大晦日
‐おおつごもり‐
「天ぷらは、海老とかき揚げのどっちがいい?」
エプロンをしたままアキラが尋ねると、のぞむは即座に「かき揚げ」と言ったけれど、
ヒカルはすぐに返事をせず一、二秒たってから慌てたように「海老」と言った。
「海老、海老、おれ二本食べたい」
「二本? だめだよ。そんなに食べたらカロリーの摂りすぎだ」
弟の返事に笑顔で頷いたアキラは、人生の伴侶であるヒカルの言葉には非道く素
っ気なく切り返した。
「キミ、最近運動不足気味だから少し控えた方が良いよ」
「えー? だったらそんなん聞かなきゃいいのに」
「兄さんは海老の天ぷらとかき揚げとどっちがいいかって聞いたんだろ、バカヒカル」
ぶつぶつとヒカルが呟くのに、のぞむがすかさず言った。
生まれついての兄贔屓であるのぞむは、美しく囲碁が強く頭も良い兄が、囲碁の才能
はともかく他は大ざっぱで軽薄そうにしか見えないヒカルと結婚したことが未だに納得
出来ないでいるのだ。
なので事ある事に突っかかってくる。
「好きなだけ食べてブタになって、兄さんに嫌われてしまえばいい」
「こら、ヒカルじゃなくてお義兄さんだろう」
何度言ったらわかるのだと、アキラがやんわりとではあるもののきっぱりと言ったら、の
ぞむは急にしゅんとなった。
「やーい怒られてやんの」
「キミももういい大人なんだからそんなことで勝ち誇らない!」
ぴしりと言われて今度はヒカルがしゅんとなる。
「…まったくうちの奥サンは亭主にちょっと厳しすぎなんだよなぁ」
「ぼくたちは男同士だから、どっちが奥さんていうことは―――」
「あー、わかったわかった。わかってますっ!もういいからおまえ蕎麦に戻ってっ」
これ以上叱られてはたまらないとヒカルが慌てて追いやると、アキラは肩をすくめ、でも何
も言わず階下の台所に戻って行った。
「あー怖かった」
「ヒカルが悪いんだよ、ヒカルが」
「おまえが悪いんだって、生意気クソガキ」
けれど元々お互い本気では言っていないので、ヒカルものぞむもじゃれ合うように言い合っ
た後はすぐに大掃除に戻ったのだった。
大晦日。
指導碁などの仕事を終えてようやくヒカルとアキラが冬休みに入ったのは今日だった。
普段忙しくて手を抜いている分大掃除くらいは真面目にしようと、美津子やのぞむと共に始
めたはいいが、午後になっても一向に掃除は終わる気配が見えない。
「あと掃除は何が残ってるっけ」
休憩と台所に来たヒカルは、ウーロン茶、ウーロン茶と言って冷蔵庫を開けたくせに何故か
ちゃっかりとビールを飲んでいる。
「水回りと窓ふきはお義母さんが先にやっておいてくれたからリビングのフローリングのワック
スがけと、後、網戸がどれも洗っていないかな」
「げーっ、いいじゃん網戸なんか」
「網戸なんかって言うけれど、こんな機会でも無ければ掃除なんかしないじゃないか」
「はいはいはい。それと襖は春に貼り替えたばっかりだからいいとして、障子も…いいよな」
そこまでやっていたら新年を軽く越してしまう。
「いいよ、それはまた次の年か余裕のある時で。後は玄関まわりを掃除して…それで限界か
な」
年末年始の買い物はほとんど美津子が済ませてくれている。後は買い忘れたものや、使って
いて足りなくなったものがあれば精々それを買いに行くくらいでいいのだ。
「あら、ヒカルは手が空いているの?」
ちょうど良かったと、その「買い忘れたもの」を買いに行ったらしい美津子が勝手口から入って
来た。
「お帰りなさい、お義母さん。ちょうどいいのがありましたか?」
アキラが鍋の火を止めて美津子を振り返る。
「ああ、ごめんなさいね、お蕎麦全部ませかせてしまって。大きいのはもう売れてしまっていた
けど、手頃なのが一つ残っていたからそれを買ってきたわ」
そう言って美津子が袋ごと差し出したものをアキラは大事そうに受け取った。
「いいですね。来年もいい年になりそうだ」
「―なに?」
会話が見えず、きょとんとした顔になったヒカルはアキラの手元をのぞき込んだ。
「なーんだ」
すかさずがっかりしたような声があがる。
「玄関のお飾りじゃん。てっきりカニとか海老とかマグロとか、なんか美味いもんだと思ったのに」
「これだってお正月に無くてはならないものだよ」
アキラが苦笑したように笑った。
「大切な縁起物だ」
結婚前、塔矢家では年末に父親が玄関にお飾りを飾った。
どんなに忙しくてもそれだけは他人に任せず自ら飾っているのを見て、なんとなく儀式めいた厳か
な気持ちになったのをアキラは今でもよく覚えている。
お飾りはその家の主が飾るもの、家を守るものの役目だとそんな認識をアキラに与えた。
ヒカルが育ったこの進藤家でもそこまで厳粛な意味は無かったようだけれども、やはりお飾りを飾
るのは父親の役目だったらしい。
正月の買い物をしに行くついでに必ず街角でお飾りも買って玄関に飾っていたと、ヒカルはアキラ
に話してくれた。
けれど結婚した最初の年末、ヒカルの父は玄関にヒカルを手招くとお飾りを手渡して飾るように言
ったのだった。
「え? おれ? なんで?」
きょとんとした顔のヒカルに義父は苦笑したように笑って、「おまえももう結婚したんだから」と言っ
た。
「いつまでもふらふらしていて心配だったが、アキラさんという良い伴侶を得て所帯を持ったんだか
らな。これでもうおまえも一人前だ」
自分は単身赴任で普段家に居ないし、だからこれからはおまえがこの家を背負って行くようなつも
りでいてくれと、そう言われたヒカルは戸惑ったような顔をしつつも、頷いてぎこちない手でお飾りを
飾ったのだった。
「本当は一夜飾りはだめなんだけどね」
「へー、そうなんだ」
玄関に踏み台を運び、飾り付けるのを眺めながらアキラが言うと、ヒカルはそんなん全然知らなか
ったと言った。
「年神様を迎えるのに失礼だからね。本当は28日くらいまでに飾り付けるといいんだそうだよ」
29日は縁起が悪く、大晦日、30日も神様に失礼に当たる。
だからお義父さんもいつももっと前に飾っていたんじゃないのかと言ったら、ヒカルは思い出せない
らしく、首をひねっているのでアキラは失笑してしまった。
「でも今年はしゃーないじゃん。おれもおまえも忙しかったし」
「そうだね、なんだか非道くバタバタしてしまった…」
昨年まではそうでも無かったのだけれど、今年ヒカルもアキラもそれぞれ本因坊と棋聖のタイトルを
獲得した。夫婦でホルダーということで注目されたし、いらぬしがらみも増えた。
そのために年の瀬ギリギリまであちこちに顔を出さねばならなくなってしまったのだ。
年賀状だけは早めに印刷で頼んでおいたので、なんとか元旦に届くように出すことが出来たけれど、
それでも文面は常より随分と味気ないものになった。
「キミの手もなかなか空かなさそうだったしね、やはりお飾りはお義母さんに飾ってもらった方がいい
んじゃないかと思って話したんだけど…叱られてしまったよ」
それはもうヒカルの仕事になったのだから自分がやることでは無いと、どんなに遅くなってもかまわな
いからヒカルの手でお飾りは飾って欲しいと言われてアキラは反省したと言った。
「確かにそうだと思って。お義父さんがキミに任せたことなんだから勝手に他の人間が手出ししちゃい
けないよね」
「って…うーん、悪い。おれそこまで大変なもんだって自覚無かったかも」
だからこそ、美津子が買って来たのを見ても「マグロの方が良かった」という言葉が出たのだろう。
「だったらこれから持ってくれ」
この家は今キミを中心に回っている。ぼくにとってもキミは世帯主なんだからと言われて、ヒカルは一瞬
驚いたような顔になり、それから目の下を赤く染めた。
「…世帯主? おれ?」
「そうだよ。他に誰が居るんだ」
微笑んで言われて更にその顔は照れ臭そうに真っ赤に染まった。
「例え法律上でもキミはぼくを貰ったんだから、その自覚を持ってもらわなければ困る」
「わかった。うん……わかりました」
心して扶養させていただきますと言ったらアキラは「違う」と一言言ってヒカルの頭をこづいたのだけれ
ど。
「網戸洗った。まだ濡れてるから外に立てかけてあるけど」
「お疲れ様。お蕎麦ももう出来るよ」
リビングの床は結局ワックスをかけるには時間が遅いと、ちゃんとしたものでは無くてフロアモップにつ
けて使うような簡単なものをかけるに止めた。
それは自分の部屋を綺麗に掃除し終わったのぞむが買って出てくれて、なのでアキラは美津子と共に
台所仕事に専念することが出来た。
今年はお節は出来合のものを買ったので作るものはそれほどは無い。
それでも結構なんやかやと用意するものがあって、結局アキラも美津子も今日はほとんど台所にこもり
きりになってしまった。
「まだ他に何かあるならやるけど」
「じゃあ余力があるなら玄関周りを箒で掃いておいてくれないかな」
それで掃除は終わりだとアキラが言うと、ヒカルはぱっと明るい顔になって玄関に向かったのだった。
手際よく三和土とその周りを履き清め、埃や塵をちりとりに集める。
戸に嵌めてあるガラスを拭いて、ほこりっぽくなってしまったからと掃いた後にヒカルは軽く水を撒い
た。
「…こんなもんかな」
仕上げとばかり玄関灯をつけて改めてしみじみと玄関飾りを眺めていると、アキラが様子を見にやっ
て来た。
「終わったよ」
ヒカルが言うのににっこりと微笑む。
「悪いね、キミには結局体力を使う仕事ばかりやらせてしまった」
「いいよ、おれ料理の方はさっぱりだし」
全く作れないわけでは無いけれど、料理というものには作り手のセンスが現われるらしい。何かにつけ
大ざっぱなヒカルの料理は家族に不評だったのである。
「ところで今日は大丈夫そうだった?」
誰がとは言わないけれど、美津子のことだとアキラにはわかる。
「大丈夫。今日はずっと調子が良さそうだったし。でももし疲れてきた様子が見えたら休んでいただくか
ら」
「ん、たぶんおれが言っても聞かないからさ」
お願いと言われてアキラも頷く。
ここ数年血圧が高めで医者通いをしている美津子は、年末に入り忙しくなって来たせいか、ここの所あ
まり調子が良くない。
そのこともあって今年はお節を作らないことにしたのだけれど、本人は今までずっと手作りで来たため
に怠けているような気分になるらしい。隙を見ては何か仕事を見つけ働こうとする。
煮物と蕎麦の用意だけでは全く物足りなさそうだったので、思い切ってアキラはお飾りを買いに行っても
らったのだが、それで丁度良かったらしい。
近所の知り合いと立ち話も出来たらしく、美津子はすっきりした顔で今蕎麦を椀によそっていると言う。
「もうたくさんあるからいらないって言ったんだけど、伊達巻きももう一本買って来たんだよ、お義母さん」
「おれが昔、大好物だったから」
「そうか、それは良いことを聞いた」
キミのことは今のことも昔のこともどんなことでも知りたいからと言ってアキラは三和土に立つヒカルの頬
に手を触れた。
「冷たい。…すっかり冷えちゃったね」
「おまえの手、温かい」
「お蕎麦の準備をしていたから」
なんとなく顔を見合わせて、それからふっと微笑みあってどちらからともなくキスをする。
「行こう…せっかくのお蕎麦がのびてしまう」
「―ヤ」
もうちょっととヒカルは甘えるように言うとアキラが逃げられないように抱き寄せた。
「年末、あんまり触れなかったからおまえ分が不足してるんだ」
「なんだそれは」
笑いながら、でもアキラも逃げ出すことはしない。
結局寒い玄関に立ったまま、二人、二度、三度とキスを繰り返して、それからようやく温かい家の中へ
と入って行ったのだった。
「で、親父いつ帰ってくるんだって?」
アキラが作り、美津子がよそった温かい蕎麦をすすりながらヒカルがふと美津子に聞いた。
刻みネギと小松菜と天ぷらの蕎麦には、ヒカルだけエビの天ぷらが二本乗っている。
「結局明日の朝になるみたいよ」
「大晦日までお仕事なんて大変ですね」
目で探しているヒカルに、アキラが七味をまわしてやりながら言う。
本当なら29日に冬休みに入っているはずが、義父は年末に起きた仕事のトラブルのために居残ることに
なり、明日やっと帰って来られるらしいのだ。
「『数の子といくらは残しておいてくれ』ですって他に言うことは無いのかしらね」
苦笑のように笑いながら美津子が言う。
「よっぽどこっちはあなたが居なくてもちっとも寂しくないですよって言ってやろうかと思ったけど」
「そんな、それじゃお義父さんが可哀想です」
思わずアキラが言うのをあらいいのよとあっさりと美津子は流す。
「きっと残るのは他の人でも良かったんだろうに、人は帰して自分一人で面倒を買って出たに違い無いん
だから」
昔からそうなのよと、言うのにアキラはなんとなく納得するものがあった。
ごくごく普通の静かな人である義父には確かにそういう所があり、それはヒカルの性格にも共通しているこ
とだったからだ。
しなくて良い苦労も黙ってする。でもアキラは義父とヒカルのそういう所が好きだった。
「バカ正直って言うか、要領が悪いのよ」
ため息まじりに言う美津子に、正面に座っていたのぞむが言った。
「違うよ、バカじゃなくて、『正直な人』なんだよ」
うちのお父さんは、好んで楽をしようとする人よりも苦労や面倒を買って出るような人の方が人間として信
用が出来るっていつも言っているよと、その言葉に美津子は今度は苦笑ではなく笑った。
「…塔矢さんのお父様は良い教育をしてらっしゃるのね」
だからのぞむくんもアキラさんもこんなに良い子なんだわと言われてヒカルが少しだけ拗ねたような顔に
なった。
「えー? なんだよそれ。おれは? おれは良い子じゃないん?」
「少なくとも結婚するまではちっとも良い子じゃなかったわよ、一人でなんでもさっさと決めて好き勝手して」
でもその好き勝手のお陰で塔矢さんのお宅とご縁が出来たのだから、それはおまえのお陰よねえと、しみ
じみと言われてヒカルは不満そうな顔をしたまま黙ってしまった。
アキラにしてみればヒカルは随分親孝行だと思うのだけれど実の親子なので遠慮が無い。
世の中のどれだけの『息子』が母親を気遣って同居に踏み切ったり、面倒くさい大掃除などするだろうかと
言いかけて、でも余計なことだとわかっているのでアキラは言葉を飲み込んだ。
「そう言えば初詣はどうするの?」
しばらく皆で黙ったまま蕎麦をすすった後、思い出したようにのぞむが言った。
「そうね、明日はうちの人も帰って来るし、午後にでも皆でゆっくり行きましょうか」
お節用に作った煮物の余り分をつまみながら美津子が優しく言った。
アキラの一回り年下の弟を美津子は自分の子か孫のように思っているらしく、ヒカルに言わせれば自分が
子どもだった頃よりも五十倍も百倍も甘いらしい。
「そうか、明日かぁ」
なんとなくもじもじとしている様に気がついてアキラが水を向ける。
「何? 何か明日では都合が悪い?」
「…ぼく、除夜の鐘ってついてみたいんだけど」
言いにくそうに言うのに、すかさず美津子が返す。
「あらそれじゃ二年参りね。いいわよ行きましょうか」
お飾りを買うだけでは結局まだ物足りなかったらしい。ちらりとアキラはヒカルを見たが仕方無いというふう
に肩をすくめるのでアキラも何も言わなかった。
「あなた達は行かないのよね?」
じゃあ蕎麦を食べ終わったら行きましょうとのぞむと約束しておいて、美津子はくるりと振り返るとヒカルに
向かって尋ねた。
「ああ、おれたちは遠慮しておく」
毎年、二人には大晦日の夜にすることがある。だから初詣に行かないというのは美津子もよく承知してい
た。
「じゃあ二人で行きましょう。確か四丁目のお不動様ではお汁粉と甘酒がふるまわれたはずよ」
「へぇ、そうなんだ」
答えたのはのぞむではなくヒカルで、いいなあと羨ましそうに言う声にアキラがちらりと冷たい視線を投げ
かけた。
「キミが行きたいなら別に―」
「あ、いや、行かないって。冗談だよもう、そんな怖い顔すんなって」
汁粉につられて行くわけないじゃんと言うのにキミならしかねないとにべもなくアキラは返した。
「持って帰ってくるよ」
「え?」
「お汁粉。もらったら食べずに持って帰って来る」
食べ終わった食器を流しに運びながらのぞむが言った。
「おお、のぞむ。気が利くじゃん」
「兄さんにだよ、ヒカルになんか持って帰って来るもんか」
でも兄さんにちょっとだけなら分けてもらうのは許してやってもいいと、なんとも複雑な愛情表現にヒカルも
突っかかるのを忘れて笑ってしまった。
「わかった。じゃあそれでいい。アキラにもらうから大盛りにしてもらってきて」
神様のふるまいものに『大盛り』なんてとアキラと美津子が苦笑したように笑い、そのまま皆で顔を見合わ
せて笑った。
それは穏やかで幸せな笑いだった。
「それじゃ、行ってきます」
「はい。混んでいると思いますから気をつけて。のぞむもあまりお義母さんに我が儘を言うのでは無いよ」
「言わないよ、そんなのヒカルじゃあるまいし」と、本当に一言多い義弟にヒカルはしかめっ面をして鼻に皺
を寄せて見せた。
「さっさと行け、当分戻って来なくていいからな」
「なんだよヒカルブタ!」
「ブタで結構。それよか『大盛』忘れてくんなよな」
出かける前にひとしきりじゃれ合って、それからのぞむは美津子と二人、嬉しそうに二年参りに出かけて行
った。
残っていた洗い物を二人で片付け、それから明かりはつけたまま暖房だけを消して二階の部屋に上がる。
「やっぱちょっと寒いな」
エアコンのスイッチを入れて、それからヒカルは部屋の真ん中に碁盤を運んで来た。
「お義母さん達、もう着いたかな」
「そうだな。着いて早速、汁粉食ってる頃じゃねえ?」
「まさか、ちゃんと先にお参りをしているよ」
盤の前に向かい合って座り、碁笥の蓋を取った時にゴン…と重い鐘の音が響いて来た。
「二階の方が音が良く聞こえるね」
アキラが窓を振り仰ぎ、耳を澄ませるようにしながら言う。
「そうだな、大して変わり無いような気もするけど、一階の方が壁とか色々遮られて聞こえ難いのかも」
ヒカルも蓋を畳の上に置きながら同じように窓を仰いだ。
「今年も…もう終わりだな」
「早かったね」
「うん、早かった」
なんか毎日追いまくられているうちに一年過ぎちゃったみたいだとヒカルの言葉にアキラも頷く。
「ぼくも同じ。毎日盤に向い、石を置いているうちに一年が過ぎてしまったみたいだ」
毎年毎年早くなるような気がするよと、アキラの言葉に今度はヒカルが頷いた。
「でも…今年はおれもおまえもタイトル獲れたし、まあまあだったかな」
「老後の蓄えのためには良かったかもね」
普段そういう下世話なことを言わないアキラの物言いにヒカルがぎょっとした顔をするとアキラは笑って
「冗談だよ」と言った。
「お金なんか関係無い。今年打った一つ一つはどれもぼくにとって意味のあるものだった。来年も再来
年もそういう経験が出来ればいいなと思うよ」
「おれも、おもしろかったな。特に本因坊戦の決勝…一柳先生との対局はほんとおもしろかったなあ」
あんな緊張のある碁をまた来年も打ちたいと言ったらアキラが微笑んだ。
「打とう。打てるよ」
ぼくたちが志を持っている限り、いくらでも素晴らしい一局は訪れると、それはヒカルの頬を緩ませ微笑
ませるのに充分な言葉だった。
「うん、打とう。来年も再来年もな」
そして二人背筋を伸ばすと一呼吸して頭を下げた。
「お願いします」
「―お願いします」
打つ間、ゴーン、ゴーンと低く重く除夜の鐘が空気を伝わって耳に響いて来る。
百八つの煩悩がこれで落とされるのかどうかわからないけれど、厳粛な気持ちになるのだけは確かだっ
た。
ああ、一年が終わる。
ヒカルと共に過ごした一年が終わると、思いながらアキラが石を置くと、途中でヒカルがふと顔を上げた。
「なに?」
「…新年だ」
見れば壁にかけた時計の針は12時丁度を指している。
新年、1月1日だった。
アキラは改めて座り直すと、まっすぐにヒカルを見た。
ヒカルもまた、持ちかけていた石を碁笥に戻してやはり同じように座り直すとアキラを見た。
「―明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとうございます」
同じように挨拶を交わし、それからお互いに深々と丁寧に礼をする。
「本年もどうかよろしくお願いいたします」
「今年もたくさんの良い対局に恵まれますように」
そして顔を上げると、微笑んで再び続きを打ち始めた。
毎年、毎年、もうどれくらい経ったか忘れてしまったけれど、心通わせるようになってから欠かさず繰り返
して来たこと。
古い年と新しい年の境目にはいつも二人で居る。
二人で新しい年を打ちながら迎える。
「…今年もキミとたくさん打ちたい」
「おれもおまえとたくさん打ちたい。公式でも非公式でも」
たくさん、たくさん打てますように。
どうか出来ればずっと――永遠に。
こうして共に年を迎えたいと心から願う。
それがヒカルとアキラ、二人が決めた年越しだった。
※ということで年末年始SSです。実はこの話は一年前に書きかけてそのままになっていたものです。去年の新年SSを読まれた方は
似ていると思われるかもしれませんがそれは元が同じだからです(苦笑)プロキシの家族の年越しを書きたくて、でも時間切れでアウト
になってしまいました。
これで書かないでいると次はまた一年後になってしまいますので今年アップさせていただきました。
今年もヒカアキ愛をだらだら垂れ流し続けることと思います。どうかよろしくお願いいたします。2007.1.1 しょうこ