GIFT
―最悪。 ついさっき計った体温は、三十九度二分で世界はゆるやかに回っていた。 体中はぎしぎしと軋み、気分はと言えば最悪の一言に尽きる。 なんでよりによってこんな日に風邪をひいてしまったのだろうかと、別れ際 の進藤の背中を思い出しながら思う。 『なんで具合悪いのに出てきたりすんだよ』 まだあの時点ではぼくは微熱で、だから大丈夫だと思ったのだ。 せっかくの一年に一度きりしかない彼の誕生日だったから一緒に過ごした いと、でも待ち合わせ場所で会った瞬間に進藤は「あれ?」という顔になっ た。 「最初にどこに行く?」 人が聞いているのを完全に無視すると、額に手を当てて「おまえんち」と 言った。 「なんで?…今日は食事して、ゲームセンターに行って、それから映画も 見るんだろう?」 それは全て事前に彼に聞いたリクエストで、別に今の状態ならばそんな苦 も無くできることだった。 けれど進藤はぼくの言葉を聞きもせずに、ただ怒ったような顔をしてぼく の腕を掴むと、出てきたばかりの改札に引きずるようにして連れて行った のだった。 「な…」 「帰るったら帰る。そんな具合悪いヤツと遊んだって楽しかねーよ」 まだひきかけの風邪の何がそんなに悪いのだと、ちゃんと出がけに薬だ って飲んできたのにと言っても、ポケットを勝手に探られてSUIKAで改札 を通ってしまった。 「とにかく、今日はもう帰って着替えて寝る」 おれ着いててやっからと、言われた時にたまらなく腹がたって怒鳴ってし まった。 「ぼくは子どもじゃないっ!」 自分の体のことぐらい自分でちゃんとわかっているし管理している。大丈 夫だと思うから来たのにその態度はなんだと。 けれど進藤はちっとも怯まなくて、かわりにぺちっと頭を叩かれてしまっ た。 「ばあか、ばかばかばかばか、おまえマジでバカなんじゃねえの?」 わかってねぇからおれが心配してんだろと、その口調がいかにも呆れた というものだったので、ぼくはそれから進藤と口をきかなかった。 家の前までは送ってもらったけれど、そこできっぱりと「看てもらう必要は 無い」と言って帰してしまった。 「手間をかけさせて悪かった」 目の前でぴしゃりと引き戸を閉めた時、進藤は怒るかなと思ったのに、た だ傷ついたような顔をしていて、それが痛かった。 なんでこんな―。 こんなことになってしまったんだろうか。 確かに体調が悪いのに出かけたぼくも悪いかもしれないけれど、それを 押してでも会いたかったのだという気持ちをこれっぽっちもわかってはく れなかったのだと、それが悲しくてたまらなかった。 この二ヶ月ばかり、ぼくたちは妙に忙しくなってしまって、なかなかゆっく りと会うことができなかった。 だからこそ、この日だけはとスケジュールを調整してもらって、なんとか 丸二日空けたというのに。 (進藤のバカ) こんな風邪すぐ治ると、でも怒ったのが悪かったのか、布団を敷いて横 になった途端、熱は一気に上がり始めたのだった。 三十七度八分。 三十八度三分。 計るたびに上がるのでしまいには見るのをやめてしまった。 とろとろと眠り、眠っては起き、そんなことを繰り返していたら時間が よくわからなくなってしまったけれど、もうどうでもいいやと思った。 (どうせもう誕生日は関係無いんだし) 二人で過ごすはずだった今日、ぼくは一人で床に伏せり、彼はきっと 傷ついて帰った。 かわいそうな誕生日にしてしまったなと―考えたらふいに張りつめてい た気持ちが緩んで、涙が出そうになってしまった。 わかってる。そう、たぶん本当は進藤の方が正しかったのだ。 熱は午後から上がるもので、だからあのまま出かけていたら途中でき っとぼくはもっと非道い状態になっただろう。 だから彼は帰れと言ったのだと。 それを平気だと言い張ったのは自分の我が儘で、実の所本当は、ぼ くが彼と居たかっただけなのだった。 久しぶりだから二人で過ごしたかった。 今日という日をたぶん本人よりも楽しみにしていたのだと、なのにそれ を自分で台無しにしてしまったのが悔しくて、つい進藤に怒りをぶつけ てしまったのだ。 (最低だ…) なんで自分はこうなんだろうと思う。 いつも間が悪く 思っていることもちゃんと相手に伝えられない。 看ていてくれると彼は言ったのだから、あそこで意地を張らずに素直 に家に戻っていたら少なくとも喧嘩にはならず、今も一緒にいられた はずなのだと思ったら悲しくて涙がとまらなくなってしまった。 「進藤…どうしてるだろう」 (遊びに行ってしまったかな) 彼は友達が多いから、気晴らしに飲みにでも行ってしまったかもしれ ない。 ぼくの知っている友達、知らない友達、彼にはぼくがいなくても他にた くさんの大切な人がいるのだから。 「ぼくなんかいなくても…」 きっと楽しく時間を過ごしている。そう思ったら悲しくて、悲しいと思う自 分のあまりのバカさに情けなくなった。 「おめでとうも言ってあげなかった」 会ってすぐ喧嘩をしてしまったから、誕生日を祝う言葉も言えなかった と、なんて最低な恋人だろうかと思った。 (それだけでも伝えよう) おめでとうと、食事もプレゼントも何も出来なかったけれど、でもせめて キミに会えたことをキミがこの世に生まれてきてくれたことを心から嬉し いと思うから。 それだけでも伝えたいと思った。 「携帯…」 まだ怒っているかもしれない進藤に電話をするのはためらわれて、メ ールにしようと枕元を探る。 けれどいつもならある場所にそれは無くて、居間に置き放してしまったの を思い出した。 進藤を閉め出した時、本当に腹をたててしまっていたので、メールも電 話も受け取りたくないと、だから着信が鳴っても聞こえないようにわざわ ざそこに置いてきたのだと思い出して、ため息が出た。 (なんてバカだ) はっきり言って立つのは辛い。 少し身を起こしただけで視界はまわるし吐き気がする。 でも―。 「今…何時だろう」 振り返った時計はかろうじてまだ「今日」だったので、ぼくは這うように して布団から抜け出したのだった。 いつもならなんの苦もなく歩く廊下を休み休み移動して、やっと居間にた どりつくと、ぼくはテーブルの上に置き放してあった携帯を取った。 きっとたくさん着信が入っているだろうと、そう思ったのに進藤からの着 信は一つも無くて、ああ本気で怒らせてしまったのだと悲しくなった。 (傷ついた顔…していたっけ) ごめんなさいとつぶやきながら、震える指でメッセージを打つと、ぼくは 送信してそのままその場にへたりこんだ。 信じられないことだけど、ただそれだけでもう動けないほど体力を使って しまったから。 (返事…くれないかもしれないな) 畳のひやりとした感触が気持ちいいなと思いながらぼんやりと思ってい ると返信があった。 『熱下がった?』 ぶっきらぼうなその言葉だけでは怒っているのかそうでないのかわから なくて、でも心配をかけたくなくて『うん』と短く返信したら、『本当に?』と 返ってきた。 『嘘ついて無い?』 長文を打つのは苦しくて出来ないのでまた再び『うん』と送ると、今度は しばらく返事が無かった。 (安心したのかな?) だったらいいやと目を閉じかかった所で再び返信が届いた。 『開けて』 意味がわからずに、しばらくぼんやりと画面を見る。 『おれ、玄関にいるから開けて』と、立て続けにメールが来てはっと顔 を上げた。 もうとっくの昔に返帰ったはずの進藤がなんでいるのかはわからなか ったけれど、でも居るという言葉に必死で這う。 なんとかたどり着いた玄関には、確かに人のシルエットが見えて、進 藤だ―と思った。 「進藤?」 かすれるような声で問うと、「おれ」と返事が返った。 もどかしく鍵を開けようとするが、なかなか手が言うことを聞かず、でも ようやく開いた瞬間に、ぼくがするより早く引き戸は勢いよく開けられた のだった。 「―ばっ」 三和土に倒れ込むようにしているぼくを一目見るなり進藤は怒鳴った。 「なんでこんな具合悪いのにメールなんかすんだよっ」 絶対こんなことだと思ったんだと。 「だって…キミの…」 「そんなんどーだっていいんだってば!」 そのままぼくを抱きかかえるようにして持ち上げると、進藤は部屋へと 運んで行った。 そうして寝かせると、枕元に座り込み、大きくふうと溜息をついたのだっ た。 「もうおまえ…信じらんねー、具合悪いんだから寝てりゃいいんだよ」 なのにどうして無理すんだと、こんなんだから心配で帰れなかったんじ ゃんかと、続けざまに怒った口調で言われて涙が滲んだ。 「そんな…言い方をしなくても…いいじゃないか。ぼくはただ…」 キミにおめでとうって言いたかった。 キミにごめんって言いたかったそれだけなのだと、子どものように泣きな がら言ったら進藤はくしゃっと顔を歪め、それからいきなり被さるようにし てぼくの頭を抱えた。 「ばっ…、だからそんなのいいんだって。だっておまえが―」 おまえがおれにとってはプレゼントみたいなもんなんだからと、進藤の声 は切なくてぼくは胸を突かれたような気がした。 「神様にもらったんだ。本当はおれなんかがもらっちゃいけないもんなの に、運良くもらえたんだから、おれはそんだけでいいんだってば!」 何もいらない。 何も欲しくない。 おまえが居る、それだけでいいんだと言われて一瞬、言葉に詰まった。 「…ぼくはそんなにいいものなんかじゃ…」 「いいもんだよ」 おれにとっては、最高の贈り物なんだと、言って進藤は身を起こした。 「おまえさぁ、おれがどれくらい前からおまえのこと欲しいと思ってたか知 ってんの?」 おれがどれくらいおまえのこと好きなのかわかってる?と言われてしたく ても返事が出来なかった。 「もうずっとだよ、ガキの頃からずっとずっとおまえが欲しかったんだって。 やっと…やっとおれのもんになって、おれ嬉しくて仕方ないんだから。お 願いだから。おれのためになんか無理したりしないで」 おまえになんかあったらおれもう生きていけない。もうその場でおれ死ん じゃうよと、言われて「―ごめんなさい」と謝った。 「わかった?」 進藤はにこっと笑うと、静かにぼくの額にキスをした。 「わかんなくても…わかって」 微笑む顔はたまらないほど優しくて、さっきまでの怒った顔が嘘のようだ った。 「おまえがおれの宝ものなんだって、わかって?」 布団の中に手が入り込み、熱のために動かせないぼくの腕を取る。 「おれの命より大事なんだからさと」ちゅと愛しそうに手の甲にキスをして、 それから進藤は腕に、肩に、キスを上らせて行った。 ちゅ、ちゅとついばむようなキスは首を吸い、それから間近でぼくをじっと 見つめると、深い愛情のこもった唇へのキスになったのだった。 「やっぱ…熱いな」 絡めた舌でぺろりと唇を舐めると、進藤は苦笑したように笑って、ぼくの 腕を元に戻した。 「しんどい?」 「ううん」 でもやっぱ熱いと、言って添うようにごろりと寝転がった。 「進藤?」 「プレゼント…今日はこのまま眠るまでおまえの顔見させて」 「それだけでいいの?」 「うん…それだけで十分」 あ、でも熱が下がったらちょっとだけえっちさせて欲しいなと言うのに思わず 吹き出しながら、もうなんでもしてやりたいという衝動がこみあげた。 「なんでも…全部キミの好きなように」 ぼくの全部をキミにあげるよと言ったら進藤は驚いたように目を見開いて、そ れからぱっと幸せそうな笑顔になった。 「ありがとう。大好き」 愛してると優しく頭を撫でられて、また胸が痛くなった。 たったこれだけの言葉でそんなにも嬉しそうな顔をする。それが切ないほど に嬉しくて愛しかった。 「ぼくも…」 ぼくの方がキミを愛してる。 最低で でも最高なキミの―誕生日。 本当はぼくの方がキミを神様からもらったのかもしれないと、熱に意識を 飲み込まれそうになりながら、ぼくは幸せな気持ちでそう思ったのだった。 |