Hinamatsuri
思いがけず早く終わった仕事と、その出先で持たされた意外に大きな重箱の包みは 文句無くすぐに進藤を思い出させた。 「今日はお節句ですからよろしければ召し上がってください」 その家の五歳の女の子のひな祭りのお裾分けでもらった重箱の中には煮物と焼き物、 そしてちらし寿司が入っているとのことだった。 「お口に合うかどうかわかりませんが…」 持たせてくれた奥さんは非道く恐縮した風だったけれどぼくは素直に嬉しかった。 錦糸玉子やそぼろを散らした目にも彩な甘口の寿司をぼくはそれほど好きでは無かった けれど、進藤はとても好きだったからだ。 (たくさんいただいたからこれに潮汁でも作って…) 途中のスーパーではまぐりを買い、それから進藤の携帯にかけたけれど電車にでも乗っ ているのか通じなくて少しがっかりした気分になった。 「今日は仕事は入っていないはずだけれど」 誰かに誘われて遊びに行ってしまったのかなと思う。 今日は朝から気持ち良く晴れて温かい。ほんのりと風には花の香も漂い、外に出ずに はいられないようなそんな陽気だったからだ。 (帰ったらもう一度だけかけてみよう) それで居なければ仕方が無い、一人で食べるには少し多いけれどちらし寿司は自分一 人で食べようとそう思いつつぼんやりと家の門をくぐった時だった。玄関の前に見慣れた 姿が立っていて、所在なげに空を見上げているのを見つけた。 「え……?」 驚いてもらしたつぶやきに相手はくるりと振り返ると笑った。 「あ、帰って来た」 良かったと言う進藤は柄にも無く、大きな花束を抱えている。 「近所の家で貰ったからさ、おまえに見せてあげようと思って」 そう言って向けられたのは淡い色をした桃の花で、どうやら進藤もひな祭りのお裾分け を貰ったらしい。 「思い立ってすぐ来ちゃったから、来て閉まってるの見て失敗したと思った」 「ぼくもキミに電話したんだけど通じなくて…」 「移動している時だったんかな。後は大体外に居たけどアンテナ立たないような所には 居なかったんだけどな」 でもとにかくこうして会えて良かったと、素直に嬉しそうに微笑まれてぼくも嬉しさに顔が ほころんだ。 「ちらし寿司をもらったんだよ」 「え?マジ?」 「うん、それとおかずも少し。キミ、ちらし寿司が好きだろう?だから食べさせてあげた くて」 「うん、好き好き」 潮汁も作ってあげるよと言うと進藤は更に嬉しそうな顔になった。 「やった! 実はまだ昼食って無いんだ。結構朝遅くまで寝てたから」 「そうなのか? 本当は夕食にって思っていたんだけれど、じゃあもうすぐに食べよう か」 連れだって家に入り締め切っていた窓を開けてまわる。 進藤を居間に待たせて台所に向かうと何故かすぐに進藤が追って来た。 「待って、作るんならおれも手伝う」 「作るって言っても潮汁だけだからそんなに手間はかからないよ」 「でも作ってもらって食うだけってなんかおれヤだから」 「じゃあお皿やお箸の用意をしてもらおうかな」 勝手知ったるなんとやらで場所もわかっている進藤はぼくの言葉にすぐに食器棚に 向かうと必要なものを出して用意してくれた。 程なく潮汁も出来上がり、ぼくたちは大きく開けはなった茶の間で、よく晴れた空と庭 を眺めながらゆっくりと遅いお昼を食べた。 「なんかあんまりピンと来ないけど今日ってひな祭りなんだよな」 「うん、ぼくもお寿司をいただくまで忘れていたんだけれど」 母が居る時は和室にひな人形が飾られていたので3月3日を忘れることだけは無か ったのだが、ほぼ一人暮らし状態になって随分と季節感は怪しくなってきていた。 「人形飾ってたんだ?」 「母が嫁いで来る時に持って来た人形があって春になるといつもそれを飾っていたん だ」 かなり古いものらしく着物は少し色褪せて来ていたけれど顔立ちは上品で綺麗だった。 「母は本当は女の子が欲しかったみたいでね、体が弱いからぼくしか恵まれなかった けれど諦めきれなかったみたいだ」 「ふうん」 「キミの家は飾ったりはしなかった?」 「無いなあ。もしかしたら持っているのかもしれないけど、でも飾ったのは一度も観たこ とが無い」 「そうか。母が居れば良かったね。とても綺麗な人形なんだよ」 少し甘めの錦糸玉子と海老をごはんと共に箸でつまんで口に入れる。 市販のちらし寿司の元は少し酢がキツイような気がしたけれど、これはそんなことは無く て彩りに散らされた菜の花もほろ苦くて美味しかった。 「なあ…」 しばらく無言で食べていた進藤がふと思いついたように言った。 「なに? 潮汁のお代わりだったらもっとあるけど」 「いや、そうじゃなくて人形さ、食べたらおれ達で飾らねえ?」 「え?」 「おまえ毎年見てたんだから大体わかるだろ。なんか…一年に一度しか出られないのに 出さないんじゃ可哀想だしさ」 なんかおまえの話を聞いていたら見たくなったと、言われてまた唐突だなと笑ってしまっ た。 「いいけど…結構大変だよ」 「それでも徹夜碁打つよりは楽だろ?」 何というものと比べるのだと苦笑しつつ、でもだんだん自分でも飾ってみたくなってみた。 「そうだね…じゃあ食べたら」 「ん。それでもって写真撮ってオバサンに送ってやれよ、きっと喜ぶと思うから」 「どうだろう」 勝手に出したと怒られるかもしれないけれど、でももしかしたら本当に喜ぶかもしれない なとも思った。 思いがけずひな人形を飾ることになって、それから数時間ぼくと進藤は悪戦苦闘するは めになった。 仕舞ってある場所はわかるからそこから出すのは良かったのだが、まずその出した箱が 膨大で、飾る場所を決めるのも一苦労だった。 茶の間の隅に場所を空け、掃除をして次に雛壇を組み立てるのがまた大仕事で、7段飾 りのひな人形を少なからず恨めしく思ってしまったくたらいだ。 それでも毛せんをかけるとぐっと華やかな雰囲気になって、しばし進藤と2人ながめてしま った。 「これ…毎年オバサン1人で飾ってたん?」 「いや…父と2人で飾っていたと思うけど」 長い年月の間には父が仕事で居ない日もきっとあったはずだ。 「女の人って、なんかすげえな」 こんな雛壇作るだけだって大変なのにと妙にしみじみと言われて苦笑してしまった。 「そうだね、こんなに大変なんだって知っていたらぼくも手伝ったのに」 母は一度も手伝ってくれとは言わなかった。けれどもしかしてぼくが女の子だったら手伝 わせたのかもしれなかった。 「さて、これからまた大変そうだよなあ」 引っ張り出した箱を眺めて進藤がため息をつく。 人形はそのままの形でしまってあるわけでは無いこと。小物は小物で取り出して持たせて やらなければいけないことをぼくはこうして自分で飾ってみて初めて知ったのだった。 「これ、どっちが男でどっちが女だったっけ?」 「向かって左が男びなで右側が女びなだよ」 「この冠みたいなん何?」 「男びなのものだよ、被せてあげて」 「こっちのぼんぼりはどこ置けばいいんだ?」 「それはお雛様の両側に――」 説明書きの紙をながめながら右往左往して上段から飾って行く。 飾り方一つにも決まりがあり、並び方、持たせるものなどこんなに細かく決まっているのか と途中でうんざりしてしまったくらいだ。 「この弓矢持ったオッサンと、菱餅とかは?」 「4段目に飾って、ああ、違う。衛士は5段目だから」 その下にも更に細かな雛道具が続く。ようやく全部飾り終わった時にはすっかり夜になって しまっていた。 「あー…疲れた〜〜〜〜〜〜〜っ」 綺麗に飾り付けられた雛飾りの前で進藤は言うなりへたりと座り込んだ。 「もういい、もう絶対いい、ひな人形飾ろうなんて絶対おれ言わないっ」 よっぽど懲りたのだろう、情けない声をあげてそのままごろりと寝転がってしまった。 「でも綺麗だよ。心なしお雛様達も喜んでいるように見えるし、出してあげて良かったんじゃ ないかな」 そして進藤が持って来たくれた桃の花を花瓶に生けて持って来ると傍らに飾った。 「ほら、こうすると本当にひな祭りって感じだ」 「うん………そうだな、ちょっと疲れたけど飾って良かったかな」 花の甘い香が部屋中に漂う。整った平安顔の人形達は記憶にある通りに少し古びてはい るもののとても美しかった。 「少し…似てるかな」 しばらく眺めていた進藤がやがてぽつりと言う。 「何が?」 「お雛様。ちょっと似てるかなって…」 じっと見つめるとはっとしたように起きあがって、慌てたように「おまえにだよ、おまえに!」 と言った。 「―嘘つき」 「え?」 「本当はぼくのことなんか考えてなどいなかったくせに」 その視線の先にあったのはきっとぼくの知らない、でも知りたいと思っている人の姿なんだ ろう。 「そんなことねーよ、あのお雛様、美人だしなんとなくおまえに似てんじゃん」 そう言って指さすのは女びなの方なので思わず殴ってしまったがそんなに悪い気持ちはし なかった。 「そうか、だったらキミは右大臣だな」 「えーっ? ヤダよ。それじゃ不倫になっちゃうじゃん」 なんだそれはとひとしきり笑い、笑い止んだ所で進藤が起きあがり顔を近づけて来たので 目を閉じてそっとキスをした。 「…女に生まれていたら良かったかな」 「なに?」 「ぼくが女に生まれていたら、母も心おきなく毎年ひな祭りが祝えたし、キミとのこともなん の障害も無くて良かったのかも」 どうせ母親似の女顔なんだからその方が良かったのかもしれないねと言ったら進藤は非 道く驚いた顔になり、それからふいに真面目な顔になって言った。 「男でいい」 「え?」 「もしおまえが女だったとしてもやっぱり好きになったと思うけど、でもおれは今のおまえが 好きだから、だから男でいい。男に生まれてくれて良かったと思う」 今の、このままのおまえが好きなんだよと言われて胸の奥に熱いものが広がった。 だってもしも男女であったなら互いの気持ちを隠す事無く、周囲にも祝福してもらえるだろう に今のぼくたちにはそれが出来ないからだ。 愛し合うのも、触れあうことすら人目を忍んでしなければいけない。この人を好きなのだとそ の気持ちすら一生隠していかなければいけないと言うのに…。 「それでもキミはこのままでいいんだ?」 「もし魔法かなんかで性別が変えられて、その方が都合がいいんだったらおれが女になって もいいけど、でもそれより前にさ、おまえ自分のこと好きだろ」 今の自分が好きだろうと言われて即座に「そんなことは無い」と返してしまった。 「ぼくはそんなに自分のことは好きじゃないよ。融通は効かないし、面白みも無いし。でもキミ が好きでいてくれるから少し自分を好きでいられる」 キミがぼくを好きでいてくれるからぼくも自分を好きでいられるのだとそう言ったら進藤はにっ こりと笑って、「じゃあもっと好きにさせなきゃな」と言った。 「おれ、好き。おまえのこと大好き。生まれてからこの年まで育って来たおまえの時間の全て が好き」 だからもう冗談でも女に生まれた方が良かったかもなどと言わないでくれと言われて危うく涙 がこぼれそうになってしまった。 本当に進藤はこういうことが上手い。別に意識してやっているのではないだろうに、言うべき ことと言うタイミングを外すことが絶対に無いのだ。 「ありがとう。ぼくもキミが好きだよ」 大好きだよと言って今度は自分からキスをした。 甘く漂う花の香の中、何度も何度も繰り返し口づけて、やがて2人、もつれるように雛壇の前 に横たわってしまった。 「来年も‥」 ひとしきり子犬のようにじゃれた後で、進藤は幸せそうにぼくの服の前を開きはじめた。 「来年も、もし…」 「ん?」 もし父も母も居なかったらぼくがひな人形を飾ってもいいとぼんやりとつぶやいたら、進藤は 一瞬うへえというような顔をして、でもそれから苦笑のように笑った。 「なんで?」 「今までは別になんの思い入れも無かったけれど、これからはきっと人形を見るたび今日の ことを思い出すだろうから」 こんな幸せな気分を味わえるなら面倒でも飾っても良いかも知れないとそう思ったのだ。 「じゃあ、おれも手伝いに来てやるよ」 それで来年もひな人形の前でこんなふうに悪いコトしようと笑って言う。 「…もう二度と嫌だって言っていたくせに」 「おまえとイイこと出来るんならどんな面倒でもやるよ」 これもなんか一種プレイみたいだもんなと言うのに思わず殴りそうになってしまった。 「来年はキミにちらし寿司を作ってあげるよ」 今日食べたみたいなちゃんとしたものは作れないと思うけれど、それで良ければ作るから また一緒に食べようと囁いた。 今度は先にひな人形を飾ってその前でゆっくりと2人だけの雛祭りをするのだ。 「おれ、別におまえだけでいいけどな」 「え?」 「ちらし寿司も美味いけど、おまえの方が美味いもん」 そして進藤は笑いながらぼくの喉に軽く歯を立てた。 「そう? だったらそれでもいいよ?」 キミがそれで良いと言うなら食べられるだけに徹してもいい。 「うん、それでいい。っつーか、それがいい」 甘噛みする歯は喉を辿って胸に降りて行く。 見下ろしているひな人形達は眼下のふしだらな行いを苦笑しながら見ているのだろう か。 女の子のためのお節句に一体何をと怒るだろうか? でも、けれど、それでも。 甘く漂う桃の花の香りの中、抱かれることは幸せだった。 ぼく達は男だし、本来の意味からはかけ離れてしまっているのだろうけれど、あからさ まな愛の言葉に顔を赤く染めながら、ぼくは残り数時間の雛祭りを満たされた気持ちで 楽しんだのだった。 |