すれちがひ





隣合い並んで歩くのも、轡を並べて馬に揺られるのも、慣れた。
元親が話すどうということもない話に頷いたり、頷かなかったり(聞いていなかったり)、元親から返事があったりなかったり、そうかと思えばつまらないことで激論を戦わせたり。直後に話題が変わって何事もなかったかのように歩みは止まらず。雨宿りに昔語りをする元親を少し羨ましく見つめている、そういう己に気づいて内心驚いたこともある。
要するに、二人でいることに、馴染んだ。



旅籠を出るときから少々体が辛かった。頭の中が空っぽになったようで(胃の中は間違いなく空っぽだった、そのせいか朝餉はよく食べられた)、なんだかぼんやりしていた。
元親によると、己は昨日具合が悪くこん睡状態だったという。しかし元就は、目覚めたときその旅籠に入ったことすら覚えていなかった。昨日の道中で何度か気分が悪くなり立ち止まったことと、その都度元親が心配そうに覗きこんできて、どうしてか非常に煩わしく苛立ったことは覚えているが、そこで記憶はふつりと途切れている。
ただ、体が重い。
不釣り合いに嵩高い荷物を背負わされているようだと思った。
俯いていると元親が長身を屈めるように覗きこんできて、大丈夫か、あんま無理すんなよと優しい声で語りかけてくる。元就は頷きながら、何かしら違和感を感じて元親を見つめ返す。元親は、しばらくじっとその視線に応えるように元就を見つめていたが、やがてすいと視線を逸らせた。
「さて、行くか―――」
元親の発した言葉は、いつもの宿りの朝と同じだった。けれど元就はまた違和感を感じて眉をひそめた。元親はどんどん歩いていく。後をついて歩きながら考えた。なにかいつもと違う。体が重くて、足が重くて、それから?
「・・・長會我部」
思わず声をかけた。元親は振り返った。
「どうした?」
当然、いつも通り振り返った表情は柔らかく。ただ、なぜかそのひとつしかない眼が奇妙に浮きあがって見えて元就は緩く、何かを否定するように頭を左右に振った。元親は怪訝な顔をした。
「どうしたんだよ、・・・顔色悪いぞ、あんた。まだ具合悪いか?だったら無理せず」
おおきな手が伸びてくる。
元就は、覚えずその手をぱしんと、拒み、弾いた。
元親は驚いた、らしい。慌てたように手を引っ込め、自分の拒絶された手と元就を交互に見つめていた。―――やがてばつが悪そうに首を竦めると、ゆっくり歩くから、辛くなったら言えよ、と遠慮がちな声が響く。
元就はずっと俯いたまま、それを聞いた。



どれくらい歩いたか分からない。前を往く元親の足音は、少し離れると止まり、元就が近づくとまた歩き出す。歩みの遅いのを待ってくれているのだろう。元就はとぼとぼと、行きたくないのを無理に歩かされる子供のようだと自分を内心哂いながら、足をただ前に交互に出している。
体が重い。
―――否、重いのはもっと別のものだと、じきに気づいた。
引っかかる。なにかが引っ掛かる。たとえるなら愛用の筆がどうしてかその日に限って文箱に見えず、焦って―――探して―――いるときのような?
(いや、違うな、・・・)
「毛利」
ふいに呼ばれて、元就はびくりと顔を上げた。すぐ目の前に元親がいて、見下ろしてくる。まぢかの彼の身体はとても巨大であった。日を背に負い、逆光となった面は普段と違い眸の色も暗く、元就はたじろいだ。影は色濃く元就の上から被さる。
「―――あ、」
元就は思わず後ずさった。手が伸びてくると、元就の手首を掴んだ。きゃっ、と、童子のような声が自分の口から出て元就は驚いた。
驚いたのは、元親も同じだったらしい。ぱっと、手首を掴んでいた手は離れた。そうして、巨体は膝を折りしゃがんで、今度は元就を下から見上げる格好になった。いつもどおりの元親の顔が見えて、少しだけ、元就はほっとした。
「おい、毛利。・・・あんたおかしいぞ。顔色悪いし、さっきから、なんてっか、・・・」
元親は、いったん口を噤んだ。
元就は額の汗をぬぐった。確かに己はおかしいのだろうと考えた。おかしいに決まっている。目の前で心配そうに見上げてくるこの男を。
「・・・なんか、怖がってねぇか?」
「―――」
(・・・怖い?だと?)





「・・・昨夜、・・・怖い夢でも見たか?」





どこか探るような口調に、元就は目をきつく閉じると拳で胸元を押さえた。
元親の言っていることは半分当たっていて、半分外れていると元就は唐突に理解した。
怖い夢は存在したが、それは昨晩のことではない。
怖い夢を忘れていたが、どうやら無理やりに、夢のほうから表に出たがっているようだった。
(・・・くだらぬ・・・)
断片的に瞼の裏にちかちかと点滅するのは、元就が「どうでもよいこと」と断じて、封印してしまった過去のあれこれに違いなかった。親兄弟が死んだときもそう、他者に裏切られたときもそう、初めて人を斬ったときもそうであろう。騙し合い騙され、心と体に酷い傷を負ったことも、すべてを跳ねのけて毛利のあるじとして君臨したことも。覚えていることも、覚えていないことも、ある。その切れ切れの、千切って捨ててきたものごとが、我先にと元就へ戻ろうとしているようだった。
切欠は何か、元就にはわからない。昨日歩いている途中から、少しずつそうなってきたのは確かだ。
・・・ただ、元親が原因ではないということは分かる。もしかしたら遠因のひとつかもしれないが(以前の、敵国同士だったときのあれこれも遠因とすれば、である)、少なくとも今元就が、すでに呼吸まで苦しくなるくらいになっている、その原因ではないはずだった。ぼんやりと、そのことを伝えるべきだろうかと元就は考えたが、しかし。
「―――すまねぇ」
唐突に、元親が謝罪したので、元就は息を一瞬、止めてしまうくらいに驚いた。
何を謝る、と尋ねようとしたが唇が動かなかった。
元親は、困ったように視線を伏せ、もう一度、すまねぇ、と呟いた。元就は茫然と元親を見つめた。少しずつ、自分の中の、往き場のない憤りや恐怖や困惑が、元親へと集約していくように思えた。そうではないはずだ、と考えたが、だったら何故目の前の男は自分に謝るのだろう。
「その、・・・そんな、怖がられるとよぅ、・・・あんた、覚えてるのか?だったら謝るからよ。・・・俺も歯止め利かなくなっちまってたみたいで、・・・あんたを困らせるつもりはなかったんだが、でも、」
「・・・・・・」
「あれであんたも楽になるんじゃねぇかって、・・・あんたも、ほら、・・・なんてっかよぅ、欲しがってたし」
その一言で、元就は眼を剥いた。



「・・・なに、・・・なにを?我が?何を欲したと?」
「・・・え?」
元親は、急激な元就の、噛みつくような問い掛けにひるんだ。
「我が、・・・欲した、だと・・・?」
怒気を含んだ声で、元就は元親を睨んだ。元就の脳裏に浮かんでは消え、また浮かぶのは、断片的な、ずっと昔の、まだ自分が子供のころの、思い出したくもない過去たちだった。だから元親は関係ない。そうとも―――まったくそのとおり理解しているのに、元就はさらに声を荒げた。
「ふざけるでないわ!誰が・・・誰があのような屈辱を・・・ッ、」
「お、おい、毛利―――」
三度、元親の手が伸びて今度は元就の両肩を掴んだが、元就は力いっぱいそれをふりほどいた。
「もうよい!!!」










きっと、滅茶苦茶に走ったに違いない。気づけば何処か分からぬ場所に立っていた。
元就は、恐る恐る後ろを見た。すっかり見慣れてしまった白い髪の男はおらず、ただどこまでも一本道が足元からのびるばかりである。
「―――」
少しずつ呼吸を整えると、幾分気分が落ち着いてきた。元就は手近にあったおおきな木の根元に座り込んだ。ぼんやりと地平線と道のきえゆく先や、もっと遠い山の稜線を見つめているうちに、何故あんなに怖かったのだろうと不思議に思えてきた。そう考えて気付いてみれば、朝からずっと重かった頭も体も、だいぶ楽になっていることにも気付いた。
元就はしゃがんで膝を抱え、そっと瞼を閉じた。
怖い夢の――過去の――断片は、瀬に浮き沈む落葉のようにやはりちらついていたし、哀しい記憶も悔しい事実も、怖かったことも、色々と存在するのは確かだった。けれどひょこりとその途中に、元親の顔が現れる。おや、と集中すれば、それは以前元就に、激しい本音をぶつけてきたときの顔だった。思えばあのやりとりがあって、その後紆余曲折を経て、あの男と旅をしている・・・
元就は、なんだか少し、嬉しくなった。
瞼を開けると、瞬きを三度した。それから、きょろきょろとあたりを見回した。
「―――長會我部」
呼んでみる。



元親は、いない。



元就はやっと気付いた。
元就は、関係ないことで元親を拒絶して、逃げてきたのだった。
具合が悪かったことは確かである。その気分の落ち込みのままに、昏い記憶を目の前にいる元親にすり替えて、―――ようするに八つ当たりをしてしまった。
元就は膝を抱えたまま、しばらく困って口をへの字に結んで、考えた。
「・・・あやつが・・・謝るからだ」
さんざん考えてようやく出てきた言葉はそれで、元就は自分ことながら呆れかえった。
待てよ、と、さらに考えてみる。
(・・・長會我部は、何を謝ったのだ?)
元就の体調が悪かったことも、怖い記憶が押し寄せてきたことも元親とは関係ないことだった。元親は昨晩どうやらずっと元就の看病をしてくれていたようで、だから朝、腹が減ったと訴えた元就に元親は最初から用意されていた雑炊をすぐに差し出せたのだろう(すっかり冷えていたので、宿の者に温め直してもらったのだが)。その過程でなにかあったのか。あったとして、
(・・・あのお人よしが、我に謝らねばならぬようなこと、するはずもあるまい)
元就の出した結論はそれであった。
(どうせ、たいしたことではないのだろう)
元就は、膝を抱え直した。
(そのうち、困った顔して、やってくるに違いない)
そうしたら“許して”やろう、と元就は図々しく考えた。
まっすぐに、道のずっと先を見つめた。
そうして。





―――暗くなっても、元親の姿は、来なかったのである。