秘密





薄暗いその場所は最初あまりに光が乏しくて、先ほどまで立っていた場所の強烈な南国の日差しとのちがいに元就の瞳孔は悲鳴を上げる。思わず目を瞑った。
「こっち、こっち」
手招きする声はまるで気にもしないふうに、きゅっと目を瞑って立っている元就から遠ざかる。待て、と言おうとしたはずがうっかり手を伸ばしてしまった。ごく自然に指先が掬い上げられ絡めとられる。あ、と思ったが相変わらず声は、こっちだこっち、と楽しそうに歌うように告げながら元就を誘(いざな)っていく。
足袋の先にこつんと何かが当たる。ようやく元就はすこしだけ目をあけて暗がりに慣れようと瞬きした。それより先に、奥へ進むにつれて気づいたのは硝煙の微かな匂い。さらに鉄屑を削ったような独特の錆びた匂いが鼻をつく。壁や床に残る落書きとおぼしき墨の跡。あとは------
(・・・船と潮の香?)
今自分の手を引いている男の香りだと、ふと思った。



天窓から柔らかい帯となって光の差し込む場所までたどり着く。元就が歩くたびに小さな埃が舞うのかちらちらと日光が反射して踊る。掃除の行き届かない部屋が嫌いな元就だったが今日は何故か腹立たしいとも思わず、ただぼんやりと口をあけてそのさまを見ていた。
床に目を落とすとひたすらに散らばる、元就にはよくわからない何かの欠片。
「お、懐かしいモンが」
はしゃぐような声がした。
元就が振り返ると、元親は長身を折って床に転がる何か歯車のようなものを拾い上げた。元就の方へ差し出す。
「俺がはじめて自分で削り出したやつだ、うん、間違いねぇな」
「・・・同じようなものがあちこちに転がっておるではないか」
元就は少しあきれたように呟いた。言外にそれがはじめての、だと何故分かるのかという皮肉が篭っている。元親は気にするふうもなく、懐かしいなァ、結局均等に出来なくてどうしたもんかと頭抱えたもんだ、と笑った。
それから、また違うものを手に取っては面白そうに眺めた。元就は黙って首を傾げた。
狭い部屋の中で長身の元親は窮屈そうに背を丸めている。けれどとても楽しそうだ。きっとこの背中は何年か前、もっと小さくて華奢で、でも同じように楽しくて仕方ないこころを隠すことなく、同じように床に屈みこんで此処に在ったに違いない。
見えるようだ------
(欠片が)
奴の時間の、欠片が。
と考えて、なにを莫迦なことをと元就は小さく口元を歪めた。



「------で、見せたいものとはなにか」
此処に入った目的を思い出し、元就は口にしてみた。
月に一度の会談------多分にそんなことを決めたのは元親で、元就は承諾した覚えもないのだが、律儀に日取りを守って互いの領土を行き来している------の際に、元親が唐突に立ち上がったのだった。
『あんたに見せたいモンがあったんだ』
何かを思いついたときの元親はほんとうに子供のように躊躇がない。それが昼食の最中だろうが来客中だろうが、たとえば深夜であったとしても。
呆気に取られている元就の手を引いて立たせ、こっちこっち、と屋敷の外れまで連れてこられたのだった。増築を繰り返した山城は(毛利の城も同じであったが)母屋以外はところどころ古かったり、新しかったり、通路が突然途切れていたり造りかけの建物や階段があったりして、ずっと昔兄や弟と「探検」と称して屋敷内を歩き回り迷子になったことを元就に思い出させた。
やがて行き当たった小さな小屋はいまにも崩れてしまいそうに見えたが、鍵のかかった引き戸は元親が触れると滑らかに開いて元就を招き入れたのだった。それが少し前。
「・・・あん?」
元親は床にしゃがみこんだまま、元就を肩越しに振り返った。吃驚している。
元就はまた首を傾げた。
「我に、見せたいものがあったのであろう、貴様。途中で席を立ったはそのためと申したではないか」
「当然、そうだぜ?」
「だから、なにを」
少し苛ついて元就は半歩前ににじり出た。ふわりと埃が舞って、少し咳き込んでしまった。元親はそれを見て慌てて立ち上がった。
「あぁ、すまねぇ。この部屋はずっと手入れしてなかったから埃がひでぇな。なんだかんだでなかなか最近じっくりモノ作る暇もなくってよぅ、まぁこの場所におさまりきるモンを最近作っちゃいねぇんだが------」
「だから」
元就は口元を掌で覆いながら、元親を見上げてちょっと睨んでみた。
「なにを、見せたかったのかと聞いておる。どこにあるのか。よほど大事なものであろう?」
「なにって------」
参ったなァ、と元親は白銀の頭をがしがしと掻いた。
「・・・この、場所を、見せたかったんだけどよ?」



------雑然としているのはこ奴の頭の中らしい。
元就はぽかんと目の前の困ったような表情の長身の男を見上げると、やがて肩を竦めて踵を返した。
「おいおい、ちょっ、と、待てよ毛利!」
「・・・さっさと戻って先ほどの会談の続きをするぞ、長曽我部。」
入り口へ向かって何枚か建付けのすっかり悪くなった襖をすり抜けていく。
「貴様はどうにも当主の自覚に欠けておるな、我もそろそろ四国との同盟を考え直す時期か」
「えっ、何冗談言ってンだよ、縁起でもねぇな」
「ならば時と場所をわきまえるがよかろう、一体何を大急ぎで見せるつもりかと思うたら------」
そこまでまくしたてたところで、ぐいと腕を後ろから引っ張られて元就は眉をひそめて振り返った。
元親は困ったような表情で、でもよ、と言い募る。
そういう表情は、実は嫌いではない。



「でもよ。あんた、いつも忙しいだろうが。俺ァ、ずっとあんたを此処へ連れて来たかったんだ、でもいつも忘れちまって。思い出したから今しかねぇと思ったんだ、毛利」
「・・・・・・」
「此処はよ。子供の頃の俺の隠れ家ってぇか、基地だったんだ。誰にも秘密の。あの鍵、俺が作ったんだぜ、野郎共の誰も入れたこたぁねぇんだぜ?」
まるで政(まつりごと)の重大事のように息を潜め声音を低くして、うんと元就に顔を近づけて、そう言うのだ。
・・・あぁ、やっぱりこ奴は子供だ。
大事な秘密を共有するんだ、おまえはだいじなやつなんだ。そんな声が聞こえる。元就は声も出ない。
「・・・・・・」
「だから、一回あんたにどうしても見せたくって」
「・・・・・・」
「あんただからさ。わかるだろ?」
「・・・」
「・・・毛利?」
「・・・・・・ッ」
元就は弾かれたように元親に背を向けて俯いた。なんだこの感覚は。こみあげるせりあがる------苦しくて。
「おい、おい?毛利、どうした?」
「・・・き・・・貴様はッ・・・」
やっとのことで声を振り絞ると、元就は手を口元へ当てた。そうしたらふぅと大きな呼吸が腹から出た。呆気に取られる元親の目の前で、元就は、体を震わせ、身をくの字に折って笑い始めた。
何年ぶりか。
大声を出すわけではなく、ただひたすらにくつくつと声を押し殺しての笑いだが、一旦笑い始めるととまらなくなった。元就はその場にしゃがみこんで、しばらくの間抱えた膝に顔を押し当て笑っていた。
元親の心配そうな声がやがて申し訳なさそうに聞こえた。
「あのよぅ・・・毛利?大丈夫か?笑ってんならいいけどよ、どっか痛いんじゃねぇのか------」
「・・・貴様は、阿呆か?」
笑いの発作がやっと治まると元就は顔を上げた。
もう、いつもの涼しいかおをしている。
「まぁ、よいわ。貴様が阿呆だということがますますよう分かった、さて会談の続きをしようぞ」
立ち上がり、あっという間に元の白皙の表情に戻ってしまった元就に、しばし呆然と見とれていた元親は、慌てて後を追って小屋を二人出た。
元就の後ろで鍵のかかる音がした。



なんであんなに笑ったんだ?
聞かれて、元就は隣を歩く元親を見上げた。
「・・・あのような場所を見ずとも、我は貴様のことはよう分かっておるわ、長曽我部」
「は・・・」
「貴様、ほんとうに童の頃から変わらぬのだな。あの場所はただ広くなってこの城になっただけではないか、己で気づいておらぬのか」
「え、いや・・・」
「・・・まぁ、面白かった」
面食らったように一つ目を瞬かせる元親を見て元就は小さく息を吐き出した。
それからそっと後ろを振り返る。曲がりくねった細い通路の先にあったあの小屋は、当然もう見えない。



先ほどの自分と元親は切り取られて元親の記憶の欠片となって、あの場所で埃っぽい空気と一緒にずっと居続けるのだろう、そして元就の記憶にも。
この先互いが互いを殺しあうほどに憎みあったとしても、きっとずっとあの場所で在り続けるのだ。元親が先ほど拾って目を輝かせたあの小さな歯車のように。いつか元親は、此処へかつて毛利という男と連れ立ってやってきて、自分の大事な秘密の場所を見せたことを思い出し懐かしさに微笑むのか。それとも忌々しげにその痕跡を消そうとするのだろうか。
でもあの場所へ元就が足を踏み入れた事実は決して消えることはない。
・・・大事な部下にすら触れさせず立ち入らせない場所。
「・・・貴様は、ほんとうに、阿呆だな」
声に出るのはそんな言葉だけれど、元就はほんとうは、とても嬉しいと思っている自分に気づいていた。



そうとも、嬉しかった。
だから笑わずにいられなかった。



「阿呆、阿呆って何度も言うなよ・・・ちぇっ・・・とっておきだったってのに」
「我のごとき者にそのような大事な思い出を与えて・・・阿呆め」
思わず呟いた言葉に敏感に反応して、元親はひょいと元就を覗き込む。
「なんだよ。お前だから見せたんだよ。それを笑ってたってのか?すげぇ心外だぜ」
「・・・そういうわけではないが。我は貴様に与える秘密なぞないし、あったとしても貴様には与えぬであろうな。不公平とは思わぬのか?」
「・・・あぁ、」
元親は合点がいった、というふうに、姿勢を正した。
「それこそ、必要ないぜ、毛利?あんたを見て、あんたを知っていくことが俺の今のいちばんの楽しみなんだからよ------」
「・・・戯れ言を」
ふん、と皮肉めいた笑みを浮かべると、元親はいつもの彼らしく豪快に笑った。それから二人顔を見合わせて、また肩を並べて歩き始める。この瞬間もずっとずっと事実として思い出として残っていくのだ、それはなんて幸せなことだろうとお互い感じながら。
いつの間にか指先がつながれていた。





あんたそのものが特大の秘密の塊だぜ、毛利?俺は頑丈にかけられた紐をひとつずつほどいていくんだ。あんたの一部が見えるたびに俺は嬉しいし、そこに俺を残していきたいんだ。全部ほどいてしまう必要はないが、でも、あんた、今日笑ったじゃないか俺の前で。



・・・うれしかった。