なぎさこぐ





大きな湖を眼下に、元親ははしゃいでいた。
「毛利。船乗ろうぜ、船!」
「・・・湖では、貴様の日頃乗る帆かけ舟など走らぬであろうに」
「いいじゃねぇか。小舟でいいさ、釣りでもしようぜ」
昼前、近場の網元に頼み込んで、元親は言葉どおり釣り船を一艘貸してもらった。釣り竿は以前自分で作った例の武器である。
「待ってろよ、毛利。晩飯になる魚、ざくざく釣ってやるからよ」
ほとんど無理矢理船に乗せられた元就は、小さく肩を竦めてごろりと船底に横になった。
元々、船の揺れにあまり強くない。こんな小舟なら尚更震動が頭に響くので、寝るに限ると呟くと元就はさっさと目を閉じた。
眠る前にそっと薄目を開けて見ると、元親は、機嫌よく釣り糸を垂れて湖と水面と、それを取り巻く景色を眺めていた。
元就は、そのまま瞼を再び閉じた。



どれくらい経ったのか。
「おい、毛利?」
声をかけられて、元就は目を開けた。じっとりと汗をかいていた。
「大丈夫か?なんだか具合悪そうに寝返りうってたぜ?」
「・・・どうもせぬ」
不機嫌に言うと、元親の手を払いのけた。元親は肩を竦め、釣り糸のところに戻った。
元就は、しばらくぼんやりと船底を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。



「夢か現(うつつ)かわからぬが」
「・・・ん?」
「貴様が大漁だと叫んでいて、船の上が跳ねる魚の鱗で溢れかえっておったのだ」
「へぇ!?」
縁起のいい夢じゃねぇかと、元親は海の男らしくわくわくした顔を元就に向けた。
「ははっ、そりゃあ現実かもしれないぜ?っていうか、予言(かねごと)かもな?見てろよ、俺の魚籠は今は空っぽだが、こっからが勝負だからよ!」
元親は上機嫌だ。
元就は先を言おうか迷った。
迷ったが、どこか腹立たしいような気分が黙っていることを赦せなかった。どう軽く見積もっても元親へのあてつけだとわかっていたが、意地になって元就は言葉を継いだ。
「船の上が魚でいっぱいになって・・・」
元就は、喋っている自分が悲しくなった。こんなことを言えば、元親を不快にするとわかっているのに。
「・・・そうしたら貴様が、もう場所が無いから、我に下りろと言った。船から、湖(うみ)へ。・・・もう用済みだからと」



案の定、元親はそれを聞くとぎょっとしたように元就を振り返った。
そういう表情をさせているのが自分の言葉だと思うと、どこか冷たく突き放したような喜び(に似た感情)が襲ってきて、元就の唇はすらすらとさらに言葉を紡ぐ。
「我は水に落ちて・・・いや、貴様に突き落とされたのか?・・・水面から顔を出したら、貴様はそのまま船を漕いで遠くへ行ってしまった」
「・・・毛利」
「そういう、夢だった。面白かろう?」
「・・・毛利、なぁ」
「力尽きて沈みそうになって、そこで目が覚めたのだが」
手を伸ばしたけれど、誰も――元親も――助けてくれなかったことは、黙っていた。
元親は、黙ったまま釣り竿を船の縁にかけて固定すると、膝を抱えて座る元就に胡坐をかいて向きなおった。表情はどこか泣き出しそうな子供のようだと元就は思った。



「・・・あんた、俺を苛めて楽しいかよ?」



「べつに・・・苛めてなどおらぬ。夢の話をしたまで」
「それはほんとうに夢だったのか?それとも、・・・あぁ、別にどっちでもいいんだ、・・・あんたが俺になんか怒ってるか不満感じてるのは確かだろうからな」
元親は溜息をつき、元就はきょとんと元親を見上げた。
「貴様に含むところなぞ無い。・・・国に帰れば別であろうがな」
「・・・国に帰れば、か。なるほど?」
元親は白髪を乱暴に片手でかきまぜた。それから、俯いた。
「―――じゃあ、国になんざ、帰るんじゃねぇ」
元親はぼそりと言った。
元就は瞬きをした。
それから、ふふ、と笑った。元親はその表情をじっと見ている。一挙手一投足が冷徹な中国のあるじにこの瞬間、徐々に戻っていることは元就自身にも分かる。
骨ばった指先が元親を指した。
「できもせぬことを申すでないわ、長曾我部元親。所詮このような時間、我らにとって仮初にすぎぬ」
それを聞いて、元親は何故かにやりと笑った。



よいしょ、と立ち上がると、素早く元就の細い肢体を掬い上げたのである。
横抱きにされて、元就は焦った。元親は何も言わず、元就を抱いたまま舟べりに近づく。
「っ、貴様、何をするつもりだ!?」
「口の減らねぇ野郎だ。こっから望みどおり放り出してやろうか、ってな」
「なっ」
元就は絶句した。慌てて激しく暴れたが、元親は動じず表情も変えない。片足を船の縁にかける。
元就は自分の体の半分がすでに水の上に出ていることを知って青褪めた。元親の顔を思わず殴りつけた。けれど元親はびくともしない。
(・・・望んでなどおらぬ!)
そう言おうとしたが、当然のごとく矜持が許さず、きゅっと唇を引き結んだ。夢で見たと同じ銀の波が目の前にちらちらとさざめく。沈んだ水底は別世界のように昏くて、怖かった・・・
『あんた、下りろよ』
夢の中の元親は、笑顔でそう言って躊躇なく元就をつき落とした。
その瞬間が、もっとも怖かった。



夢の魚は、“天下”だったのだろうか。もしくは、彼の大事な者たちか。彼の領土である四国か。
元就は、そのどれにもあてはまらず、どれにも興味は無く、どれともかかわりが無い。異分子だった。
それは、現実の今も同じだ。なりゆきで共にいるけれど、ひとつ箍が外れれば終わる時間に違いない。
「・・・やめっ・・・」
たとえば四国と中国が連携をしたとして、―――それでも、やはりいつか唐突に終わりは来るのだろう。そんな未来を暗示しているようで、元就はあんな夢は口にしなければよかったと思ったが、けれど言わずにおれなかったのだと気付いた。
誰かに・・・元親に喋ってしまいたかった、・・・むしろ、分って欲しかった。
同じ船にずっと乗っていたいと言いたかった。
決して口にはできないけれど・・・
「―――ほらよっ!!!」





掛声がして、元就は目をきつくつぶった。
水の衝撃が来るかと体に力を入れる、・・・だが、実際はそうではなく、かわりにぐるんと体は大きく一回転以上して、「船底に」放り投げられていた。
・・・先に転がった元親の体の上に元就は圧し掛かった。勢い余って鼻先を元親の胸元のスカアフにつっこんだ。
元親はしてやったり、とばかりに、元就の体を受け止めて船底に転がり、大きな口を開けて笑っている。
「くっ、ははは!おいおい、なんて顔してやがる、毛利?そんな怖かったか?すっかりだまされたろ?ん?」
「・・・くっ。下衆が!」
「顔に似合わねぇ汚い言葉使うんじゃねぇよ」
さらりと戒めて、元親はなおも笑っている。そしてぎゅうと元就を逞しい両腕で羽交い絞めにするのだ。まるで離すもんかよ、というみたいに―――
「あんたを放り出すんだったら、俺自身を先に放り出すだろうぜ」
元親は柔らかく言った。さりげない声だった。
元就ははっとして、顔を上げようと思ったが元親に頭ごと抱えられていて動けない。白いスカアフがぐしゃぐしゃと目の前で音をたてる。
「何を捨てていいか、何を放り出しちゃいけねぇか、くらいは、これでもわかってるつもりなんだがなぁ・・・」
亡羊と、呟く声がした。元就は身じろぎをやめた。
ひっそりと、溜息が聞こえた。



「できもしないこと、か。・・・たとえば天下取ることは無理でも、・・・あんたを俺の傍に置いとくことは、叶いそうな気もするんだが・・・俺の独りよがりなのか?」



独白だったのだろう。いつもの元親のような溌剌とした勢いは無く、思うことをぽつりと其処に置いただけのようだった。
元就は掌を握り締めた。どういう顔をしたらよいだろうかと真剣に悩んだ。
「なぁ、毛利」
今度は、はっきりと声が聞こえた。
「国になんざ、帰るなよ。俺と一緒にいようぜ、ずっと」
「・・・」
「なぁ。面白そうだろ?どうだ?」
「・・・」
元就は応えなかった。
言葉にすれば、また「できもせぬことを」と言ってしまいそうだった。現実に、元就はそうとしか言えないし、元親だってわかっているはずだった。自分たちの立場というものを。
・・・それでも。
その言葉を呉れた元親のこころは元就にとって嬉しかった。
どういう顔をしたらいいだろうとまた考えていると、元親が不安げに、おい聞いてんのかよと言う。聞いている、とぶっきらぼうに答えた。それから、わざと、スカアフに顔を擦りつけた。
「聞こえてんなら、なんとか言いやがれ。おい、毛利?」
「・・・聞こえておる」
「だったら、なんか言え」
「・・・我は」
元就は困って、思ったままを口にした。顔を、上げて、元親と視線を合わせる。
「この感情が何かわからぬ。・・・貴様に、どういう顔をしたらよいかわからぬゆえ、考えていた」





元親は元就の表情を見て、言葉を聞いてぽかんと口を開けたが、やがて声を派手に上げて笑いだした。眦に涙まで浮かべているので元就はさすがにむっとした。
はなせ、と言うと、はなさねぇよ、と応えてくる。
こんな可愛い面白いもんをはなすもんか、などと言っているので、元就は手を伸ばし、ぺしゃりと元親の顔を掌で叩いた。それでも元親の腕ははなれない。
やがて、ひくっと元親の胸がしゃくりあげるように動いて、元就は訝しげに様子を探る。
「毛利よぅ。・・・頼むから、もう少し俺を信じてくれよ」
そう言って、元親は泣いているのだった。
元就はもう何も言えなくなった。
あんたを放り出したり、しねぇから。そんな不安な夢、見ないでくれよ。なぁ、毛利。
そう言いながらおおきな掌が元就の髪を撫ぜる。元就はそっと視線を天に送った。日輪は西に傾き鳥の群れが忙しなく湖を囲む山へ戻っていく。
「・・・信じる、だと?」
呟いて、元就は、自分も元親と同じように言えればいいのにと心底思った。ずっと一緒にいられたらどれほどに・・・



「・・・長曾我部!」



視界の端の動きだしたものに気付いて、元就は身を捩った。元親は、はなさないと意地になって抱き締めるので、元就は柄にもなく焦って舌打ちした。
「馬鹿者、そうではない!・・・釣り糸を見よ!引いておる」
「・・・えっ!?」
慌てて元親は起き上がった。確かに釣り竿は舟縁でつよくたわんでおり、元就は早うとせかし、元親は大慌てで釣り竿に飛びついた。



だいぶ長いこと格闘して、釣り上げたのは大きなウナギであった。何故湖に鰻がいるのだと元就は呆れ、元親は俺こんなのさばけねぇよと途方に暮れている。
やがて二人で揃って笑いだしていた。
「やれやれ、丸半日かかってこれかよ。もう諦めようぜ、岸に戻るか」
元親は笑いながら櫂を手にして漕ぎだした。元就はおとなしく船の端に座り、足元で跳ね踊る鰻を興味深げに見つめていた。
「予言じゃなかったなぁ」
さらりと言われて、元就は顔を上げた。
「なにがだ?」
「あんたの夢。船底いっぱいに魚が跳ねてたんだろ?」
「・・・あぁ。そうだな」
「残念ながらその夢ははずれだな、てこった」
「・・・そうだな」
元就はこくりと頷いた。元親が言いたいことは、だから安心しろ、俺はあんたを見捨てねぇよということだと分かって、小さく安堵の息をついた。
変わらぬものはなにひとつ無く、できることは限られているけれど。
元就が元親を信じることは、誰に言わずとも誰が知らずとも、できることなのだと。そんなふうに考えて、元就は俯いて、いつしか柔らかく笑っていた。



「世中は常にもがもな 渚漕ぐ海人の小舟の つな手哀しも」

>「一緒に船で旅をするチカナリが読んでみたいです。」
リクエスト有難う御座いました!旅っていうよりは船遊びみたいになりました;
ちょっとだけ、英雄外伝の元親伝を意識してみたw