蒼天
秋の初めの海は人の姿が無く、まるで二人の貸し切りのようだった。 朝から天気があまり良くなく、時々ぱらぱらと雨が落ちてくるような日だったせいもある のだろう。 真冬でも見かけるサーファーの姿すら無くて、ただ静かに波だけが打ち寄せては引く。 『誕生日何が欲しい?』 少し前、アキラが尋ねた言葉にヒカルは、はっきりとした返事をしなかった。 『うーん…まあ、別にこれと言って無いけど』 『まったく無いってことは無いだろう?』 何か一つくらいはあるはずだと、アキラがしつこく食い下がると、『おまえ』とにこにこと しながら返されてしまった。 『どうしてキミはいつもそうふざけてばかりなんだっ!!』 おまえではちっとも参考にならないとアキラが拗ねるとヒカルは苦笑する。 『んー…でも本当に他には無いんだけどなあ』 恋人としてつきあいはじめて初めての誕生日だった。だからこそアキラは何か記念になる ような物をヒカルに贈りたかったのに、何度聞いてもヒカルはそんな調子で結局何が欲し いのか教えては貰えなかった。 (そしてとうとう今日になってしまったんだ) 結局、プレゼントを用意することが出来ないまま誕生日を迎えてしまったアキラは敗北感 で一杯だった。 本当に欲しい物。 ヒカルが喜ぶ物をあげて嬉しそうな笑顔を見たかったのにこれではそれが叶わない。 ヒカルはアキラが何を贈ってもきっと喜ぶとは思うのだが気を遣った笑顔は見たくないと 思ってしまうのだ。 だったらせめて少し贅沢な所で食事でもしようかと誘っても見たのだけれど、それにもヒカル は色よい返事をしなかった。 「いいよ、そんなん勿体無い」 「キミがそうしたいならそのままホテルに泊まってもいいけど…」 もう既に半同棲状態で、毎日のように抱き合い交じり合っているというのに、ヒカルは時々都 内のホテルやラブホテルに泊まりたがることがあった。 それは電話やふいの来客などに行為を邪魔されることなく睦み合うことが出来るためと、もう 一つ、日常と切り離されることでアキラの照れが無くなるからなのだった。 隠す所無く互いを見せ合っているというのに未だにアキラにはヒカルと抱き合うことに照れが あり、更にそれを普段生活している場でやるということにもかなりな抵抗があったので、集中 出来ないことが間々あった。 だからこそ気兼ねなく愛し合うことが出来るホテル泊をヒカルは好み、贅沢だと思いつつアキ ラもそれに従うことが多かったのだ。 特別な時のご褒美のような、でもヒカルはそれすらも「いい」と断ったのである。 「…じゃあ、もし他にどこかキミが行きたい場所とかしたいことがあるなら」 諦め半分尋ねてみたら、ヒカルは思いがけず笑顔になり「海」とひとこと言った。 「海に行きたいな、おれ」 「海? こんな時期に行ったって泳げないぞ」 それに朝から天気も悪い。なのにヒカルは怯むことも無く「うん、それでも海に行きたいな」と 繰り返したのだった。 今日の主役が望むならアキラがそれに異を唱えることは出来ない。 ため息をつきながらアキラはヒカルに連れられて近郊の海にやって来たのだけれど、案の定 季節はずれの海は寒々しく、誕生日には不似合いな侘びしさに溢れていたのだった。 (まったく、どうしてそんなにまでして海に来たかったんだろう) 人の姿が無くても、時折降る雨に髪が濡れても、ヒカルは一向に気にした風も無く、機嫌良く 砂浜を歩いている。 「進藤、そんな波打ち際すれすれに歩いたら濡れてしまうぞ」 「いいよ別に」 濡れたっていいと、言っているそばから大きな波を被ってヒカルは足首までを濡らしてしまっ た。 「わっ」 さすがに驚いたようで、飛びすさって足元を見つめるヒカルにアキラは言った。 「ほら、だから言ったのに」 苦笑しつつアキラはヒカルに肩を傾けて促した。 「脱いでしまえばいい」 「え?」 一瞬何かおかしな勘違いをしたらしく仰天したように目を見開くのに軽く睨む。 「靴だ。靴と靴下。どうせ濡れてしまったんだから脱いで思い切り走り回ればいいだろう」 それにどうせキミは最初からそうしたかったくせにと、うずうずしたような顔で足元を見つめて いたのを思い出しつつ言ったらヒカルは口をへの字に曲げた。 「どうせおれはガキですよーだ」 「拗ねるな、別にバカにしたわけじゃないよ。ただ…思い出したから」 「何を?」 「キミと初めて海に来た時、キミは裸足で走り回っていたなって」 それはまだ十代の頃、初めて二人で来た海で、やはり同じようにして足を濡らしてしまったヒ カルは、困るどころかその場で靴と靴下を脱ぎ捨てると嬉しそうに砂浜を走り回り始めたの だった。 「今でも良く覚えてる。あの時のキミ…子犬みたいだった」 思い出し笑いをするアキラにヒカルは苦笑に近い笑みを浮かべながら返した。 「…おまえは猫みたいに濡れるの嫌がったよな」 あの日はもっと天気も良く、季節も春に近かった。だからアキラはヒカルの靴と靴下を日なた の岩の上に干しながら、のんびりと走るヒカルを眺めていたのだけれど。 「…おまえも脱げよ」 「え?」 「せっかく来たんだし、もうこんなデカイのにおれ一人だけ走り回ってたらバカみたいだし」 あの時は、誘われても頑なにアキラは裸足にはならなかった。砂だらけで帰るのは嫌だと突っ ぱねてしまったような気がする。 (でも今日は誕生日だし) そのくらい聞いてやってもいいかと、アキラは躊躇いながらも靴と靴下を脱いだ。 「気持ちいいだろ?」 「冷たいよ」 剥き出しの足に秋の湿った海辺の砂は冷たかった。 「気持ちいいじゃん。ひんやりとして」 ヒカルはそう言いながら足でアキラに砂をかけたのでアキラはヒカルを睨んでやった。 「でも、海には絶対に入らないからな」 「いいよ、それで充分だ」 何が充分なんだと言い返す前にヒカルはもう犬のように走って行ってしまって、アキラは慌て てそれを追いかけるはめになった。 波打ち際を波と競うように走ったり、追いかけっこのように互いを追いながら走ったりする。 いい大人が何をやっているのだと頭の隅で思いつつ、でも気がついたらアキラは明るく声を あげて笑っていた。 「ちょっと待って、ちょっと…少し止って」 散々じゃれ合い走り回った後、アキラは息を切らせながらヒカルの服の袖を掴んでしゃがみ 込んだ。 「相変わらずキミは……犬……みたいなんだから」 体力的に圧倒的に勝っている。それはヒカルに対していつだって対等でいたいアキラの悔 しさの混じった声だった。 決して見かけほどひ弱なわけでは無いけれど、こんなに走り回ってまだ余裕でいられる体 力はアキラには無い。 「なんだ、もう疲れちゃったん?」 「疲れてなんか無いっ!」 思わず言い返して、でもまた走り出されては敵わないのでしっかりと袖を掴んだまま、悔し いと思いつつ言葉を付け足す。 「疲れてなんかいないけど…せっかく海に来たんだからもっとゆっくり海が見たいな…と思 って」 「ふうん?」 別にそれでもいいけど、でも本当は疲れてんだろとにやにやと笑いながら尋ねられて、アキ ラはつい言い返してしまった。 「疲れてなんかいないって言っただろうっ!」 ただ本当に少しだけゆっくりキミと海が見たかっただけだと言うのに「負けず嫌いだなあ」と ヒカルが笑う。 「本当に疲れてなんか――」 「うん……そうか、それじゃ」 ここまで走って来られる? とヒカルは掴んでいたアキラの指を解くと足元に落ちていた木の 棒を拾い上げ、数メートル先、波打ち際の近くまで走って行って砂浜に一本、まっすぐな綺 麗な線を引いた。 そしてアキラに向かって手招きする。 「来いよ」 疲れてるんなら別にいいけどと、全く、ヒカルはアキラの扱いをよくわかっている。 「行くよ。行ける!」 アキラはすっくと立ち上がるとヒカルが引いた線に向かって走り出した。 (こんな距離走れないわけが無いのにバカにして) ムキになる自分が子どもっぽいと思いつつも、アキラは額に汗を浮かせて、全力疾走で走っ てしまった。 砂を蹴散らして走り、あっという間にヒカルの引いた線を越える―そう思った瞬間、いきなり アキラの前に立ち塞がるようにしてヒカルが飛び出して来たのだった。 「危な―」 避けることも出来ず、そのままヒカルの胸に突っ込んだ形になったアキラはヒカルと共に砂 浜に思い切り倒れこんだ。 「何をやっているんだ!!危ないっ!!」 一瞬後、我に返り怒鳴ったアキラをヒカルの腕がぎゅっと強く抱きしめる。 「貰った」 「え?」 「貰った―おまえ」 誕生日に何が欲しいってずっと聞いてきたじゃんかと言われて、やっとされている行為と言 われている意味がアキラにもわかった。 「バ―だからって」 「だっておまえ、くれるって言わないから」 おれがいくらおまえが欲しいと言ってもくれると言わないからちょっと強引な手段を取らせて 貰ったのだとヒカルはちっとも悪びれない。 「そんな…あんなふうな言い方で言われたって、本気で言っているなんて思えないじゃない か」 「ふざけてなんか無い。おれはずっとちゃんと本気で答えてたよ」 ただそれをおまえが解ってくれなかっただけだと思いがけず強い調子で言われて、アキラは ばつの悪い顔になった。 「だって…もっと良いものをあげたかったから…」 何か記念になるような、いつまでもヒカルに「今日」を思い出して貰えるような、そんな物をア キラはヒカルに贈りたかった。 「ぼく…なんて、そんなつまらないものじゃなくてもっと良いものをキミに―」 「良い物なんか無いよ、おまえ以外に」 おまえが欲しい。 おまえだけが欲しいんだと言われてアキラの顔は赤く染まった。 「…本当に本気でそう思っているのか?」 「うん。マジでおれ、おまえ以外に欲しい物なんて無い」 だからお願いだからくれないかと言われてアキラは思わず泣きそうになってしまった。 「そうか…そう…なんだ」 キミは随分欲が無いと、つぶやくように言ってからアキラは答えた。 「いいよ、こんなもので良いのなら」 「全部? おまえの全部をおれにくれる?」 「もう―あげているつもりだったけど」 でも欲しいと言うなら改めて、ぼくの全てをキミにあげるよと、言った瞬間にアキラはヒカル に折れる程強く抱きしめられていた。 「ありがとう塔矢!」 すげえ、すげえ嬉しいと、そのままヒカルはアキラを抱きしめたまま、まるで子犬がじゃれ合 うようにぐるぐると砂の上を転がったので、二人とも頭から砂まみれになってしまった。 「非道い格好だ…」 顔にかかった砂に咳込みながらアキラが言うとヒカルは邪気の無い顔で言った。 「そう? 相変わらず、すげえ美人だと思うけど」 「―バカ」 そして砂まみれのヒカルは、幸せそうに笑って、アキラの頬の砂を払うと優しく口づけをした。 「…ん」 う……ん…と、息が続かなくてアキラが眉を顰めるまで、しつこく舌を絡ませて、それからよう やく顔を離した。 「最高! シアワセ!」 ありがとうを連発し、もう一度ぎゅうっと抱きしめると、ヒカルはもう一度確かめるようにアキラ の顔をじっと見つめた。 「信じらんない。これが全部おれのもんだなんて」 「『これ』じゃない。ぼくは物じゃない」 「じゃ…アキラ」 塔矢アキラは足のつま先から頭のてっぺんまで全部、全ておれのものだと言われてアキラは 真っ赤になり、でも今度は何も言い返さなかったのだった。 「絶対もう一度来ようと思ってたんだ」 さくさくと砂を踏みながら、ヒカルはぽつりとアキラに言った。 人気の無い砂浜、聞こえてくるのは波の音だけという景色の中、砂まみれの二人は駅に向か ってゆっくりと歩いていた。 「昔おまえと来て、すごく楽しくて、だから絶対もう一度二人で来たいって」 でも思っていたよりもずっと長いこと来られなかったと、言われてアキラは少し驚いて辺りを見 渡した。 「この…海だった?」 「うん。この海だった。おまえ、覚えて無いかもだけど、同じこの海だったよ」 「ごめん…」 覚えがある景色だとは思っていた。でも以前来たことがある所だと思い出せなかったのは、た ぶんきっと過去の自分が景色では無くてヒカルばかり見ていたからなのだろう。 ぐいぐいと自分を引っ張るぎゅっと握られた手。 気恥ずかしくて、人の目が気になって、でもたまらなく嬉しかった。 (…そうか、だから進藤は) この秋の海に自分を連れて来たのかと、その時の思い出をそれだけ大切にしていてくれたの だと思ったらアキラは胸が熱くなった。 「あの時、すごく楽しかったなぁ」 「…今日は?」 「え?」 「今日は昔ほど楽しくは無かった?」 アキラの問いにヒカルは笑う。 「楽しかった! 昔よりもっと…もっとずっと楽しかった!!」 あの時出来なかったことも出来たしと言われてアキラは再び顔が赤く染まるのを感じた。 「また…来ようか?」 来年か再来年かもっと何十年先でもいい。またキミが来たくなった時に二人で来て砂浜を駆け ようかと言ったらヒカルは少し驚いたような顔をした。 「おまえ裸足になるの嫌いじゃん」 「うん、でもいい」 キミとなら楽しいってわかったからと、アキラが言ったらヒカルは最高に嬉しそうな笑顔になった。 「うん―もし来られたらすげえ嬉しい」 ずっと―。 ずっと―。 おまえと二人でずっと―。 犬みたいに砂浜でじゃれ合い転がり回りたいと、髪から砂をこぼしながら言う。 「そうだね、本当はぼくは猫みたいに水に濡れるのは嫌いなんだけど」 それでもキミが望むならたまには犬になってやってもいいと、アキラが言った時、曇った空から 再び雨の滴が落ちて来た。 ぱらぱらと落ちる冷たい雫。 けれど二人は歩調を早めるわけでも無く、ゆっくりとそのまま砂浜を歩き続けた。 しっかりと手を繋ぎ、砂を踏んで笑いながら歩く。 二人の顔は、まるで蒼天の下を歩くかのように晴れ晴れと明るく晴れ渡っていたのだった。 |