迎える春



終局に近づく間際、掴む石の表面がだんだんと温かく感じられてきた。

那智黒の黒石は冬は暖房の効いた部屋でも指に冷たいものだけれど、今回は気のせいで無く、
石は温もりを持ち始めていた。


(何故だろう?)

最後のヨセに集中しながら、でも頭の片隅ではその不思議を考えていた。

(どうして石が温かく感じられるんだろう)





「―ありません」

少し前からわかっていた盤上の形勢に、自らキリをつけるとアキラは大きく息を吐いた。

「左下でブツかった後…読み間違った。悔しい」

「でもあれはわかんなかったじゃん、その後おれの打ち方一つでどうにでもまだ勝負は変わったし」

「キミはそこで間違えたりしないだろう」


未だ悔しさの抜けきらない声でアキラが言うのに、ヒカルは苦笑しつつ応えた。

「逆だったらおまえだって間違えないじゃん」

お互い様なんだからそう怒るなってと、邪気の無い笑顔で窘められて、アキラも寄っていた眉を微笑
みの形に緩めた。


「まあ…そうだね。あれがキミがやったんだったらぼくは容赦しないよ。後で挽回出来ないように完全
に息の根を止めている」


まだキミは甘いよというニュアンスに「なにをぅ」と突っかかりかけたヒカルも、でもすぐに肩を下げる。

「やーめた、やめた。元旦なんかに喧嘩なんかしたら一年中おまえと喧嘩ばっかりになりそうだから」

「別に元旦に喧嘩しなくたって、いつもぼくたちは争ってばかりじゃないか」


公でも私でもねと、ふわりと笑ってアキラはヒカルを見た。

年明けの最初の一局で負けた悔しさはもうとうに体からも頭からも抜けてしまっているようだった。

切り替えが早い。

それはヒカルもそうで、そうでなければとても棋士同士で夫婦になどやっていられなかっただろう。

「あのさ」

じっくりと検討した後で石を片付けながらヒカルがふとアキラに言った。


「さっきさ、打っている間、おまえもしかして石が温かいって思ってたんじゃねえ?」

「え?」

「違ってたらごめんだけど、なんか終わり間際、おまえちょっと石を掴むのためらって不思議そうな顔を
していたから」


「そんな所までよく見ていたね」

「そりゃー愛する奥さんの顔ですから、一秒たりとも目を離したりしませんて」

ぼくは奥さんじゃないと、もう何百回も言いかけた言葉を飲み込んで、アキラは素直にヒカルに問うこと
にした。


「キミは感じなかったか? 本当に碁石が温かくなったように感じられたんだけど」

今触る碁石は白も黒もどちらも冷たい。

「おれも感じたよ。うん。確かに石は途中から温かくなった」

「何故? 今までそんなこと無かったと思うのに」

「そうかな。そんなことも無いような気がするけど。今日は特に周りが寒かったからなぁ」

この冬一番の寒さだと天気予報が予報した今日は、朝から暖房を幾らつけても効いていないのではない
かと思われるほど寒かった。


「まわりがさ、こんなに寒いから石の温かさが余計によくわかったんじゃない?」

ヒカルはさほど不思議そうでもなく石を碁笥にこぼしている。

「…なんで温かくなったんだろう?」

自分だけが感じたのでは無いことはわかったものの、その疑問が解決されなくてしきりに首をひねっている
アキラにヒカルが笑った。


「簡単だよ、おまえが熱くなったから石も熱くなったんだって」

「え?」

予想外のことを言われてアキラは一瞬返事を忘れた。

「…なんで? ぼくが熱くなると碁石も熱くなるんだ?」

「おまえさ、最初は冷静に打ってるんだけど段々局面が進むにつれて熱くなってくるんだよな」

表情からも気迫からもそれがよくわかる。

「特に今日みたいに僅差の時は集中もすごいし、段々打つのも早くなってくるし」

触れた温もりが消えないうちに次の碁石に指が触れる。

だから碁笥の中の石が段々温もってしまうのだと、ヒカルは碁石に触れながら言った。

「初めて…じゃないか。中三の時におまえと打ったじゃん。あの時もそうだった」

あの時は真冬でも無く、こんなに気温も寒く無かったけれど、でも終わった時二人とも汗をかいていたし、
碁石も温もっていたのだと。


「キミも――?」

キミの碁石も温かくなっていたのかとそう尋ねたらヒカルは笑った。

「うんおれのも。検討した時、白も黒もどっちの石もまだほんのり温かかった。おまえあん時気がつかな
かった?」


「わからなかった。キミと打てた、それだけで頭が一杯だったから」

「おれはわかったよ。それですごく嬉しくなった」

自分と打つことで石が温もるほどアキラが熱くなった。それは棋士として誇らしいことであったし、唯一無
二の存在になった今は更に嬉しく感じられる。


「だってきっと、ここまでおまえが熱くなってくれるのってきっとおれだけだもん」

「うぬぼれるな」

冷たく言い放ちながらもアキラの頬はうっすらと赤く染まっている。

「うぬぼれでもいいよ。おれはあん時からずっとそう思っているんだから」

そしてヒカルは片付け終わり、石の一つも無くなった碁盤の上にそっと手をついた。


「いつまでもそうやって熱くなってよ」

「進―――」


言いながらヒカルがぐっと身を乗り出す。


「いつまでもおれだけに熱くなって、突っかかってきてよ」

何年も何十年でも、いつまでも自分だけに食らいついてきてよと、言いながらヒカルはそっとアキラの唇に口
づけをした。


「愛してる」

「キミは―――」

「おまえが嫌だって言ってもなんて言ってもこうして毎年わからせてやる。碁のこともそれ以外のことでもおれが
おまえの一番なんだって」


だからおまえも永遠におれだけに熱くなってと、もう一度だめ押しのように口づけされてアキラは悔しそうに瞼を
伏せた。


「…悔しい。どうしてもキミに勝てない」

去年も一昨年もそのまた前もそうだった。

例え碁で勝ったとしても、ヒカルにはいつもどこか負けているような気がしてしまう。

「キミの押しの強さには、ぼくは一生勝てないような気がするよ」

「愛の深さって言って」

冗談めかして笑ってから、ヒカルはすっと真面目な顔になった。

「―ありがとうございました」

きっちりと丁寧に頭を下げられてアキラも慌てて頭を下げた。

「あ………ありがとうございました」


静かな部屋の中、碁盤を挟み二人で深くお辞儀をしてからほとんど同時に顔を上げた。

「今年もよろしくお願いします」

「…今年だけで無く、一生よろしく」

言ってからアキラは首筋までを赤く染めた。


時計はもう深夜の一時をまわっている。

階下からはもう物音は聞こえない。


「寝る?」

「いや、もう一局……もしキミが嫌で無いのなら、もう一局打ちたい」

そういう気分になったとアキラが言ったら、ヒカルの顔は笑顔になった。

「いいぜ、一局と言わず、十局でも二十局でも、死ぬまでだって打ってやる」

言って片付けたばかりの碁笥の蓋に手をかける。


「じゃあとりあえずもう一回」

「うん。―――お願いします」

「お願いします」


しんとした空気の中、密やかに笑った後、ぱちりと固い石の音が響いた。


紅白も見ない。

行く年来る年も初参りも無い。


でもこれが、結婚以来もう何年も続いている、二人の大切な年明けの行事だった。



※碁バカ夫婦の年越し&新年でした。いつもえっちばかりしているわけではないということで(笑)
二人にとって碁はやはり特別なのだと思うから。2006.1.1 しょうこ