ベリー・スイート・コンフュージョン





元就が元親の屋敷の中庭に足を踏み入れたとき、元親は部下の一人と何か相談の最中だった。礼儀として話の内容が聞こえない距離を保ち黙って元就が立っていると、どうやら話は終わったらしい、部下が立ち上がる。元親は自分より小柄な―――大抵の者は元親よりは小柄だが―――その部下の肩をぽんぽんとたたくと、ふいにぎゅうと彼を両腕で抱きすくめた。
ああ、またか。
元就は少し目を細めてじっとその様子を見つめた。案の定というか、そうされた部下はひどく狼狽し、けれどまんざらではない様子でしどろもどろに何事かを口にしている。元親は元就がたっぷり二十は数える間そうやって相手を抱いて相手の肩に顔をうずめていたが、気が済んだのか顔を上げると満面の笑みを浮かべて解放したのだった。
きっと、何か長曾我部にとって有益な働きをしたのだろう、彼は。だから元親は感謝と嬉しさをああやってあらわしているのだ。
元親は、いつも、そうだ。



「お、毛利、来たか」



立っている元就に気づいて元親は屈託の無い笑みを投げてよこした。慌てて、部下はひとつ礼をするとその場を辞した。隣をすれ違う彼の顔を元就がそっと見れば、まだ若いその男の頬は上気していて、元就はふぅと大きな息を吐き出した。敬愛する主君にあのように体全体で喜びを表現されたら、それはもう感激に違いあるまい。そうやって元親の一喜一憂で四国の人もモノも動いている。元就にはそれは理解し難い、けれどなんとも言えず口の中が乾くような感覚がせりあがる。
「来てたのかい、声かけてくれりゃいいのによ」
「・・・・・・」
元親は元就の逡巡には頓着せず、どんどん近づいてくる。
声のかけられる場ではなかった、と。なぜか言えずに元就は黙っていた。元親は諸手を広げてやがて元就の目の前まで近寄ると、元就の華奢な肩をぽんぽんと厚みのある大きな掌でたたく。やんわりと暖かいそれが何故か今日はいつになく鬱陶しくて、元就は黙って手で払った。
「毛利?」
「・・・何故にそのように、触れたがる?」



己の口から転び出た問いかけに、元就自身が驚いたのは確かだ。
元親は面食らった表情で、はぁ?と聞き返した。当然だろう。元就はふいと横を向くと本日の用件はかくかくしかじか、と抑揚のない調子でまるで経を諳んじるように述べてみせた。視線はずっと、先ほどの元親の部下が消えた先へ据えていた。
「・・・以上だ」
「・・・毛利ィ、何怒ってんだ?」
用件を言い終わってほっとする間もなく、元親はそう言うやいなや、ずいと顔を近づけてきた。元就は困ってしまい、どうしようもないので取り敢えず自分より余程背の高い目の前の男を睨みつけた。
「怒って?・・・唐突に失礼な話よな、長曾我部」
「でもよ」
「話にならぬ、我は帰る」
ぱっと身を翻した元就の、袖に隠れた細い手首を元親は的確に掴んだ。
「ほら、怒ってんじゃねぇか」
「怒っておらぬ」
「何か俺ァ、あんたに礼を失するようなことをしちまったか?だったら謝るからよ------」
「謝罪なぞ、必要なし」
「毛利」
元就は振り返ると、元親に掴まれた己の手首を見た。
「・・・何故に触れたがる?」
どうしても己が疑問に思うのはその一点らしい。
結局元就はもう一度口にしてしまい、元親はそれを聞いてぱっと手を離した。ゆるく伝わっていた男の乾いた掌の感触がふいに無くなって、何故だか急に元就の背は強張った。
「・・・帰る」
再び呟くと、元就は屋敷の総門へ向かって真っ直ぐ進んだ。元親の気配は背後に在る。ただ在るだけで追いかけることも立ち去ることもなく、それが少し哀しかった。





普段なら客人として岡豊の城に招き入れられるはずが今回はそうならなかった。
元就は四国まで来てしまったからにはすぐ帰るわけにもいかず、仕方なく部下に命じて少し大きめな町家へ頼んでしばし滞在することにした。
日が沈んだ頃から雨が降り出した。宛がわれた客間の雨戸をばらばらと叩く強い雨音に元就はしばらくじっと耳を傾けた。
いつもどおりならばこの雨音は、いつも通される元親の城の一室で聞いていたはずだ。何故に己はこうやって全く見知らぬ土地の見知らぬ者の家を借りて夜を過ごしているのか。何故此処にいるのか。
何故。
何故、怒ったのだろう。
(怒ってなぞおらぬ、・・・我は)
自分に言い聞かせて溜息をひとつ、元就は所在無さげに部屋をぐるりと見回す。何もすることがない。もう寝てしまおうと、少し不貞腐れて既に敷いてある布団にさっさと潜り込んだ。嗚呼こんなことなら安芸にいればよかった、と頭まで布団を被ってじっと息を詰める。
長曾我部め、何故にあのように誰にでも、臆することなく遠慮も無く触れたがる?
元就が覚えている元親の肌の感触は、けれど昼間見たあの光景のように全身からあふれるものではない。元就の知っている元親の肌はいつも“掌”で、そこにしか触れた記憶はない。
手首や額や頬や、いろんなところを今まで触れられたが、いつもそうするのは掌。あんなふうにがっしりと抱きしめられたらどんなふうだろうかと想像してみる。物心ついたときには母はおらず、父も常に忙しく、兄は遠い京で質に取られていたため誰かに強く抱きしめられた覚えは元就には無かった。唯一、育ててくれた義母だけがいつも優しく頭を撫ぜてくれた、やはりその“掌”の体温しか元就は知らない。
だから、元就は他者に触れることに違和感を覚える。
だから、部下や家族に触れ、抱きしめ、肩を叩き、乱暴に小突きあう、そんな元親たちのやり方は馴染まなくて、目の前でそういうふうにされるとどうすればいいかわからず、ただじっと見ているしかない。
元親だけが感情が豊かなのか、それは土佐の者の特性なのか元就には分からない。土佐の海のせいだろうかと想像してみる。幾度か見た大洋へと通ずるその海は、瀬戸海とは明らかに違い荒々しく、その色はくっきりと紺碧をきらきらと湛えていた。海と、砂浜と陽光とのある意味三すくみの対比に眩暈がしそうなほどに。
そういう気候が作り上げた性質だとすれば納得もいく。元親はいつも海のようだ。
奴に抱きしめられたならば、もっと強く潮の匂いがするのだろうか。



元就さま、と部屋の外で詰める部下の困惑した声が響いた。なにごとか、と布団の上に起き上がると、長曾我部どのがお越しです、と。
元就が体を強張らせている間にすうと襖が開いて、じゃまするぜといつもの鬼の声が低く暗がりに響いた。
「―――だれぞ、灯を」
元就はそれだけを部下に命じた。それを部屋に入ってもよいという了解と取ったのだろう、元親は膝で元就のほうへにじり寄る。すぐと灯明が持ってこられて、部屋の中はほのかに明るくなった。
「なんぞ、用か、長曾我部」
雨の中ご苦労なことよ。そう呟くと、元親はゆっくりと元就の布団の前で胡坐をかいた。口元をきゅっと結んだその顔は普段の彼らしくなく暗かった。
「・・・あんた、なんで、こんなとこで。俺の屋敷に来りゃいいじゃねぇか。意地っぱりめ」
「強情なのは貴様も同じではないか、わざわざ我等の所在を探して------休んでおる我を起こして」
反論すると、それに関しちゃ申し訳ねぇと思ってる、でもよ、と元親は右の一つ目でじっと元就を見つめた。
「なんであんたが怒ってんのかさっぱりわからねぇ。俺ァ納得がいかないままほうっておくのは嫌いなんだ、だからはっきりさせに来た」
「・・・ほんとうに、ご苦労なことだ」
元就は呆れたというふうに肩を竦めてみせた。それから、ほんとうに我は怒っておらぬ、と呟くと元親は、毛利、と元就の手をそうっと掴んだ。
嗚呼、またか。
元就は眉を顰める。元親は、元就がそう考えているのを承知でやっているのだろう、じっと握り締めたまま離さない。何故に触れたがる?心に浮かんだその言葉を元就が口にする前に、元親は今度は反対の掌で元就の頬に触れた。
何故に触れたがる?
「・・・そんなに、俺に触れられるのは嫌か?俺は、あんたに触れちゃならねぇのか?」
声は少し掠れて震えていた。元就はぼんやりと輪郭の揺れる元親の真剣な顔をじっと見つめた。
「・・・怒っているわけでは、ない、」
言って俯くと、さらり、元就の切り揃えた髪が落ちて元親の手にかかる。そのまま指先を元就の髪の中へ滑らせると、元親は黙って真っ直ぐなその黒髪を丁寧に梳き始めた。そんなふうにされるのは初めてだった、指先が滑らかに自分に触れては浮き、また髪に差し込まれ、髪の束をゆるゆると摘んでは、はらりと放す。
元就は目を伏せた。
「我には、理解できないというだけだ・・・貴様の、誰にでも触れたがるそのこころが分からぬ。家族だけでなく部下にも、くに民たちにも、・・・・・・」
「毛利、俺は、全部を確かめたいだけだ、俺の手で確かめたい、それはどんなものなのか------」
「戯れ言を」
まるで目の見えぬ赤子よ。元就はそう呟いた。
「貴様の自信過剰にはいささかも慣れぬ。その腕にすべてのものごとを抱え込めると思うてか?どだい我らも人ぞ、ましてや万能のはずも無し。貴様がどれほど必死になろうと無理なことは無理であろう」
「だからって、最初から触れずに眺めているだけなのは俺ァ、嫌だ。だから俺は、戦だってほんとうは一騎打ちの・・・・・・片割れ月みてぇに張り詰めた勝負が好きだ。相手とちゃんとぶつかりてぇんだ」
「では我とも、そのようにすればよいと申してやろうぞ・・・今ここで、再度の一騎打ちを望むか?」
「違う!あんたとは、違う毛利」
元親は両の手を元就から離した。元就は伏せていた目を上げた。離れていく指先を掴んで自らのほうへ引き寄せたい衝動にかられたが体は動かない。元親は自分の掌をじっと見つめている。
「そうじゃねぇんだ―――」
毛利、毛利。
二回呼びかけて、元親は真っ直ぐに元就をそのひとつ目で射抜く。



「・・・俺は、あんたに、触れていいのか?」





「・・・もしも・・・是、と言うたならば―――」





元就がぽつりとそう零した瞬間、肩をどんと押されて元就は布団の上に転がった。何が起こったのかわけが分からず、少しぶつけた肩を右手で擦った。視線を上げると元親が自分の上に覆いかぶさっていて、元就は不思議な光景だと奇妙に冷静に考えて、それからそんな自分を密かに心の中で笑った。
毛利、と掠れた声が耳元で聞こえる。いつの間にか元親の逞しい上半身はきれいに元就の胸板にぴたりと張り付いていた。先ほどしていたように一方の掌は元就の後頭部へ差し込まれ、髪を梳き、もう一方の手は、はじめて肉の薄い背中へ回されていた。
我は今こ奴に抱きしめられているのだな、と元就はぼんやりと考えた。
元親からは想像した潮の香はしなかった、代わりにぽかぽかした日輪に照らされた下草のような匂いがする。元就は意外そうに目を瞠る。外は雨だというのに、どうしてこの男は日輪を思い出させるのだろう。今だけではない、ただ一瞬触れただけの彼の掌、指先までもいつも、いつも。
毛利、毛利、毛利。
今度は三回呼んで、元親は元就の肩口へ顔を埋める。昼間見た光景を思い出し、けれど元親からはあのときのような屈託の無い楽しげな感情は伝わってこない。そのことに気づいて、元就は少し身を捩った。元親が気づいて顔を上げる。
「やっぱり、だめか?・・・・・・俺は、あんたに触れちゃならねぇか?」
「・・・・・・そうでは、ない、寧ろ貴様が」
「俺が?」
「我に触れても、しあわせそうでは、ない」
天井の木目に見える年輪を淡々と数えながら、元就は言った。元親が息を呑む気配がした。
「いつも、誰にもたくさんふれて、楽しげに笑う貴様が。我にふれるときだけ、どこか、つらそうだ」
「毛利、」
「怒ったわけではない------怒ってなぞ、おらぬ。ただ、我は、違うのだなと」
昼間の元親の部下と同じようにはなれないのだ。
さらに何か言おうとして、空気だけが喉元からひゅうと零れ出て、元就は自嘲した。
「・・・どうも、すこし、のどが渇いて・・・・・・うまく、言えぬが」
「・・・毛利。毛利、あんたは、こんなに頭がいいのに、どうして」



「どうして、こんな、簡単なことが分からねぇんだ?」



突拍子も無い言葉に、元就は年輪を数えることをやめて元親に視線の焦点を合わせた。けれどすぐに元親は再び元就の肩へ鼻先を埋め、背を擦った。何度も何度も。
楽しくねぇ、だと?俺がどれだけあんたに触れたくて、でも出来なくて迷って我慢して、距離のとり方ひとつ分からなくて、だから掌を当てることしか出来ない、なんで気づいちゃくれねぇんだと。あんたがそこに居て俺の話を聞いているとただ確かめたいだけなのに、どうしても伸ばした腕はいつもみたいに素直に動かなくて、何も出来なくて、それをあんたは俺が楽しくなさそうだと言うのか。違うと言うのか。違うとするならば、触れたいというこころが------その強さが確かに違う、誰よりもあんたに触れたかった、俺は。
滔々と吐き出される元親のことばを、元就はただじっと聞いていた。
どうすればこの男に答えられるのだろう、と、ただそれを考えた。
抱きしめられることに慣れていない、肉親の誰も己を抱いてはくれなかった。だからどうすればいいかわからない。昼間のあの若い元親の部下のようにただじっとしていれば?
「長曾我部、我は------」
けれど、次の瞬間。
「毛利、毛利。あんた、あったけぇなぁ?」
あまりに唐突な、童のような無邪気な発言に、力が抜けて思わず苦笑してしまう。
「・・・・・・何を、当然のことを」
「当然じゃねぇよ」
元親は不本意だ、というかおをした。
「俺、今まで知らなかったんだぜ、毛利、あんたのあったけぇのも、匂いも、髪がこんなまっすぐだってことも、何も」
「・・・・・・」
「だから、よかった。触れてよかった」
「・・・・・・」
「・・・触れて、いいんだよな、俺は?あんた、嫌じゃ、ねぇんだよな?」
怖々と、まだそんなふうに、確かめるように。
元就は、ふっと息を吐き出した。
わかっておらぬのは。
貴様も同じではないか?




怒ってなぞいなかったのだ。ほんとうに。
ただ、ただ、何処かがひどく痛んで。
けれど今はもう、感じない。何故だろう。何故?
「・・・駄目ならば、とうに貴様を刺し貫いておるわ」
そう言って、元就は不器用に元親の背に腕を伸ばすと力を篭めてみる。大きな背は元就の腕では完全に抱えることは出来ない。けれど初めて他人にそうした指先は甘くじんと痺れて、元就はじっと動かずに。
元親も動かない。
雨音だけが、きこえる。



ずっとこの夜が続けばいいと元就は思った。





・・・キスまでいかなかった_| ̄|○
次こそは・・・ッ