある者に多少の無茶を言う権利もあろう、振る舞いも。けれど家康がたったひとつ半兵衛に言ってやりたいことがあるとすれば―――どうして人払いをせず・・・三成をこの場に残しておくのかということだけだった。家康はそっと隣の三成を見た。やはり目元は濡れていて、必死に声を噛み殺しているのだとわかる。友人の悲哀を痛感して、家康はためらいがちに提案した。
「・・・頼みならば、なんなりと。承ります。・・・ですが、先に三成を・・・治部殿を落ち着かせてやっていただけませぬか。ワシなどよりも、どうか三成とじっくり話を―――」
「それは、駄目だよ。だって僕には時間が無い。・・・同じ話を二度もする力はもう無いからね」
「―――」
 家康は声を飲み込んだ。三成も目を瞠って、交互に半兵衛と家康を見ている。
 次に半兵衛が言うであろう言葉を瞬時に理解して、家康はさえぎろうと身を乗り出した。聴く前に此処を立ち去ろうと思った。“聴かなければ”、あとでどのように三成になじられようとなんとでも言い訳はできるのだ。
 でも、半兵衛はそれを許さなかった。



「ねぇ家康君。・・・これからは君が“三成と一緒に”、豊臣を守ってくれたまえ。君にしか頼めない」



(・・・嗚呼、)
 たった今、振り下ろされた“言葉”は、・・・“呪縛”は鉄槌の如く家康を打った。家康は泣きだしたくなるのを耐えるため奥歯を噛みしめた。この人は死に往くこの瞬間に、なんという非道いしうちをするのかと半兵衛を恨んだ。重い楔を自分と三成の間に打ち込んで。二人を繋ぎもし、引き裂くこともできるもの。
 三成が決して半兵衛の言葉に逆らわず、従順に、命尽きるまで従うことを知ってなお投げかける残酷さに家康は眩暈を覚えた。
 家康がまだ豊臣への臣従を内心よしとしていないことも、当然半兵衛は知っている。・・・それと同時に家康が、三成に尋常ならざる思いをかけていることも。秀吉と半兵衛と豊臣家にだけ心血を注ぐ三成が、少しずつ家康にも心を割けるようになっていることも。二人の間に少しずつ、普通の友情が芽生えはじめていることも・・・
(それすらも、・・・ワシと三成の友誼さえも。もしや―――利用、する、つもりで?)
 最初に三成に引き合わされたときを家康は思いだしていた。半兵衛に見合わされたのだ。あのとき家康は三成をとりまく不思議に清冽な空気に圧倒され目を奪われて、半兵衛が何を自分に言ったのかよく覚えていなかった。・・・それを今鮮やかに想いだして、家康は自分の迂闊さに拳を握りしめた。
 同じことを、言ったのだ。
“三成と一緒に、豊臣を守ってくれたまえ”と―――
(もしやあのときから、・・・ワシも、三成も?この人の手の上で?)



 反論が許される筈も無かった。三成は感極まったように嗚咽を漏らした。日頃の刃のような彼はそこには無く、ただ去って行く大事な人を前に泣きじゃくる無力の幼子がひとりいるだけだった。三成の俯く先の膝も、畳も、半兵衛の手も。ぼたぼたと落つる涙に濡れていた。家康、と、それでも三成は呼んだ。家康は動けない。三成のきれいな視線が自分を捉えるのを馬鹿のようにただ待っているしかできない。
「誓え。誓ってくれ、此処で、半兵衛様のために・・・私と共に、生きると。豊臣のために」
「―――ワシは」
 家康は声を振り絞った。死に往く者へ嘘をつくことは冒涜ではないのか。生き残る者を欺くのはウラギリではないのか。では死にゆく者へ本当のことを言って彼のこころを乱し、生き残る大事な友人を怒らせ悲しませるのは?
「家康、」
 頼む、とまた切に声がする。家康は俯いていた顔を上げた。
 ・・・目を、瞠った。
 半兵衛の手を握っていた三成は、いつの間にか家康の肩にその手をかけていた。唖然と家康が見つめる中、三成は涙に濡れた顔をゆっくりと家康の肩におしつけた。それから逞しい背におずおずと触れて、強く、抱いた。突然のことに家康は何も言えず、動けず、耳元に響く三成の呼吸にただ耳を澄ました。頼む、私を、と声が呼ぶ。家康を呼ぶ。
 半兵衛を、家康は視た。三成が家康に必死に縋り抱きしめるのを、半兵衛はどこか穏やかな目で見つめていた。そこに深遠な策謀はあるのか、それともどこか脆い幼い大事な“弟”を預けられることに本当に安堵しているのか、もう家康にはなにも分からない。
「ほら、・・・三成も、ね。確かに刑部もいる、優秀な部下はほかにもいるけど・・・君を頼りにしてる。・・・頼んだよ。秀吉を、豊臣を・・・そして」
 “―――三成を。”
 最後の言葉に、家康はようやくゆっくりと身体の力を抜いた。縋る三成の背を自分も片手でそっと抱くと、もう片方の手で銀色の頭髪を何度も梳いて、撫ぜてやる。
「・・・承知、した。かならず――ー」
 なにを、とは、敢えて言わなかった。これは嘘ではないのか、と己の良心が悲鳴を上げたが、ただその痛みを飲み込んで家康は三成をひたすらに抱きしめていた。