(1)

 養父が倒れた、と報せを受けたのは、語学留学中だった。
 三成が急ぎ帰国し病院に駆け付けたときには、日頃見上げていた養父の大きな体はすでに白いシーツが掛けられ横たえられて三成をひたすらな無言で迎えた。三成は茫然と、薄く灰色のかった天井を見上げてその場に座り込み、石のように冷たい手に触れ…やがて滂沱と涙を流した。喪ったものは三成にとってとてつもなく大きく、その喪失がにわかに信じられなかった。泣いても泣いても涙は止まらなかった。
 いったいどれくらいそうやって泣いていたのかわからない。
 我に返ったのは、友人であり、ある意味義兄のような立場である大谷吉継に肩を揺すられて、だった。
 刑部、と三成はいつものように古めかしい渾名で大谷を呼んで、また新たな涙が眦に盛り上がるのを感じた。
 大谷は病のために顔半分に巻いた包帯の奥で、少し困ったような、寂しそうな笑みを珍しく浮かべ、可哀相にナ、三成、と呟いた。それが、また三成の涙を誘ってしまい、大谷は今度は苦笑してしまったことだ。――それでも「刑部」は、子供のようにしゃくりあげる三成の傍で、暫し黙っていてくれた。


 漸く立ち上がり、大谷に伴われて控室に行った三成を待っていたのは、追い打ちをかける辛い話ばかりだった。
 死因は心臓発作だということ。おそらくは心労と疲労が原因であるということ。政治家として内部告発を受け、検察の家宅捜索を受けたこと。さらに事業内容について、インサイダー取引を始め不法な献金や暴力団との関係が明るみに出たこと。――語学研修に赴き、勉学に没頭していた三成は、ここ数日の世間の流れを知らなかった。いくつかはニュースとして流れてもいたのに、気付いてすらいなかった己を三成は呪い、…同時に、豊臣の跡取りと持て囃され育てられてきたにも関わらず、そんな重大な話を、重大な危機に、全く何一つしらされなかったことに絶望に似たものを感じた。
(私は、…無力だ。期待すら、されていない…?)
 脱力感に苛まれる三成に、さらに話は続く。政治家の地位から追いやられたのも、今回の不祥事発覚も、どうやら同じ人物からの告発が原因らしかった。度重なる心労についに養父は倒れたのだ、と吉継はどこか恨みこもった声で言った。
 養父は一代でのし上がり今の地位を築いた。その過程で様々な――法律すれすれのことにも手を出していたことは、三成も薄々気づいてはいた。
 それでも、弁護士資格を持つ養母(数年前に、病で亡くなったが)に支えられて一大企業を作り上げ、政界にも進出し、国政に足掛かりをつくり――ほぼ順風満帆で突き進んできた養父を、三成は深く尊敬している。些細なきっかけで幼少のころ養子に迎え入れられ、当初は不安に戦慄いた日もあったが、今となっては養父と、そして養母に育ててもらったことを感謝こそすれ、恥じることも、恨むことも、なにひとつ無い。二人には感謝と憧れがあるのみだ。
 だから余計に悔しかった。
(養父の成功を嫉妬した者たちが、その足を引いたのだ…そうに、違いない!)
 三成はそう理解し、歯ぎしりした。
 養父は屈強な肉体と精神を持つ強い男だったが、数年前に盟友とも言える妻(三成の養母)を喪ってから、少し衰えが見えるようにはなっていた。そのこともあり、早く一人前になって養父を支えたいと、三成は日々勉学に励んでいた。養母の代わりにはなれなくとも、ほんの少しでも負担を減らしてさしあげたかった。
 目指す大学には合格した。あとは国家公務員になり、やがて秘書となり、父の後を継いで政界へ。…描いた未来は完璧の筈だった。
 その矢先、養父は…秀吉は、倒れたのである。
 三成は己の描いた青写真が、すべて養父あってのものだったのだと、今更のように思い知る。唇を噛んで涙が零れるのを耐えようとするが、やはり叶わない。

 *

 大谷吉継は、三成の前に二人に迎えられた養子だった。
 図らずも病を得、それが非常な難病だったために死期を遅らせることはできても体力的に激務には耐えられないと医師から宣告され、養父母は泣く泣く吉継を跡取りにすることは諦めた。けれど吉継は優秀であることに変わりはなく、元の家に戻っても二人の援助を受けながら、次に迎えられた養子の補佐をすることになった。
 それが三成だった。
 本来ならば自分の地位を奪った相手であるからには、邪険な態度のひとつも取ってよさそうなものだが、吉継は裏表のない(ある意味、年齢より幼い)三成のことは気に入ったらしかった。以来、なにくれとなく面倒を見てくれている。三成にとっても、頼りになる兄弟子のようなものだ。
 最近は体調が徐々に悪くなり、入院期間もじわじわと延びるようになっていた。その吉継が悪い脚を引き摺って来たのは、途方に暮れる三成を慰めるためにほかならなかっただろう。
 ――ただ、吉継は三成の傍にいることはできても、実質己の身のことで精いっぱいだった。事業の内情からも、養父の…秀吉の政治家としての活動からも、最近の吉継は身を引いていたため、この事態になるまで気付けず全てが後手に回るしかない。

 *

 豊臣の家に戻ってみれば、家宅捜索に加えて債務整理と称し、見知らぬ者たちが大勢、土足で家の中を踏み荒らしていた。家じゅうのありとあらゆるものが段ボール箱に無造作に詰められて運び出されていく。豪奢な家具も次々に外に出されていく。やめろ、と叫んで三成はスーツ姿の一人に縋ったが、煩そうに振り払われて床に投げ出された。
 大理石の冷たい床に体をぶつけ、三成は蹲る。嘲笑うように倒れた三成の横を、たくさんの靴が通り過ぎていく。
「…三成。大丈夫か」
 やがて大谷の低い声がして、倒れたままの三成の背を擦った。三成はひくっとひとつ震え、濡れた顔を上げた。
「刑部…何故だ…?」
「三成」
「秀吉様が、一体何をした?黒い噂はあったかもしれない、手を染めていらっしゃったかもしれない…だが世の政治家たちはみんなやっていることだッ!」
「…」
「事業のこともそうだ…儲けることの、何がいけない?誰かを殺したわけではない!なのに些末事であることないこと、内情を告発し…秀吉様がおひとりであそこまでのし上がったことが、それほどに目ざわりか?同じようなことを、別の…長く続く大企業がやったならば、むしろ逆に、潰さないよう国家支援が入るというのに?何故秀吉様だけが…槍玉にあげられ、全てを奪われねばならないのだ!?お一人ですべてを作り上げてきた手腕をッ、何故ッ!褒め称えるのではなく、邪魔をし、引き摺り下ろそうとするのだ…!!」
 吉継は頷き、そうよな、と呟いた。そうだろう、と三成は泣きながら縋った。
「何故だ?秀吉様の御威光に預かってきた者たちも、…掌を返す?秀吉様の偉大さが何故わからない?あの方が、あのままこの国の元首まで登りつめれば、もっと、もっと、全てが…よくなっていた筈だというのに…ッ」
「そうよな、そうよナ。…三成、もう泣くな、少し落ち着きやれ」
「刑部…刑部ッ。私は悔しい。私は…この怒りをどうしたらいいのか、わからないのだ…!!」
 ――けれど、三成には、泣くことしかできない。
 明日からどうすればいいのか。それすら、わからない。この家にはもう住めないことだけが事実として目の前に突きつけられている。


「――すまん。遅れた」
 徐々に人気の引いていき、がらんとしてしまった広い屋敷に、声が響いた。寄り添って蹲っていた三成と吉継は顔を上げた。
 妙齢の女性が立っている。
「貴様は、誰だ…?」
「石田三成、だな。…貴様の身元引受人だ。代理だが」
 女性は持っていたブリーフケースから書類の束を出した。少し部屋を見渡し、まだ残っているテーブルにいくつか倒れている椅子を起こして並べると、座れ、と三成に命じた。三成は眼を剥いた。
「私に指図するなッ!ここは私の家だッ」
「そうだったな。先程までは、な。今は差し押さえられている、さしずめ誰のものでもない」
「――ッ」
「いいから早く座れ。私は急いでいるのだ、手短に話す。一度しか言わないからそのつもりで聞いて理解しろ石田三成、お勉強はできると聞いているぞ」
「――なんだと…」
 馬鹿にした言い方だったため再度怒鳴ろうとした三成を、吉継が押しとどめた。不承不承、三成は震える拳を下ろして、言われたとおり椅子に座った。
「申し遅れたな。私は雑賀という」
 名刺を出され、三成は受け取った。弁護士だという。じろりと三成は雑賀というその女性を睨み上げた。意志の強そうな目元の整った容貌、すらりと長い手足。美人の範疇に入る容姿だったが、これまでに会った覚えは三成には無い。吉継が黙っているからには、彼も知らないのだろう。
 三成は探るように彼女を見つめ、問うた。
「私の身元引受人だと、さっき言ったな。…私は天涯孤独の身だ。親族は今は秀吉様以外いないはず。生家の者たちもすでに死んだと聞いている。それに――もし生きていたとしても、今更戻るつもりもない」
「…言うことだけはいっぱしだな、今日から住む家も無いというのに」
 さらりと告げられたそれは、正論だった。三成は歯ぎしりしたが、返す言葉は無い。
 雑賀は、淡々と続けた。
「まぁいい。未練もしがらみも無いという意味では大変結構だ。…貴様を、引き取りたいと言っている者がいる。その者からの依頼で私は此処に来た」
「何…?」
 三成は唖然とした。吉継を振り返る。少し後ろに座っていた吉継も、驚いているようだった。三成を見ると、ゆっくりとかぶりを振る。
「われには思い当たる節がない。雑賀とやら、一体誰だそれは」
 すると雑賀は首を横に振った。
「すまんな。依頼主からの希望で、名は明かせないのだ」
「…なんだと?名を明かせない?」
 三成は暫し瞬きも忘れて雑賀を見つめていたが、やがてがたんと椅子を倒して立ち上がった。
「ふ…ふざけるなッ!何故、名も明かせぬ者に、私が世話を受けねばならない!?そんな怪しい話にのれるか!それならば、秀吉様に引き取られる前にいた、保護施設に戻ったほうがよほどマシ――」
「そうか。この話を受けねばそうなるだろうな。…まぁ奨学金を受ければどうにかなるかもしれないが、昨今、学費を全額支給してくれる奨学金もそうそう無いぞ石田。大学はどうするつもりだ」
 一気にたたみかけられ、三成は僅かにたじろいだ。
「そ…それは…ッ、アルバイトでもなんでもして――卒業してみせるッ」
「言うは易いが、そうやってなんとか大学を出られたとしても、貴様の目指す一種試験に合格するのはおそらく至難の業だぞ。まぁどうしてもというなら止めはしないが」
「……ッ」
 三成は黙り込んだ。何もかも調べられていることも驚きだったが、雑賀の言うことはいちいち的を射ていた。
 しかしやはり、話の全容が見えてこない。簡単にのってよいものか三成が思案している間に、雑賀はたいして感情を動かしたふうもなく続けた。
「里親制度があるだろう。言ってみればそれと同じだ、顔の見えない養育支援のようなものだと思えばいい」
「…私を、援助したいという者がいる、ということか?」
「そうだ」
「…それは、私に向けられた悪意ではなく?裏切りも、なく…?」
 呟くような小声に、雑賀は少し、目を見張った。
 やがて、初めて彼女は笑った。苦笑のようでもあったが、どこか優しさの滲んだ穏やかな笑みでもある。雑賀は口元をほころばせたまま、はっきりと言った。
「心配するな。悪意は毛頭、無い。…その者は、善意から、貴様に不自由をさせたくないと言っているのだ」
「…しかし。理由が、わからない。何故私を?見知らぬ者だというのに?」
 三成の言葉に、雑賀は秀麗な眉を寄せると、僅かばかり思案する表情をした。
「…確かに、アンフェアではあるな。…仕方あるまい、ではひとつだけ教えてやる」
 雑賀は少し考えてから、切り出した。
「その者は、貴様の養父殿に、恩があると言っている。今回のことを聞いて、受けた恩を、身寄りのなくなってしまったお前を援助することで返したいそうだ」
「――」
 思いがけない話に、三成はようやく顔を真っ直ぐ上げて雑賀を見た。
 なんとなく、頬が火照った。
 養父を認めてくれている者がいる…
 それは、なにもかも失くしたと思っていた三成には、日の光のように心を照らす、とても嬉しいことだった。疑う心は、霧が晴れるようにかき消えた。
 そうか、と三成は呟き、やがてこくりと頷いた。それを了承と受け取り、雑賀は満足そうにまた、少し笑んだ。


(2)