お年玉
毎年恒例のこととは言え、連碁が終わり懇親会に移った時、アキラは正直ほっとした。 理事長による新年の挨拶から始まる日本棋院の打ち初め式は、棋士達にとって一年の 最初の仕事であり、プロアマ交流の大切な場でもある。 けれど同時に下っ端である若手にとっては、裏方や様々な細かい準備などに追い回され る非常に忙しい日でもあるのだ。 アキラも朝から受け付けやプログラムの用意などに駆り出され、呼ばれてはまた別室に 走るということを繰り返していた。 けれどそれも懇親会まで。もうこの後には神経を使うような場面はほとんど無い。 ビールや簡単なオードブルの類の載ったテーブルの周りに皆が集い談笑している様をな がめながら、アキラはああまた一年が始まるのだとぼんやりと考えていた。 「塔矢、おまえなんか食った?」 いきなり声をかけられたのは、一息ついて自分も何か腹に入れようと、オードブルを幾 つか皿に盛った時だった。 降ってわいたようにヒカルが現われると、アキラの手元をのぞき込んで言ったのだ。 「なんだ野菜しか取って無いじゃん。もっとミのあるもん食わないともたないぜ」 そう言うヒカルの手元にはローストビーフやチーズ、サラミなどがこんもりと山になった皿 がある。 「キミこそそんな脂っこいものばかり食べていると胃を壊すよ」 普段和食中心の食生活を送っているアキラには、ヒカルの食べっぷりは生活習慣病の予 備軍にしか見えない。 「んー、そりゃそーなんだけどさ、今年はなんか新年早々から仕事あったし、なんか忙しか ったじゃん?」 だから疲れが抜けなくて味の濃いものが食べたくなるのだとヒカルは苦笑しつつ言った。 「でもまあ、あんまり太ってブタになっておまえに嫌われても嫌だからほどほどにしておく」 えっちさせてもらえなくなっちゃったら悲しいもんなと、後の言葉はアキラにだけ聞こえるよ うに耳に囁いたものだった。 「―バカ」 ヒカルのあけすけな物言いにも大分慣れたつもりのアキラだけれど、それでも不意打ちで 言われるとまだ顔が赤くなることが多い。 「あ、そうだ。おれおまえにやるもんがあるんだ」 「ぼくに?」 「うん、おまえも二日から公開対局とか忙しかったじゃん?」 だから働き者で良い子のアキラくんにヒカルくんからのお年玉と、言ってヒカルはアキラに ポチ袋を手渡した。 「―これ」 「だからお年玉」 おれの気持ちだから受け取ってと、どうせいつもの悪ふざけで避妊具でも入っているんだ ろうとため息を吐きつつ触れて、思いがけず固い手応えに驚いた。 「これはなんだ?」 「だから―」 お年玉だってと言いかけた時にヒカルは人混みの向こうから呼ばれて行ってしまった。 「―まあとにかく、受け取って」と。 相変わらず慌ただしいと苦笑しつつ、アキラはそっとポチ袋を掌の上で逆さまにしてみた。 ころりと出て来たのは黒い碁石が一つで、そのひんやりとした感触を掌の上に感じながら アキラはしばしそれを見つめてしまった。 (これがお年玉?) どういう謎かけだと、けれど見つめていたら自然に口の端がほどけて来た。 「…そうか」 打とうと、たぶんこれはそういうヒカルからのメッセージなのだろう。 今年も一年死ぬ程打とうぜと、何かにつけ自分のことを囲碁のことばかりだとぼやくくせ に、ヒカルも相当のものでは無いかとアキラは思った。 「…ぼくも碁バカだけれど」 碁が好きでいつも頭から碁のことが離れられない。 「…キミも碁バカだ」 人生を共に歩む相手は自分と同じくらい碁に愛情がある人であって欲しい。 ずっとそう願って来たから、だからこの『お年玉』は嬉しかった。 「ぼくもキミにお年玉をあげないと」 帰り道、コンビニかどこかでポチ袋を買おう。そして家の碁笥の中から一番感触の良い白 い碁石をその中に入れよう。 アキラくんからヒカルくんへなどとは口が裂けても言わないけれど、でも明後日駆り出され るふれあい囲碁まつりの時にでも手渡してやってもいい。 そう考えていたらふいに呼ばれた。 「アキラ、ちょっとこっち手伝ってくれる?」 「――はい」 慌てて皿を置き、呼んだ芦原の元にかけて行く。 手にはヒカルにもらった『お年玉』をしっかりと握ったまま、人混みを分けるアキラの顔は 新年に相応しく、幸せに輝いていた。 |