よすが





小十郎が板戸を数枚開け放ち、腰の得物に手をかけた。同時に控えていた者たちが小十郎の傍に慌ただしく集い、また在る者たちは政宗を守るように囲む。
明らかに臨戦態勢である。どういうことだろうと元就は板の間に転がったまま眉を顰めた。
元親の足音が日ごろより響くのは、自分が板の間に倒れたままかと元就は考えた。踏みしめる力がじかに冷たい板から伝わってくるようで、元就は不思議と安堵した。壇上の政宗をちらと見遣れば、少し考え込むような表情である。
その視線が、ふと元就を見る。
・・・口元ににやりと、彼らしい(と、元就は思った)笑みを浮かべると、座を立ち元就の方へ歩み寄り、傍らにしゃがみこんだ。その合間にも元親の怒声が徐々に大きくなりながら近づいてくる。時折途切れるのは足止めされているのか、それとも、
(・・・あやつ、・・・邸の中で暴れておるのではあるまいな・・・)
「Hey,毛利元就」
急に話しかけられ、元就ははっと、すぐ近くにある隻眼の青年を見上げた。
「見てみろよ。・・・小十郎がああやって待ちかまえてるってことは、殺気感じてるってこった。どうやら元親の奴、かなり・・・お怒りらしいぜ?」
楽しそうに、笑う。元就は瞬きもせずに政宗を見ていた。
「・・・なァ、アンタ」
しばし笑ったあと、政宗は元就の細いあごをつまみ、自分の方へ向けさせた。
「・・・アンタ、一体誰だ?・・・“毛利元就”じゃねェのか?そのはずだ・・・なのになんで、元親の野郎・・・一体―――」
「―――」



「・・・毛利ッ!!!」
声とともに凄まじい地響きがして、板戸が一枚めきめきと音をたて半分に割れたかと思うと枠から外れ、倒れた。小十郎はすでに抜刀している。だん、と踏み込む足が軋まんばかりに廊下を走り抜け、次の瞬間剣戟の金属音と同時に火花が散ったのが僅かに煙るむこうに見えた。
政宗が、振り返って小さく舌打ちをした。
―――すっかり開放された、庭に面した廊下で、片倉小十郎と武器押し合い凌ぎを削っているのは当然、元親である。しかしその手の武器を見て元就は驚いた。政宗も同じらしい。むしろ呆れ顔だ。
「おいおい、マジかよ?・・・あの野郎・・・人んちで物騒なデカブツ振りまわしやがって!」
それは元親が当主としての戦をするときに使う、愛用の碇槍だった。旅の間中、分解して荷物の中にしまいこみまったく使っていなかった代物だ(元就もそれは同じだった、目立たないためにやむを得なかった)。何故、と元就は考え、考えた自分を心のどこかで哂った。とっくに知っているくせに!
―――元親は、親友である政宗に本気で怒っているに違いなかった。
あの槍は元親が大事な部下や国に対して危害を加えた、もしくは奪っていった何者かへ制裁を加えるときの象徴だった。どうあっても守るという気概の表れに違いなく、では今元親の守ろうとしているものは何かと問われれば。
(・・・阿呆め・・・)
元就は、唇をきつく噛むと俯いた。
(・・・我ごときのために?何故だ?)
・・・とっくに知っているくせに、まだ自分を誤魔化していたい、認めたくないと考えている己自身を、元就は不安定な心で見ている・・・



毛利、と嬉しそうな、そしてほっとした声が響いた。小十郎と押し合いながら、元親は政宗の傍らに転がる元就に気づいたらしい。けれど次の瞬間、その体が拘束されていることを見て取ると、再び怒りの空気が充満する。ぎちぎちと小十郎の刀身が悲鳴を上げている。政宗はヒュウと口笛を吹いた。
「・・・政宗ッ!!そいつに何しやがった!!?手ぇ離しやがれッ!!そいつの縄をほどけよ、おいッ」
一瞬気の逸れた元親の隙を見逃さず、小十郎の刀身が翻る、息つく間もなく神速の突きが繰り出される。元就は長會我部、と思わず呼んでいた。―――元親は咄嗟にのけぞってかわすと槍の穂先ではなく柄のほうで弾き返し、防ぐ。
本気で怒ってはいるが、本気で政宗や小十郎と殺し合うつもりはないのだと、その防戦のさまを見て元就は心底安堵した。おそらく怒り狂った元親があの槍を本気で使うならば、この邸ひとつ吹っ飛ばすことも可能であったろう。そしてその怒りが少しおさまったのは、元就が無事に見つかったことが原因に違いなかった。
「・・・伊達!早う、やめさせよ!このままでは二人とも無事ではすむまい、・・・なにをしておる!!」
無意識にそんなふうに政宗に命じていた。
政宗はひどく驚いた表情をした。しばらくまじまじと元就を見つめていたが、やがてくつくつ、笑いだす。元就が睨みつけると、政宗はハイハイと両手を少し上げ、降参の仕草をして立ち上がった。
「―――おい、そのへんにしとけ、元親!小十郎ッ!!」
声とともに、まず小十郎の動きがぴたりと止まった。ほぼ同時に元親の怒りが和らいでいく。やがて二人は武器を下ろした。元就はそっと、息を吐いた。
けれど、元親はそのままどんどんと政宗に近づく。背の高い彼は、床に転がる元就から見上げるとひどく大きく見えた。槍を肩に担いだまま、元親は政宗を見ている。政宗はじっと同じように元親を見つめていたが、やがて肩を竦めた。
「・・・とりあえず、その槍をおさめろよ、アンタ」
「・・・いや、まだだ」
元親の声は低かった。
そのまま黙ってしゃがむと、元就の縄を槍の刃の根元で切る。ようやく自由を得て、元就はほっとして座りなおした。顔を上げる、
―――いつものように(いつも、見つけてくれた後のように)元親がゆっくり元就を抱きすくめた。
「・・・よかった。毛利」
くぐもった声が響いた。少しうるんだ声だった。元就は、また自分の目の前が滲むような気がしてきゅ、と瞼をきつく閉じた。



「よくねェな」



政宗の冷ややかな声がして、元親と元就は顔を上げた。
いつの間にか小十郎はじめ、政宗の部下たちに囲まれている。当然皆が刀を構えたままだ。
「・・・元親。アンタ、怒る相手を間違ってんじゃねェのか?」
政宗の声は、先ほどまでのように力の抜けたものではない、ふざけていない。睥睨するひとつの視線は、元親のひとつの視線とぶつかる。元親はにらみ返す。
「どういうことだ、政宗?・・・そもそも、なんでこいつをかどわかしたりしやがった?」
「そんなもん、決まってるだろうが。まさか知らないとは言わせないぜ、元親、そして“毛利元就」
「・・・なんだと?」
「つい先年、オレの領地を荒らしてくれたな。オレを莫迦にするかのように適当に蹂躙してさっさと兵を引きやがった!・・・オレの動きを止めるだけが目的だったろうからな、やり方としちゃ間違ってねェよ。むしろ感心したぜ、さすがの詭計、ってな」
「・・・」
元就は、政宗を睨んだ。政宗は動じない。
「・・・で、元親。こいつがオレの動きを一定期間封じておきたかったのは何故かわかるよな?アンタなら?・・・その後こいつが急旋回して目指した先は確か、四国だったはずだぜ。・・・狙われたのはアンタだ、元親」
「―――」
「厳島でアンタの軍は結構な痛手をおったと聞いてる。・・・助けに行けなかったのは悪かったと思ってるがな、気付いたときにはアンタは中国と休戦してやがった。それも毛利の詭計の一環だとオレは踏んでたんだがな?だから様子を探らせてみりゃ、当主ふたりは影武者で、本物のアンタからのうのうと手紙がきやがった。オレが混乱したのもわかるだろ?」
「・・・政宗。何が言いたい?」
元親は呻くように声を絞り出した。
政宗は腕組みをして、見下ろしてくる。
「―――決まってんだろうが。アンタ、毛利がこれまで自領を守るために、あらゆる手を使ってきたことを忘れたのか?アンタが騙されてると思うからこそ、オレはそいつを捕まえた。なのになんで」
元親は、自分の腕を強く握る元就の手を感じて、はっと元就を見た。俯いて顔を伏せているために表情は読みとれない・・・
「・・・アンタ、なんでそんな野郎と一緒につるんでやがる?なんでそいつをかばう?」
政宗に淡々と問われて、元親は歯を食いしばった。
「ダチのオレと敵対する気・・・なんだろ?このありさまは」
政宗の声に見渡してみれば、広間の板戸はすでに数枚も元親の碇槍の衝撃で破損していた。うずくまっている者もいる。廊下の向こうで慌ただしく走り回る声もする。怒りにまかせて破壊行動をとってしまったこと自体は、元親は心底悔いたが、けれどひとつ息を吸い込むとそこへどかりと胡坐をかいた。
右腕には碇槍、左腕には、―――元就を抱いたまま。
そうして、政宗と小十郎たちにむかって、頭を下げた。
「すまねぇ、政宗。片倉さんも。邸壊しちまったことも、騒ぎを起こしたことも詫びる。・・・だが」
元親は顔を上げた。元就をぐいと、さらに自分のほうへ抱き寄せる。
「全部を話すつもりはない。・・・けど、俺は、こいつの手を放すわけにゃいかねぇんだ。・・・今の俺にとっちゃ、こいつは野郎共や政宗、お前と同じように大事だから」
元就の体が、その言葉にぴくりと震えた。
―――政宗は視界の端でそのようすを見て、僅かに口元を綻ばせたが、そしらぬ顔で、そしてきつい語調のまま、自分を力強く見つめてくる元親へ言葉を続けた。



「・・・聞けねェな。アンタ、騙されてるとは思わないのか。気づいたらある日アンタの国は毛利に飲み込まれてるかもしれないぜ?それでもいいのかよ」
「―――そんなことはねぇ!!政宗、俺はこいつと・・・毛利と約束した。俺を信じろと言って、毛利は俺の言葉どおりに侵略を止めてくれたんだ。俺は、こいつを信じてる」
「甘いぜ。そうやっていくつの国が消えてきたか・・・」
政宗は元就を指差した。
「何を根拠に、この男を信じる?この男のなにを信じるってんだ?こいつはアンタの・・・なんだってんだ?ダチか?ただの同盟相手の国主か?ダチだってんなら堂々とオレに会わせりゃいい。なぜ変装までしてこそこそしやがる?」
「い、いや、この恰好は」
元就が、そういえばまだ女性の恰好をしていたことに気付いて、元親は急に慌てた。そして、頭を下げた。
「それに関しちゃ、俺が悪いんだ。・・・お前に会わせないように、お前がこいつが毛利だと気付かないように、隠そうとした。それは俺だけが悪いことだ。毛利はいやだと言ったし、お前の領内に入ることも遠慮するって言ったんだ。本当だ」
政宗は、呆れたように元親を見つめ、口元に掌をあてた。
「けど、俺が、こいつと離れてるのが嫌だったんだ、・・・ほんとうに、それだけだ」
「―――おい、おい、元親?」
政宗は、前髪をかきあげると、大袈裟に溜息をついた。
「さっきから、アンタ、おかしいぜ?自分の言ってることの意味、気付いてるか?」
「え?」
ぽかんと見つめる元親に、政宗はにやりと笑った。
すでに小十郎や周りの者たちは、武器を納めていることに元就は気づいた。
政宗が、元親と元就を指差す。
「―――まるで、惚れた女をいっときでも傍から離したくないって、駄々こねてる男みたいだぜ?」





「―――ああ。そうだ」





聴こえてきた言葉に、むしろ元就が慌てた。一気に耳朶が熱くなるのがわかった。なにか言おうと顔を上げる。・・・元親は些かも動じていない。
声は、落ち着いて柔和だった。
「俺は、こいつに惚れてる。だから、誰にも渡すわけにもいかねぇし、行方知れずになって俺の傍から離すわけにもいかねぇんだ」
(・・・こ・・・この・・・ッ、阿呆めが・・・!!!)
元就は、羞恥と怒りに震えた。只管に恥ずかしく顔が火照った。きっとこれまで生きてきた中でこんなに恥ずかしい思いをしたことはあるまい・・・けれど元親は、関知しない。嗚呼この男は莫迦だと元就は心底から思った。馬鹿正直で、真っ直ぐで、自分が信じたことを疑わない。そんなところが嫌いだった。今もきっと嫌いだ。元就の気持ちをまるで忖度せずに堂々と巻き込んでいく、抵抗も許されない。強い力に押し流される。そんな長會我部元親が嫌いだった。他者の事情もろくに知らないくせに、知っているのだと言わんばかりに元就の囲った守りの土地に堂々と踏み入って手をとって、そうして、一緒に行こうと言った。嫌いだ。気に入らない。自分にこんな感情を教えたこの男が気に入らない。どうして涙が出そうになるのかわからない。それもいつか教えられるのかと思うと怖い。
一言怒鳴ってやろうと、元就は顔を上げた。



「―――、ッ!?」



元就は状況が理解できず、瞬きも忘れた。
元親の白い髪が元就の頬にかかって揺れる。
衆目の前で口づけられているのだとわかって、全身の血液がすべて顔に集まったかというくらいに元就は混乱した。
・・・やがて名残惜しげに唇が離れて、元親は半ばあきれ顔でこちらを見つめている政宗を見上げた。
「わかっただろ?・・・だから、こいつを離してやってくれ。赦してほしいとは言わねぇよ、・・・いつか、きっちり、俺たち二人で詫びはするつもりだ。だから、俺に免じて今日は―――こいつを」
頼む、と掠れた声がした。元親は再び頭を下げている。








「・・・くっ、ははッ!!」
政宗の笑い声が響いた。小十郎がひとつ、咳払いをした。
「どうやら、アテられてしまったようですな」
あまり客が来ているときには喋らない小十郎がそんなふうに言う。政宗はというと、すでに腹をかかえて笑っている。
「――あぁ、馬鹿馬鹿しい!crazyだぜ、元親!!・・・ま、アンタらしいがな!」
元親はほっとしたように顔を上げて政宗を見た。それから満面の笑みを浮かべて、サンキュ、と言った。政宗は笑いながら座へ戻ると、脇息に寄り掛かり、二人を覗きこむ。
「―――あぁ、くだらねェ。アンタらの痴話げんかにまんまと巻き込まれた気分だぜ?今になってわかったぜ元親、アンタが昼間どうにも落ち着きなかったのも、どうせこの人となんか先にあったんだろうが?」
図星だったので、元親はひとつ呻いて黙りこむ。政宗はくつくつ笑うと、元就に向き直った。小指をたてると、
「ま、今日のところは、元親のコレってことで処理しといてやるよ。・・・ただし、アンタが国に帰って主として君臨した場合は別だぜ。前の落とし前はどうにか形にしてもらうからな」
「・・・心しておこう」
元就は小さな声で応えた。政宗は頷いたが、ふいににやりと笑った。
「そうだな。・・・一回、その恰好で化粧でもして、オレの傍に一晩侍って酌でもしてもらおうか。なぁ小十郎?」
普段なら、政宗さまおふざけが過ぎますると言う、―――はずの小十郎が、そうで御座いますなとなんの反論もなく言ってのけたので、元親が焦った。
「ば、莫迦言うな!!そんなことこいつになんで・・・調子に乗るんじゃぇ、政宗ッ」
「はぁ?なんでだよ?別に、まだアンタのものだと決まっちゃいないだろ?」
「なっ・・・何?」
元親はぽかんと口をあけた。政宗は勝ち誇ったように言った。
「さっきアンタから聞いたのは、アンタの気持ちばっかだぜ、この人は実は今、アンタの発言に怒り狂ってるかもしれねェじゃねーか。我は貴様ごときを認めたわけではない、ってな?」
「!!」
言われて、元親はおそるおそる元就を見た。元就は、いつもの無表情に戻っていて、感情は読みとれない。元親は慌てて立ち上がった、これ以上此処にいたら何を言われるか・・・たまったものではない。どう見ても、すでに政宗は二人の関係を面白がっているに違いなかった。
俺たちもう戻るぜ、と言い残してあたふたと元親は元就の手を取り、邸から飛び出した。政宗が、此処の馬使っていいぜ、とその背中に声をかけた。



「・・・なぁ、小十郎」
「はい」
「なーんか、気が抜けちまったぜ」
小十郎が、低く笑っている。政宗はひとつ、のびをした。がらんとした広間がやけに物悲しいと柄にもなく思った。
親友が、別の親友を・・・というよりは、自分よりもっと大事な者を見つけてきたのが、嬉しくもあり、少し寂しい。
「なぁ、小十郎」
「はい。」
「・・・真田幸村に、手合わせに来いって、手紙出していいか?あいつら見てたら無性に勝負したくなったぜ」
「・・・承知」
・・・友誼の形は、人の数だけあるに違いなかった。