Promise
その日塔矢は朝からずっとおかしくて、昼を過ぎ、夜になってもどこか様子がおかしかった。
「おまえ、どうかした?」
ずっとそわそわしていて落着かないけれど、何かあったのかと尋ねると塔矢は明らかにぎょ
っとしたような顔をして、でも即座に「なんでもない」と言ったのだった。
「別に…明日の対局のことを考えていただけで、それで落着かなく見えたんだろう」
だから気にするなと言ったけれど、そんなことあるかとおれは思った。
明日の対局がリーグ入りをかけた一戦や、魂を削ぐような負けられない一局だったら納得し
たかもしれない。
けれど明日あるのは段位もそう高くは無く、決して見くびっているわけでは無いが塔矢が気も
そぞろになって落着かなくなるようなそんな相手では決して無いのだ。
「もし何か困ってることでもあるなら…」
「しつこいな、何も無いと言っているだろう」
だからもうかまわないでくれと、かなりつっけんどんに言われてさすがにおれもむっとしたので
それ以上は尋ねないようにした。
とは言うものの、それでもおかしなものはおかしいわけで、それからも寝るまでの間塔矢はず
っと落着かなかった。
(なんだろう…)
昨日まではいつもの塔矢だった。
落ち着いて、おれとも打ったし、おれの言うくだらない冗談にも可笑しそうに笑った。
それが今日になって朝飯を食い終わり、仕事に出かけるという寸前くらいから唐突におかしく
なった。
ずっとそわそわして落着かなく部屋中を歩き回り、まるで冬眠前のクマのようだった。
夜中もおれが眠ったふりをしていたら塔矢はかなり長い間ベッドから抜けだして戻って来なか
った。
戻って来たのは夜明け近くでこいつ手合いがあるのにと心配になってしまった程だ。
塔矢は例えどんな相手でも対局には万全で向かう。
体調も精神もベストな状態に保つためにおれよりもずっと気をつけているのだ。
それが徹夜状態で手合いに向かう。有り得ないことだと思った。
けれどそれでも塔矢はかなりな差をもってその日の手合いには勝ち、さすがに塔矢アキラ様だ
とおれは苦笑まじりに感心もしたのだが。
「塔矢、おまえさぁ、もういい加減に吐けよ」
「え?」
「構うなって言われたから黙ってたけど、でもおまえやっぱりおかしいじゃん。今日は勝ったけど、
でもそんなんでこれからも毎日寝ないで過ごすとしたら間違いなく負けるぞおまえ」
その前にまず体がもたない。だから何かおれに隠しているのだったら包み隠さず言えと、一歩も
引かない覚悟でそう尋ねたら塔矢はおれをキツい瞳で睨み返した。
「言いたくない」
「だから…なんだよ、おまえがそんなに意固地になって隠すことって」
まさかおまえ何か病気なん? と不安で真っ暗な気分になりながら尋ねたら塔矢は少し驚いたよ
うな表情を浮かべて首を横に振った。
「病気?まさか」
至って健康だと、それでは一体何でそこまでおかしくなってしまったのだと、肩を掴んだら塔矢は
一瞬何か言いかけて、でもきゅっと唇を固く引き結ぶとそれから視線を逸らせた。
「キミには関係無い」
だから死んでも言わないと、なんて意固地なヤツなんだこの野郎と、おれもかなり腹が立ってき
たので「わかった」と言い返した。
「そうか、おれには関係無いのか、そうか、よくわかったよ」
うるさくして悪かったなと、それきり意地になって塔矢には一言も話しかけなかった。
そして夜―――。
案の定また昨夜のようにベッドを抜け出す気配に放っておこうかどうしようか迷って、でも結局おれ
は起き出した。
ムカついているし、もう好きにすればいいと言う気持ちが強かったけれど、でも放っておけない気持
ちもあったからだ。
そっとのぞき込むと、塔矢は昼間そうしていたようにリビングと台所をぐるぐると歩き回り、終いには
床に座り込んで、カーペットの上を顔を近づけて這い回るようにしはじめた。
(…何か探しているんだ)
ようやくそれに気がついて、でも何を探しているんだろうかと思った時唐突にあることを思い出した。
昨日、おれは洗面所の床におれがあいつにやった指輪が転がっているのを見つけたのだ。
何故そこにあったのかはわからないけれど、でも落としたんだなと、後で箱に戻しておいてやろうとス
ーツのポケットに突っ込んでそのまま忘れていた。
「…まさか」
あいつが探しているのはアレなんじゃないかと思った瞬間にあのわけのわからない態度が全て理解
出来てしまった。
塔矢は指輪をやった時も決して喜んだ表情はしなかった。不機嫌そうに素っ気なく受け取って、「無
駄遣い」とおれをなじった。
(でも本当はとても喜んでくれたんだ)
後でこっそりと嬉しそうに指にはめているのを見て、その不器用な性格に改めて愛情を感じたりした
ものだが、あの性格ならおれに無くしたとは絶対に言えないだろう。
大切にしていることすら知られたくない風だったのだから、それを探しているなどと口が裂けても言う
ことが出来なかったに違い無い。
(あんな泣きそうな顔して…)
おれがやった指輪を探している。
碁が一番で、対局を何より大切にする塔矢が体調管理も精神統一も投げ打って、ただひたすら無く
した指輪を探すために夜も寝ずにリビング床を這い回っているのだ。
(――――バカ)
なんてあいつはバカで――。
なんて愛しいんだろうか。
おれはそっと寝室に引き返すと壁にかけたままのスーツのポケットからそっと指輪を取り出した。
「こんなもんのために睡眠不足になっちゃって」
ごめん、でもすごく嬉しいとおれは指輪にそっと口づけると握りしめてリビングに向かった。
リビングでは相変わらずあいつが床を這い回っていて、でもふと思い出すものがあったのだろう、顔
を上げると洗面所の方に歩いて行った。
おれは入れ替わるようにリビングに入るとソファの下にそっと指輪を置いて急いで出た。
程無くして塔矢ががっかりした顔をして戻って来て、それから再び床を探し始めた。
テレビの横のサイドボードの所からゆっくりと、もう何度も探したのだろうテーブルの下、部屋の隅、マ
ガジンラックの下などを探り、それからソファの下に手を入れる。
「あっ」と小さなつぶやきが起こったのをおれは聞き逃さなかった。
そっとのぞき込むと塔矢が突っ込んでいた手をそろそろと引き出して、握り取ったらしい何かを指を開
いて見ている所だった。
その掌の真ん中にあったのはおれがさっきソファの下に置いた指輪で、それを見た瞬間塔矢の顔が
ぱっと喜びに輝くのもおれは見た。
「あった」「よかった」と、言葉無く唇がつぶやくのがわかる。
「よかった………本当に……せっかく進藤がぼくにくれたのに」
危うく無くしてしまう所だったと今度は声に出して言うのを聞いた瞬間おれは泣いてしまった。
あんな、おれがほとんど無理矢理押しつけた指輪を塔矢があんなに大切に思ってくれているなんて、
おれは全然わかっていなかったと思った。
「よかった……本当に………」
嬉しそうに指に嵌め、そのままもう片方の手で包み込むようにして胸に抱く。
その瞬間の塔矢はあまりにも美しく、幸福そうだった。
この世の何よりも貴く、愛しいと思った。
(…絶対に、一生幸せにしてやる)
世界一幸せにしてやるんだと思った。
素直で無い、でもおれには過ぎた恋人。
塔矢をこの世の誰よりも愛し幸せにしてやりたいと、がむしゃらに抱きしめたい衝動にかられながら、
おれは一人寝室に戻ると、愛しさのあまり胸やぶれそうになりながら声を殺して泣いたのだった。
※ということでEngageの続きです。「アキラは指輪を捨てたりしない。捨てても拾ってくる」というご感想になるほどと思い書いてみました。
いや…捨ててはいないですが、無くしてもきっと必死で探すんだろうなーと思いまして。ということでこの話は感想をくださいましたKさん
に捧げます。2006.12.26 しょうこ