よろこび





額にあたる掌の温度で、元就は眼を開けた。
元親が隣に寝転がりながら、元就の前髪を梳いている。
「よぅ。やっと起きたか。お早う」
「・・・・・・」
「・・・っと、早くねぇよな、あんたにしちゃ。とっくにお日さんもほら、高いとこに昇っていなさるぜ?」
元就は少し顔を動かして、きらきら光る日なたへと視線を動かした。庭の梢の葉かなにかに反射した光が眸を射たのでまぶしくて顔をしかめた。その表情を見て元親はにこにこと笑っている。
どうやらもう、昼前らしかった。
元就は起き上がり、部屋の中をぐるりと見回した。夜中に燭の火影で見たときとそっくりそのまま、変わっていない。食べ散らかされた膳がふたつ、畳の上に転がったいくつかの徳利、染みになった畳、明るい昼の光に場違いなほど、むっとたちこめる酒の匂い。
「・・・」
元就は俯いて、自分の着ているものを見た。これまた昨晩と変わっていない。相変わらず女物の着物をまとっている。ぼんやりと袖や裾に描かれた模様を目で追っていると、元親が心配そうに覗きこんでくる。
「おい、大丈夫か?毛利?気分悪いか?」
「・・・」
「そんなに飲ませたつもりはなかったんだがな。・・・あんた、あんまり酒癖いいほうじゃねぇよな、ははっ」
それを聞いて、元就ははっと顔を上げた。元親の顔を見つめる。元親は、じっと元就を見つめている。その顔は、きっと昨夜のことを全部覚えて知っている顔だった。元就は色々のことを思い出し、急に気恥ずかしくなった。今日は元就も、全部覚えている。自分が元親になにをしたかも、なにを言ったかも。なにを考えどんな夢を見て、そんなふうにしたかも。
(・・・しかし)
なかったことにすることもできる、と。元就の頭にふいにそんな考えが閃いた。
全部、酒の上での戯れ言だとしてしまえばよい。元就が元親に愚痴をおりまぜながら本音を伝えたことも―――今は忘れてしまったふりをすればいい。酒が言わせたことにすればいい。以前元親が元就を抱いたと告白したとき、元就はそのことをまったく覚えていなかった。今も思いだせない。同じことだ。そうすれば、すべてなかったことになるはずだった。以前のことがあるから、元親もきっと信じるだろう。
(なかったことにすれば、・・・以前と同じように、つかずはなれず、在る意味気楽な関係のまま、・・・)
「ん?どうした?」
元親が優しく問い掛ける。元就は口元を掌で押さえた。
「おい?気分悪いか?」
心配して、覗きこんでくる元親の体を、よい、と短く言って元就は少し手で押した。元親の動きが止まり、それ以上は近寄ってこない。
「・・・なぁ、毛利?」
探るように問い掛ける元親の声に、元就はきゅっと瞼を閉じた。考えれば考えるほどに気恥ずかしさが募る。
(我は、・・・なんと言った?こやつに、・・・)
一緒にいたい、と。貴様と旅をしていたいと言った・・・



「毛利。聞いてくれるか」


元親の穏やかな声がした。元就は息をつめて元親を見つめた。
「あんたは昨晩のことを覚えてねぇかもしれねぇが。・・・それとは別に」
元親は少し、俯いて白髪を片手でかき混ぜた。困ったような思案顔だった。
「その、・・・俺は、ちゃあんとあんたに言うべきだって思うからよ。」
「・・・」
「いや、今まで何度も言ってきたつもりなんだがよ。・・・あんたに通じてねぇ気がするから、此処で言わせてくれ。聞いたうえであんたがその後どうしようと、俺は、・・・構わねぇからよ」
語尾だけは少し力が籠もり不安定に響いた。元就は黙っていた。この先を聞いてもなかったことにはできるのだろうかと、まだ悪足掻きをしている自分に少しばかり呆れながら―――元親の言葉を待った。
元親は、いつもと変わらない優しい表情をして、口を開いた。
「俺は、―――あんたが好きだ。どこの誰よりも好きだ」
元就は、咄嗟に視線を伏せた。
息苦しくて、顔が上げられない。
「あんたをもっと知りたいし、あんたとこれからも、ずっと一緒にいたい」
「・・・」
「あんたには悪いことをしたが、・・・あんたを抱いたことも、俺にとっちゃ嬉しいことだ。あんたが同意してくれるんなら、また抱きたいと思ってる」
「・・・・・・ッ」
(なんということを・・・面と向かって言ってくるのだこ奴はッ)
元就は拳を思わず握り締めた。まだ酔っているふりをして殴ってやろうかと思ったが、堪えた。元親は淡々と言葉を続ける。
「もしも昨晩のこと、あんたは全然覚えてなくて・・・なにを唐突に言ってやがるんだって思うなら、それでもいい。俺があんたを好きだってことだけは、本当だ。あんたが信じられないって考えても、間違いなく本当のことだ。それは俺が知ってる」
「・・・・・・」
「だから。・・・その・・・もしも、ちょっとでもあんたも、そういうふうに考えてくれるなら、・・・いや、もう少しだけでも俺の気持ちを受け入れられるか、時間かけて考えてくれるなら。俺は嬉しい」
「・・・・・・・・・」
「もしも・・・今ので、俺のことが嫌いになったり、気味悪くなったってんなら、そんときは・・・いや、俺は諦めるつもり、ねぇんだが。とりあえず、前のとおりに、・・・国主同士としてだな・・・」
そのくだりになると、徐々に元親の声が沈んでくる。元就はふと、気持ちが温かくなった。
ちらりと元親の表情を見れば真剣そのものである。きっと必死に語っているに違いなかった。以前と同じだな、と元就は思った。互いに凌ぎを削りながら、元就の刃をかいくぐって必死に語りかけてきたときの元親を思い出した。
(・・・あれから、随分遠くまできたことよ。・・・二人で)



元就は、ふと立ち上がった。
縁側に出て、日輪に拝謁する。長い時間、合掌したまま。
元親は室内で、じっと待っているに違いなかった。元就の祈りが終わり、声が聴こえてくるのを。
元就の脳裏にさまざまが思い浮かぶ。いくつもの軌跡があり、互いの願いが集って、ふたりで今此処にいるのだと気付いた。
元就は、裸足のまま庭先に出た。上客用にしつらえてあるその庭は造作も美しく、広く、あしらわれた木々も立派なものが多かった。季節はまだ完全な紅葉の時期ではなかったが、色づいた葉がはらりはらりと降ってくる。元就の上に―――
「・・・毛利ッ」
ふいに、元親が悲鳴に似た声を上げた。元就は振り返った。どん、と半ば突進に近い勢いで元親は元就を何者かから奪うかのようにいきなり抱き寄せ、抱きしめた。
何処にも行くな、と、震える声が告げた。俺のとこからいなくならないでくれ。俺のとこにいてくれ。此処にいて―――俺と一緒に。
壊れてしまったように、元親はそうやって言いつづける。元就は茫然と、抱きしめられながら元親の必死の願いを―――まさしく願いごとを―――聞いていた。
(・・・どうしてだ?)
どうして、こんな自分を。これほどに思ってくれるのだろう、この男は?
(・・・どこが良いのだ?こんな、醜い、・・・己以外を信じられぬ、歪んだ我を)
この先も、ずっと不思議に思いつづけることだろうと思う。別々の、違う者同士だから。完全に分かりあえるはずもない。そんな期待はしてはいけない。
(それでも、よいと貴様が思うなら・・・)



「・・・長會我部。貴様、昨晩、何を聞いていたのだ?」



元親が、抱き締める腕の力を抜いた。おずおずと、元就の顔を覗きこむ。
(・・・これでよいのだろう。きっと―――)
(我を完全に理解できる者は我一人。・・・しかし、)
(完全に理解などできなくとも、・・・きっと、構わないのだ。共にいるためには・・・)
元就は、少し拗ねたように、元親を見上げ、睨みつけた。
「我を好きだと言うわりには、我の言葉をまるで覚えておらぬようだが」
「・・・お、おい、毛利・・・」
「二度も我に言わせる気か?」
やがて元就の言葉の意味を理解して、元親は満面の笑顔を浮かべた。毛利、と呼びかけながらもどかしげにかき抱く。そうして、言うのだ。もういちど聞きたい、言ってくれ。と。
元就は、ふわりと笑った。



「・・・我も、貴様が好きだ。これからも共にいたいと思っている」



毛利、と震える声がした。
それから、最初だけ遠慮がちに、元親の唇が元就の唇に触れた。けれど触れてしまえばあとは止まらなかった。何度も何度も、啄むように、あるいは食むように、味わうように、口づけを続けた。
「・・・今度は、・・・あんたは、消えないよな?此処に、いるよな?・・・ずっと、俺と一緒に、いる・・・だろう?なぁ?」
不思議なことを呟いて元親は元就を抱きしめた。元就は訝しみ、小首を傾げて自分を抱きすくめる元親の表情を窺おうと身を捩る。元親はさせるものか、とばかりにもっときつく抱きしめる。
「・・・長會我部?どうしたのだ?」
名を呼んで問い掛けると、元親から小さく、震えるような笑い声が漏れた。
「まちがいない、あんただ。なぁ、“毛利元就”」
「・・・」
「すまねぇな。・・・ちっとばかし、色々、思い出しちまってよ・・・」
元親の声が震えている。
元就はしばらく躊躇していたが、やがておずおずと口を開いた。
「貴様。・・・なにを泣いておるのだ」
確かに元親は、元就を抱きしめて、その肩に顔を埋めて泣いているのだった。けれど、馬鹿言え、と泣き笑いの声がする。
「馬鹿言うな。泣いてねぇぜ、俺は」
「しかし、・・・」
「泣いてねぇよ。・・・こんな嬉しいのに、泣くわけねぇだろ!あんたが俺のために、そうやって、言ってくれたってのに、・・・嬉しくて」
そして、ありがとうと言うのだ。
どうして我が感謝されるのだろうと元就はわからない。・・・わからないが、嬉しい。
何度も何度も、感謝の言葉を告げながら、元親はやっぱり泣いている。
元就は元親の体温を感じながら、ぼんやりと天を見上げた。いつだったか丸いぎやまんの窓から覗いたときのように、切り取られたようにすっくと空は高く―――その遠い果てから、金色に色づいた葉が、不可思議なほどにどこからともなくあとからあとから降ってきて二人の周りをくるり、くるりと踊るように舞っていた。