鎮める星
※この話は「堕ちる星」のおまけSSです。
「おれ、たまに思うんだよな、おまえのどこが好きなのかなって」
愛し合った後、気怠い疲労感に包まれながらぼんやりと寝そべっていると、ふいにぽつりと進
藤が言った。
「なに?」
とろりと半分眠りかけたようなひととき。
彼はずっと無言でぼくの髪を梳いていたので、唐突に言われて驚いた。
「おれは、おまえのどこが好きなんだろう?」
「さあ……そんなことぼくにわかるわけが無い」
それはそうだよなと言って進藤はくすりと笑った。温かい耳に心地よい笑い声だった。
「顔…は、確かに綺麗な顔だと思うけど、ガキの頃って相手の顔なんか見てないじゃん?」
「子どもの頃?」
「そ、小学生とかその頃に遊んでたヤツとか仲良かったヤツとか、嫌いだったヤツとか色々
居てもそいつの顔なんか見てないよな」
どうやら顔で好悪を決めているわけでは無いと言いたいらしい。
「そうだね、その頃はそういう感覚で人との付き合いを決めているわけでは無いとぼくも思う」
「だったらさ、なんだろうって思うじゃん?」
顔では無いなら話か声か。
「ああ、その方が理解出来る」
声というものは意外に好みが別れるもので、どんなに絶世の美女でも声が非道いと台無しに
なるし、逆に決して美しいと思えないような見目形でも一声喋っただけで周囲を霞ませる程に
魅力に輝く人も居る。
「それでさ、確かにおれ、おまえの声が好きなんだ」
耳障りが良くてずっと聞いていたいと思うと嬉しいことを囁いて、進藤は髪を梳いていた指で
今度はぼくの項も撫でた。
「それは…光栄だな」
「でも、だからって、じゃあ例えばおまえがガラガラ声になったとしても、それでおまえのこと好
きにならなかったり、今こうして好きなのが嫌いになったりなんかしないと思うんだよな」
話し方やその内容が好きかと言われればもちろん好きだし、物の考え方も好きだ。歩く姿や
動作も好きだし、喧嘩して言いたい放題投げつけてくる罵詈雑言も憎らしいけど嫌いじゃない。
「どれも…どれも全部好きなんだけど、どれが欠けてもきっとおまえのこと好きだと思う」
「なんでいきなりそんな小難しいことを考えているんだ」
「別にいきなりってわけじゃないけどさ」
おまえがずっと気にしているからと、そして指がするりと肌を撫でるとぼくの左頬に当てられた。
目の下から顎までを優しく触るその指は、微かに残る傷の跡をたどっている。
「もうほとんど目立たなくなったのに、それでもやっぱり気にしてるじゃん?」
「気にして無いよ」
「気にしてるって。おれと一緒に居て何か言われるとそっと距離を開けたりするし、顔のことを
言われるとあからさまに嫌な顔するし、別にそんなのおまえの勝手なのかもしれないけどさ、
前はここまで気にして無かったのに、どうして今頃になって傷のことを気にすんの?」
「それは―」
逆に傷が目立たなくなって来たからだと言ったら進藤はきょとんとした顔になった。
「わからないかな? 傷がはっきりと見える内は皆、ぼくのしたことを忘れ無いじゃないか」
そしてぼく自身も自分の愚かさを忘れられない。
「…でもおれのために治したいって、おまえそう言ったじゃん」
「うん。ぼくはキミのために治したいと思った。ぼくの顔を見てキミが傷つくなら、ぼくの代わり
に胸を痛めるのなら…」
少しでも良くしたいと思ったよと、ぼくは頬を撫でる彼の手にそっと自分の手を重ねて言った。
「でも、何度も手術をして、そのおかげで随分綺麗になって、今ではほとんど跡も目立たなくな
って―」
そうしたら不安になったのだ。
「何を?」
「ぼくが…ぼくのしたことを忘れてしまうんじゃないかって」
愚かな妄執に囚われて、バカなことをしたのはもう十年近く前。
進藤を手に入れんがためにぼくはまっとうでは無いことに手を出して、結果自分で自分の顔の
左側に一生消えない大きな傷を負った。
「ぼくはキミが欲しくって、あんなにバカなことをした。なのにキミはそんなバカなぼくを許してくれ
て、あんな醜い顔でも好きだって言ってくれた」
好きどころでは無い。心から綺麗だと、美しいと言ってくれたのだ。
「嬉しかった…本当に嬉しかったよ」
「別に嘘なんかついてねーぜ? あん時のおまえも今のおまえも、おれ、同じに綺麗で可愛いと
思っているし」
「うん。キミはそうだよね」
ぼくの見目形がどうでもぼくを好きだと言ってくれる。その彼の愛情に支えられたからこそ、全て
が露見して彼以外の全てを失った後にも逃げ出さず生きてこられたのだと思う。
「キミに恥じない人間になりたい、キミの隣に立って恥ずかしくない人間になりたいって…」
初段から這い上がらなければならなくなった囲碁も、今はようやく七段まで追いついて来た。
「おれは…そんな立派なヤツじゃ無いよ」
「ぼくにとっては大切だ」
大切で誇りに思うただ一人の人だよと言ったら進藤は撫でる指を止めて、それからぼくをじっと
見た。
「おれはおまえが誇りだけどな」
「―ありがとう」
囲碁界だけで無く、一般の人達にまで知れ渡った『醜聞』は時と共に忘れられて行った。
ぼくへの風当たりも最初はものすごく冷たく強いものだったのが時間と共にそれが薄れて、最近
は徐々にではあるが以前に近いものに戻って来ている。
「今は楽しい」
全てを失ったと思った時に、自分がどれだけ囲碁を好きだったかということも思い知った。その囲
碁を続けることが出来て、最愛の人は去らずにぼくを愛してくれて居る。
「こんなに居心地が良くて幸せだと、都合よくぼくは自分のしたことを忘れてしまいそうで怖いんだ
よ」
「どうして? 何を怖がることがあるんだよ」
「また何かあった時にぼくは闇に惹かれるかもしれない。自分のしたことを忘れて、せっかく得た掛
けがえのないものを忘れて誘惑に負けてしまうかもしれないって」
「そんなこと――」
一旦言葉を切ってから、進藤は「あるわけないじゃん」と呆れたように言った。
「おまえがそんなことするわけ無い。あんな辛い思いして、あれから毎日一生懸命生きて来て」
それで自分の弱さに負けることがあるわけが無いと、買いかぶりでも嬉しいなと心から思った。
「でもぼくは――」
「ああ、もうストップ! もしかしたらとか、昔のこととかもうそんなこと言うの止めよう」
そんなこと言っても何にもならないと進藤は言ってぼくを自分の胸に押しつけるようにしてぎゅっと
抱いた。
「おまえ、真面目過ぎるんだよ、それで色々考え過ぎ!」
あの時はおれのがもっと悪かったんだからと進藤は怒ったように言ってからふっと黙った。
「進藤?」
「おれ、今わかった。おまえのどこが――何が好きなのか」
「え?」
「そういう所」
上手く言えないけれどそういう所だと進藤は繰り返して言ってぼくの髪に顔を埋めた。
「おれ、ずっとおまえが好きだった。会った最初からずっと忘れられなくて、おまえのことが好きで
好きでたまらなくて」
おまえの一体どこにこんなに惹かれるんだろうって思うこともあったけど、今はっきりとわかったと
言われて顔を上げた。
「バカな所?」
「違うってば」
苦笑したように言われて、またぎゅっと胸の内に抱き込められた。
「おれ、おまえの顔も体も性格も考えも声も動作も何もかも好き」
でもさっき言ったように、そのどれが無くなったとしてもきっと好きになったと思うし、好きで居続け
ると思うと。
「顔は好きだけど、その顔じゃなくてもきっと好きだ」
声も好きだけど、その声で無くてもいい。
「姿勢がすっと伸びてるのも好きだけど猫背になってもきっととっても好きだと思うんだよな」
「だったら何が好きなんだ」
「わかんないもの」
「え?」
「わからないけど、おまえのそういう目に見えるもんじゃないものがきっとおれは好きなんだと思う」
心と言えば心かもしれないし、魂と言えば魂かもしれない。
「口に出して言うのって、なんか青臭くて笑われそうだけど」
おれはおまえのそういう見えない部分に惹かれて好きになったのだと思うと言われて胸の奥底か
ら熱くなった。
「ありが――とう」
そう言うのが精一杯だった。
少し冷たい指先でもいい。
初めて会った時からまっすぐに見詰めて来る真剣な眼差しでもいい。
こうして触れあっていて心地よい素肌も好きで好きでたまらないけれど、それは全て外側のことな
のだと。
「おまえが誘惑に負けることなんか絶対に無いよ」
「……うん」
「自分の弱さに負けたりなんかすることなんか絶対に無い」
ましてや闇に引かれるようなそんなことを自分に許すはずが無いときっぱりと言い切られて泣きた
くなった。
「本当に…そうだったらいい」
「そうだって、絶対」
おまえは強いよ誰よりもと、そして進藤は抱いていた腕を緩めると胸もとに居るぼくをじっと見た。
「おまえが好きだよ、全部、全て」
おまえだから好きになったのだと、のぞき込むようにしてぼくの顔に顔を近づけると、そっとぼくの
頬にキスをした。
左側半分の、うっすらと残る傷の跡。それを辿るようにして細かくたくさんのキスをする。
「この傷が完全に消えてもおれは忘れない」
「……うん」
「おまえがしたこと、傷ついたこと、全部忘れずに生きていくから」
「…うん」
「いつもどんなに一生懸命だったか」
どんなに必死に真剣に生きて来たのかおれは絶対に忘れないからと言われて、ぼくは強ばってい
た何かが解けるような気持ちがした。
「ぼくも忘れない」
「うん」
「そしてもう恐れない」
「…うん」
「もう二度とバカなことはしないよ」
そしてすがりつくようにして抱きついたら、進藤はぼくをぎゅうっと痛いくらいに抱きしめてそれから
言った。
「だからおまえはしないよって、さっきからずっとおれが言ってるじゃんか」―と。
十年で目に見える傷は薄く目立たなくなって消えた。
後もう十年経てば心の傷も痛まなくなるのだろう。
何事も無かったかのように日々は過ぎて、更にもう十年も経てばぼくの周囲はきっとぼくのしたこと
を綺麗に忘れてしまうのだと思う。
それでも、もう怖くは無い。
自分の弱さに怯えなくてもいい。
(だって進藤が)
進藤が好きだと言ってくれた、ぼくの中の目に見えない何かは、ぼくのしたことと、そしてそのことで
得た大切なことをきっと永遠に忘れないだろうと思うから。
※すみません。2008年の冬コミに発行した「堕ちる星」のおまけSSです。話はもう「堕ちる星」を書いたすぐ後に出来ていたのですが、
どんな形でおまけにしようかと考えているうちに出す機会を逸しました(−−; かなり間抜けなことになりましたが、アップ出来てほっと
しました。よかった…。2009.6.29 しょうこ。