すれちがふ





目覚めたときは昨日の様子が嘘のように元就は元気だった。元親がすすめた雑炊もきれいに食べて満足そうだった。額に掌で触れてみると熱も勿論、ない。
そんなふうに大事に自分を扱う元親に、元就は怪訝そうな顔をしている。
「なにをしている、長會我部」
「なにって、熱はないかって。・・・あんたほんとに、なんも覚えてねぇのか?昨夜は死ぬんじゃねぇかってほどにつらそうだったんだぜ?」
元就は瞬きをしたが、覚えておらぬ、とだけさらりと呟くだけだ。元親は呆れながらも内心ほっとしていた。
なにせ、具合が悪い元就を・・・
(・・・さんざんこいつを抱いたんだよな、俺ぁ・・・)
思い出すと頬が、火が噴き出すほどに一気に熱を持った。元就に、顔が紅いぞ、熱があるのは貴様ではないのかと冷たく言われて元親はそんなわけねぇだろうがと淡々と返しながら額の汗をぬぐった。
正直体より心が辛い。
(・・・覚えてねぇのか・・・そっか。)
そのほうがいいとわかっていても、自分の体のあちこちに、くまなく元就の肌の熱が残っている。あいしていると囁いた声も耳にこびりついている。なにもかもが初めて見る元就の曝け出された姿だったから、余計に脳裏に鮮やかに残っている。
元就が覚えていないということは、つまりは、そのすべてが夢だということにほかならなかった。
(あれは必要な行為だった。そうとも)
元就が元気になったのだからよかったのだと無理やり考え正当化しようとするが、そんなことより蘇る鮮やかな記憶のほうが元親をじくじくと苛む。



目覚めた直後は元気だった元就だが、しかし着替えを終えて旅籠を出るときから少々動きが鈍くなっていた。
ぼんやりとした表情で、それでも元親について歩いていたが、やがて何度も立ち止まる。
「大丈夫か。・・・あんま無理すんなよ」
何度めかそうなったとき、元親はそう声をかけた。元就は頷きながら、何かしら困惑したように元親を見つめ返す。元親は、しばらくじっとその視線に応えるように元就を見つめていたが、やがて堪え切れなくなってすいと視線を逸らせた。
(・・・思い出したのか?毛利?)
非道い抱き方だったと昨夜の自分を苦々しく思う。きっと初めての(はずの)元就を、何度貫いただろう・・・普通に同意のもとで行われたとしても、きっと体のあちこちが辛いに違いない。
もしかしたら思い出したのに知らぬ顔をしているのだろうか、と考えて、元親は内心蒼褪めた。
矜持の高い元就のことだ。馬鹿にされたと怒るだろうか。それとも軽蔑するだろうか。嫌われるだろうか・・・
「―――さて。行くか!」
元親はわざと大きく明るく言葉を発した。そうして、どんどん歩いていく。
足音は後をついてくる。元親は振り返らない。どんな顔をして元就がついてくるのか、確認するのが怖い。
「・・・長會我部」
声をかけられ、元親はびくりと振り返った。
「・・・どうした?」
元就は緩く、何かを否定するように頭を左右に振った。元親は眉を顰めた。元就の面は、真っ青だった。
「どうしたんだよ、・・・顔色悪いぞ、あんた。まだ具合悪いか?だったら無理せず」
これは本気で心配して、元親は手を彼のほうに伸ばした。
元就は、その手をぱしんと、拒み、弾いた。



元親は驚いた。
そうして、慌て、狼狽した。一気に、先ほどの不安が圧し掛かる。
(・・・思い出したのかよ?)
慌てたように手を引っ込め、自分の拒絶された手と元就を交互に見つめて、―――やがてばつが悪そうに首を竦めると、ゆっくり歩くから、辛くなったら言えよ、と遠慮がちに告げた。
元就はずっと俯いたままだ。
怖くて、元親も黙ったまま歩き始めた。
何が怖いのだろうと考える。



(・・・思い出したのか?)
(嫌われちまったか・・・?軽蔑されたか?)
(そうしたら、もうこの旅も、終わりか・・・)



どれくらい歩いたか分からない。
元就の足音が少し離れるたびに元親は振り返らないまま立ち止まり、元就が近づくとまた歩き出す。
「・・・毛利」
耐えきれず呼んだ。元就はびくりと顔を上げた。
元親は近づく、意を決して元就を見下ろした。
「―――あ、」
まぢかの彼の表情には、どこか恐怖が滲んでいた。無意識なのだろうか、僅かに元親から逃げるように後ずさった。元親は思わず手を伸ばし、元就の手首を掴んだ。
きゃっ、と、童子のような声が元就の口から出た。
元親はひどく驚いた。ぱっと、手首を掴んでいた手を離した。拒絶の声だと思った。
膝を折りしゃがんで、今度は元就を下から見上げる格好を取る。怯えている元就に、出来る限り静かに話しかける・・・
「おい、毛利。・・・あんたおかしいぞ。顔色悪いし、さっきから、なんてっか、・・・」
元親は、いったん口を噤んだ。
元就は額の汗をぬぐった。
「・・・なんか、怖がってねぇか?俺を・・・」
「―――」
「・・・昨夜、・・・なにか、・・・そう、怖い夢でも見た・・・とか?」





卑怯な言い方だと、元親は己を情けなく思った。
夢にしてしまえるなら、そのほうがいいと。覚えていなくて夢になるほうが、此処で旅が終わるよりはずっとましだと思えて、元親は、逃げた。
その探るような口調に、元就は目をきつく閉じると拳で胸元を押さえた。
「・・・くだらぬ・・・」
無意識なのだろうが、元就の口からそんな言葉が零れ出た。元親は身動きできなくなるくらい慄いた。
「―――すまねぇっ」
どうしようもなくなって、元親は謝罪の言葉を口にしていた。
元就は、元親を睨みつけるばかりだ。
(あぁ、・・・思い出しちまったか・・・)
元親は、どうしようもなく、ただ困って視線を伏せ、もう一度、すまねぇ、と呟いた。謝ることしか思いつかなかった。
「その、・・・そんな、怖がられるとよぅ、・・・あんた、覚えてるのか?だったら謝るからよ」
「・・・・・・」
元就は何も言わない・・・
「俺も歯止め利かなくなっちまってたみたいで、・・・あんたを困らせるつもりはなかったんだが、でも、」
「・・・・・・」
沈黙が元親をごうごうと非難する。元親は、また、逃げた。
「ほら、・・・あれであんたも楽になるんじゃねぇかって、・・・あんたも、・・・なんてっかよぅ、欲しがってたし。なぁ?」
その一言で、一気に空気が変わった。



「・・・なに、・・・なにを?我が?何を欲したと?」
「・・・え?」
元親は、急激な元就の、噛みつくような問い掛けにひるんだ。
「我が、・・・欲した、だと・・・?」
怒気を含んだ声で、元就は元親を睨み声を荒げ。
「・・・ッ、ふざけるでないわ!誰が・・・誰があのような屈辱を・・・ッ、」
「お、おい、毛利―――」
三度、元親の手が伸びて今度は元就の両肩を掴んだが、元就は力いっぱいそれをふりほどいた。
「もうよい!!!」










元就の姿は、すぐに見えなくなった。
止める暇もあらばこそ、元親の足は縫いとめられたように動けなかった。
ようやく状況に気づいて追いかけたときには、当然もう、見当たらない。
元親は、とぼとぼと歩きながら、それでも元就がいないかあたりをくまなく眺めた。
日輪が中天を過ぎて、傾いて、冷たい風が吹いて。元親の影が長く伸びて。歩いても歩いても、元就はいない。
「・・・終わり、か。」
自嘲するように呟いた。こんな終わり方もありかもな、と言い聞かせるように言葉にして、それから唇をきつく噛んだ。
(そんなこと望んでないだろうが・・・)
やがて元親は立ち止った。冷たいものが頬に当たったのである。
天を見上げた。夜の帳と同時にいつの間にか暗く厚く、重い曇が立ち込めていた。茫然と見上げる元親の全身を、時を置かずどしゃぶりになった雨が嘲笑うようにぬらし、滴を叩きつける。
慌てて屋根のあるところを探したが、小屋ひとつ街道筋にはなかった。元親は遠方に見える黒く鬱蒼と生い茂る木立の群れを目指した。せめて森の中ならましだろうかと。
(毛利は、大丈夫だろうか?体が辛いはずだってのに・・・この雨じゃ)
何処にいるのだろう。自分だけが軒先を探していいのか。そんなふうに思いながらも元親は走った。
果たしてついた場所は、社だった。丹塗りの小ぶりの鳥居が元親を見下ろしてくる。少し頭を下げて元親は鳥居をくぐった。
「―――」
狛犬のある位置にいる像に気づいて、手を握り締めた。
「・・・お狐様か」
呟いて、丁寧に頭を下げた。白い髪から水滴が滴って、ぽたり、ぽたり、元親の見つめる地面に輪を描く。そのようすをじっと、馬鹿みたいに見つめていた。雨は容赦ない・・・
(もっと俺を濡らせばいいさ。これは罰だ)
(罰・・・あいつと、これで終わりにすることも?)



「・・・・・・ッ」



元親は、顔を上げた。小さな、木立に埋もれるように在る祠を見ると、歩み寄る。
古びた社のその扉の向こうに、誰がいるというのか。誰もいるはずもない。
そうと知っていて、元親は口を開いた。
「・・・わかってるんだ。俺は、馬鹿だ。自業自得だ、ってな」
(でも)
――― 元親は、遮二無二手を合わせる。
小さな祠の前でしゃがみこみ、長身を小さく屈めるようにして頭を下げた。
ひとつ瞼を、ぎゅうと瞑った。
「頼む、・・・頼む」
言葉と同時にさまざまのことが怒涛のように蘇り、元親は歯を食いしばる。
今、この祠に手を合わせている自分を姑息で、卑怯だと心で断じた。“神”に対しては、畏敬し、頭を下げることはあっても、決して図々しく頼みごとなぞすまいと随分遠い昔に誓ったはずだった。
神は畏れ敬うもの。頼るべきは、己自身のみ。
なのに、この祠の奥に居ます祭神へ手を合わせ、よりにもよって「毛利元就」のことを願う自分を無責任だと恥じずにはいられない。そう理解しつつも、元親は手を合わせることをやめることはしなかった。
雨が一段と酷くなる。
大事なものをこれまでたくさん、失くしてきた。もう涙は無いと自分で決めて「毛利元就」の手を取ったのだ。だからこそ―――
「頼むからよ、・・・あいつに、・・・もっかい会わせてくれ。俺は、もう、後悔したくない・・・図々しいってわかっちゃいるが。俺は今、なんだってする。あいつに会えるなら。だから」
そこまで言って、いや、と首を横に僅かに振った。
「これは対価じゃない、・・・俺は、俺に誓って、俺に課す。平然と他者を排斥し殺すことも厭わない“あいつ”に戻って欲しくない。だから俺は、・・・おこがましいかもしれねぇが、・・・あいつの手を離しちゃならねぇんだ。こんなとこで喧嘩別れするわけにゃいかねぇんだ」
(どうして触れて・・・抱いてしまったのか)
後悔が胸の奥にじりじりと焼けつく。
(薬?―――言い訳だ)
「・・・ただ、俺に時機を・・・chanceを、呉れ。」
遠い国の友人に教えてもらった言葉を、呟く。
「あいつの顔を、もっかい見せてくれ。・・・ちゃんと謝らせてくれ。それ以上は望まない、から。欲張らないから・・・」
いつしか合わせた掌に額を圧しつけ、瞼を閉じて、ただ一心に元親は祈った。





「・・・?」





ふいに、誰かに頭をなでられたような気がして、元親は閉じていた目を開けた。
よしよし、というふうに。ふわふわと、小さな柔らかい温かい手だ。
何故だか怖くて、おそるおそる、元親は視線をまず上げる。なにも見えない。
ゆっくりと顔を上げた・・・
「―――、」
いつの間にか、祠の扉は開いていた。
扉から漏れる灯りが暗い雨の滲んだ目には眩しくて、元親は眼を細めた。
誰かが扉に寄り掛かるように立っている。逆光になった表情は見えないが、細い輪郭には見覚えがありすぎて、まさかと元親は眼を瞠った。微かに相手の体が揺れて、覗きこむようにこちらを―――元親の前に、いる。
「・・・ちょう、」
「―――毛利ィ!!!」
無我夢中だった。
元親は賽銭箱を蹴倒さんばかりの勢いで堂への段をかけ上がる。これでもかと腕を伸ばすと、もぎとらんばかりに相手の・・・元就の腕を掴み、自分のほうに抱き寄せて力いっぱい抱きしめた。細い背をかき抱く。
「・・・ちょ・・・長會我部、貴様、何故此処に」
「―――馬鹿野郎ッ!!!そりゃこっちの台詞だろうが!!!どこにいったかと・・・俺がどんだけ心配して探したと・・・」



(無事に、会えたか)



誰かの声がしたような気がして、はっと元親は我に返った。
先ほど、自分の頭を撫ぜていたのは元就だったのだろうか。そう考えて腕を緩めると元親は元就の顔を覗きこんだ。元就は、まだきょとんと状況を掴み切れていない表情だったが、そのうち焦ったように視線を逸らした。
(・・・こいつじゃ、なかった?)
じゃあ誰が。
考えているうちに元就の頬から口元に目がいった。ほの明るい中でその部分だけが白く浮いたようにきらきらと薄く光る。元親は指先をついとのばして元就の口元を掬うように辿って、―――そして、ほほ笑んだ。
「おいおい、毛利。・・・なんでこんなとこに餅粉つけてんだ?」
元就の顔は、それを聞くとさっと朱に染まった。
「そ・・・それは・・・」
「なんか喰ってたのか?・・・おい、まさか供え物を?」
元親が少し呆れたように呟くと、元就は口元を隠してごしごしと袖で擦った。子供っぽい仕草に元親は内心で可愛いな、と思ってしまい慌てて首を微かに横に振った。
元就は俯いて、この社の者が喰べてよいと言ったゆえいただいた、と歯切れ悪くぼそぼそと説明している。
「・・・社の者?世話になったのか?そりゃ礼を言わなけりゃ、・・・どこに?」
ならば雨の中で寂しい思いも、濡れて寒い思いもしていなかったのだと、元親は安堵して問うた。元就は小さく頷いた。
「今、此処を出ていった。貴様も見たであろうに」
「・・・今?いや、誰も―――」
訝しげな元親に、元就は嘘ではない、と意地になって声を張り上げる。
「嘘ではない。そんなはずはない!いたはずだ、子供だ。ひとり留守番をしていると言っていたのだ!」
元親は、それを聞いて絶句した。



「・・・こども?」



それから、ざわざわと鳴く夜の木立をはっと見上げた。
いつの間にか雨は止んでいる。雲の切れ間から月がほんの少し顔を出した。月の面を、ついと黒い小さな影が横切った。
先ほどの小さなてのひらの柔らかさが蘇って、元親は泣きそうになった。
「・・・そっか・・・こども、か」
祈ったことは、間違っていなかったのだ。
ひとり頷くと、元親は再び元就を抱きしめる。元就が困惑したように、長會我部どうした?と問うと、元親は元就の肩に顔を埋めたまま笑った。元就はただじっとしている・・・。
「・・・ありがとうよ」
元親は呟いた。



元就に。そしてすべての“これまで”に、心から感謝していた。