クリスマスの奇跡
―美しければそれでいい―
クリスマスの予定はあるんですか? と尋ねられて、一瞬躊躇した後に進藤は「あります」と答えた。 「えーっ? 本当?? ここの所そういう噂を聞かなかったけど、進藤くん恋人がいたんだ!」 途端にずっと記者としての態度で取材を続けていた週間『碁』の古瀬村さんは、くだけた口調で進藤 に迫った。 「ね? 誰? 同業者? それ教えてくれたら新年特大号をおめでたいニュースで飾れるんだけど なあ」 「違いますよ、ちーがーう」 くすくすと笑った後に進藤は「その日は埼玉でジュニアのイベントがあるんですよ」と答えた。 「それに仕事で行くから予定はあるけど、そういう予定は、だからありまセン」 「なーんだ」 がっかりしたような古瀬村さんは次に隣に座っているぼくに視線を移すと同じ質問を向けて来た。 「じゃあ塔矢くんは? クリスマスは誰か素敵な人と約束なんかしていないの?」 くらいつくような視線に苦笑しつつ、けれどぼくはその古瀬村さんの向こうからじっとぼくを見ている 進藤の視線の方に緊張した。 「あります」 「本当?」 「…ぼくも進藤と同じイベントに仕事で行くので。それでクリスマスイブの予定は一杯です」 がくっと絵に描いたような落胆ぶりを示して古瀬村さんはぼくと進藤を交互に見た。 「もう〜他の人達は結構そういう話題が出て来ているのに、どうしてキミ達は浮いた噂の一つも無い んだろうね」 人生の先輩として言っておくけれど、囲碁だけが人生じゃないよ? と言われて更に苦笑してしまっ た。 「…そうですね」 やんわりと受け流そうとしたぼくは「いつかそういうお話が出来るようになったら真っ先に古瀬村さん にさせていただきますから」と答えた。 けれど進藤はそれを遮るかのように「囲碁だけの人生でいいです」と言ったのだった。 「さっきのあれ、どうかと思う」 取材が終わった後、しばらく無言で市ヶ谷の街を歩いた後、ぼくはぽつりと進藤に言った。 「何が?」 「ああいうつっけんどんな答えは…」 「いいんだよ、曖昧なことを言って隙を作るよりは思い切りはっきり言ってやった方が」 それに本当におれ囲碁だけの人生でいいと思っているしと、その口調がどこか苦いのは、彼が半 年ほど前に結婚を考え、プロポーズのために指輪まで用意した女性と別れてしまったからなのだっ た。 それもぼくのせいで。 ぼくはずっと親友ヅラをして彼の側に居、何も言えないでいながらいざ彼を失いそうなって取り乱し 、プロポーズに行こうとしている彼に気持ちを吐き出してしまった。 結果、彼は動揺し、彼女への気持ちに揺らぎを覚えてプロポーズどころか交際までも断ってしまっ たのだった。 「そうか…うん、そうだね」 キミは今上り調子だしねと、言うぼくの言葉は嫌味で言ったのでは無かったが、進藤は一瞬鋭い目 でぼくを見るとそれからぽつりと「そう思うんだったらとっととおれに追いついて追い抜いて行けよ」と 言った。 彼に告白した後、とても彼の顔を見ることが出来なくて手合いを放棄し続けたぼくは、その間に彼に 段位を抜かれ、当分はそれを挽回出来そうになかったのだ。 「…わかってる。来年はキミにちゃんと追いついて期待通り追い越してあげるから」 それで勘弁してくれないかと言ったら、進藤は再びぼくを見てそれから小さくため息をついた。 「なーんか…つまんねえ」 「え?」 「おまえ全然もとのおまえに戻らないんだもん。いつまでもそんな気の抜けたようなおまえじゃ、おれ 好きになれないかもしれないぜ」 どきりとした。 「…それならそれで仕方無い」 元々ぼくの一方的な片想いなんだからと言ったら今度こそ進藤は大きなため息をついて、それから ぼくの後ろ頭をぺちりと軽く叩いた。 「だからそーゆーのやめろっての。おれは…自分の意志で今こうしているんだから」 それに勝手に負い目を感じられてそれで沈まれても困るんだと、それは最もだと思ったのでぼくは 何も言い返せなかった。 「ごめん」 「まあそれはいいけどさ、…おまえ本当にイブは予定無いの?」 「え?…うん」 一瞬、期待して胸が高鳴る。 「無いよ。翌日も丸1日空いてる」 「そうか。だったらさ、和谷ん所であるクリスマスパーティーに行かねえ?」 「え?」 「一人もんのさびしー若手ばっかり集まってオールで飲み会やるんだってさ。飲み会だけど遊びで 打ったりもするらしいし、だからおれ仕事の後は直行することになってんの」 「………そう」 がっかりした顔を表情に現すまいと努力しながらぼくは彼に言った。 「それならぼくも行ってみようかな。そういう集まりはあんまり行ったことが無いし」 「そうか? じゃあ約束な」 指切りしようぜと言われて子どもっぽいと思いながらそっと右手を差し出した。 「じゃ、指切ったーっと。おまえおれを独り身にしたんだからちゃんと責任取れよな」 「もちろんだよ」 本当にごめんと謝りながらぼくは泣きそうになるのを必死で堪えていた。 半年前結婚を取りやめた彼はそれをぼくのせいだと言った。 ぼくの言葉と本心を知って、彼女と結婚することは無理だと悟ったと。 それはぼくに対して恋愛感情があったからでは無く、恋愛感情になるかもしれない感情があること を発見したからだった。 好きになるかもしれない。 でもならないかもしれない。 それでもよければ付き合ってと言われてぼくはそれでも良いと泣きながら答えた。 元々叶うはずが無いと思っていた恋。それだけで充分だと思ったからだ。 以来ぼくと彼は微妙な距離での付き合いを続けていた。 もう友達では無い。でもまだ恋人にはなれない。 ぼくはずっと彼のことが好きだったけれど、彼の中でぼくへの気持ちはまだ友達以上の好きにはな っていないらしく、それを申し訳なく思っているのかぎこちなく接してくるのが辛かった。 (やっぱり彼は普通に女性と結婚した方が良いのではないか) ぼくは彼と別れるべきなのでは無いかと何度となく考えたりした。 でも出来ない。 進藤を誰か他の人間に渡すくらいなら死んだ方がマシだと思っている自分の業の深さにぼくは心底 自己嫌悪に陥ってしまったのだった。 クリスマスイブ当日。イベントはつつがなく終わった。 地域の囲碁クラブのクリスマスイベントに呼ばれて行ったものだったので指導碁以外はあまりする ことも無く、棋院主催の催しと違い、終わった後に片付けや反省会に出る必要も無かった。 囲碁クラブの人達に礼を言われ、報酬と手みやげを山のように貰ってぼく達は思っていたよりもず っと早く東京に向かう電車に乗ることになったのだった。 「…どうしようかなあ」 電車に揺られながら時計を見て、進藤は考え込むようにぽつりと呟いた。 「クリスマスパーティーのこと?」 「ん。このままだと思ってたよりずっと早く着いちゃうからさ、直で行かないで着替えてから行こうかな あって」 「そうだね、スーツで飲み会じゃ窮屈だしね」 「店で飲むならいいけど和谷んちだしなぁ」 せっかくの一張羅が汚れちゃうと困るなあと、新年早々打ち初め式も控えているので進藤が考え込 むのもよくわかった。 うっかり汚してしまうと年末年始でクリーニング店が閉まってしまい、汚れたスーツで参加しなければ ならなくなるからだ。 「替えのスーツくらいあるだろう?」 「他のヤツちょっと袖が短いんだよ。おれまだ背ぇ延びてるから」 「へえ…」 ぼくの成長は二十歳になった辺りでほぼ止っている。それなのにまだ進藤は成長し続けているのか と思ったら悔しいような羨ましいような気持ちになった。 「だったら着替えてから行けばいい。荷物も一杯だし…これを持って行くくらいだったら確かに一度 家に戻った方がいいかも」 汗もかいているしねと、言うと進藤は「そうだよな」と呟いた。 「でもそうすると今度は遅くなっちゃうんだよ。おれんち結構離れてるじゃん?」 恋人と別れた後、気分一新と彼が引っ越したのは今までよりも少し都心から離れた場所で、彼女と 絶対に顔を合わせないためにしたのだろうが、結果的に棋院からも和谷くんの家からも遠くなってし まった。 「そうだ、おまえんちで着替えちゃダメ?」 「え?」 「おれこの間おまえんちに行った時に着替え一式置いてきちゃってるじゃん」 あれに着替えて行けば丁度いいからと言われてぼくは頷いた。 「そうだね。ぼくの家からの方が和谷くんの家に近いし」 「じゃ、決まりな。和谷にもそうメールしておくから」 そう言って進藤はにっこりと笑うと、回りに人の姿が無いのを確認して素早く和谷くんにメールを送 ったのだった。 そして。 「あー、さっぱりたしたっ」 ぼくの家に着き、汗を流したいからと先に風呂に入った進藤は、ろくに拭きもしないで雫を垂らしな がらぼくの部屋に戻って来た。 「おまえも早く入れよ」 「………それよりちゃんと拭け。どうしてそんなにびしょ濡れなんだ」 「えー? 一応ちゃんと拭いてきたけど?」 そんなに濡れてるって言うならおまえ拭いてと珍しく甘えたようなことを言うので、ぼくは仕方無く下 着すら履いていない彼の背中を拭いてやった。 「子どもでもここまでびしょ濡れで出て来ないよ」 「だって着替えこっちの部屋に置いたままだし」 「それと拭かないのは違うだろ」 口調がぶっきらぼうになってしまうのは好きな人の素肌にタオル越しではあるけれど触れているか らだった。 自分がこんなに欲望の塊だったとは知らなかったけれど、好きでたまらない相手が生まれたままの 姿で目の前に居る。 それはぼくの奥深くにあるものを揺さぶり、じりじりと焼け付くような気持ちにさせたのだった。 「はい、これで大体拭けたよ」 「前も」 前も拭いてと言われてため息をつく。 「何様だ……キミは」 「進藤ヒカル様」 おまえの大好きなオトコだよと言われて思わずその背を叩いてしまいそうになった。 「キミは意地が悪い」 「そうだよ知ってるじゃん」 「もしかしてわざとこんなことをしているのか」 ぼくがキミのことを好きで好きでたまらないとわかっているから、わざとこうして煽り、揺さぶっている のかと言ったら進藤は「ばぁか」と言った。 「バカじゃねーのおまえ」 「バカって…それはぼくはバカだけど」 キミの幸せをぶちこわした大バカ者だけどそんなにいたぶらなくてもいいじゃないかと言ったら更に 「バカ」と言われてしまった。 「泣くぞ!」 「泣く前に拭いてって」 つまんないことぐちゃぐちゃ言ってないで素直に言う通りにしてたらおれの気持ちがよくわかったは ずなのにと言われ、何のことかわからなかったけれど、それ以上バカと罵られるのも辛かったので ぼくはタオルを持ったまま彼の前に回った。 そしてそのまま動けなくなった。 「―――え?」 「え? じゃないって」 彼は――彼の前にあるモノがぼくの方を向いてそそり立っていた。 硬く起ち上がり、間違い無く欲情しているとぼくに伝えていた。 「―――え?」 「だーかーらー、なんでわかんねーの?」 おれ、今、おまえとヤリタイ気持ちで一杯なんだけどと、言われても頭が追いつかない。 「え……だって………」 だってキミはまだぼくにはそういう気持ちを抱けなかったんじゃとおろおろと言うのをぐいと抱き寄せ られる。 ごりっと腹を擦った固い感触に全身に電流が流れたようになり、顔が一気に真っ赤に染まった。 「好きだよ」 「……え?」 「もうとっくにおまえのことちゃんと好きだって!」 「え?」 「でもおまえがいつまでもおれに負い目を持ってびくびくしてるから」 だからいつまでも何も出来なかったんじゃないかと言われてぼくはゆっくりと彼の顔を見つめた。 「ぼくを…好きなの?」 それは半年前にも尋ねた言葉だった。その時彼は「わからない」と言った。「まだわからない」と。 「好きだよ。とっくに好きだよ、とっとと気づけよ」 たぶん元々きっとおまえのことだけ好きだったんだと、耳に囁かれてぶるっと背中が震えた。 「本当…に?」 「見たろ? 起ってんだろ? だったらわかるだろう」 おまえのこと抱きたいって、おれが今そういう気持ちで一杯なんだっていくら鈍いおまえでもわかる はずだと言われて、更にぐいと押しつけられて頬が火照った。 「じゃあ…ぼくを抱いて…くれる……の?」 「違う。抱いて『あげる』んじゃない。おれが抱きたいんだ」 だから頼むから抱かせてくれないかと懇願するように言われて見開いたままの目に涙が溢れてくる のをぼくは感じた。 「おまえのこと欲しい。今おれはそういう気持ちになってる。おまえのこと好き。友達じゃなくて好き。 だからもしおまえが嫌じゃなかったらおまえをおれにくれないか」 いい? ダメ? と一言一言区切るように言われてぼくは彼の背にゆっくりと腕を回した。 「いいよ…いいに決まってるじゃないか」 だってそれはずっとぼくが望んでいたことだった。 彼を愛し、彼に愛され、彼と心と体で結ばれたいと、どれだけ切に願ったことか。 「だったらもうこれからはおれに負い目なんか感じるなよ」 前の、昔みたいなおれにぽんぽん文句言うおまえに戻ってと、言われて小さな声で頷いた。 「――――うん」 大好きで。 大好きで。 大好きで。 でも絶対に叶わないと思っていた。 その気持ちが奇跡のように彼に伝わり、願い通りになった。 「好きだ……好きだよ進藤」 「うん、おれも好き」 オレ様で自己中で、人を人とも思わない高飛車なくせに実はバカで間抜けで臆病で卑怯でとっても 可愛い、おまえのことが大好きと言われてつい怒鳴ってしまった。 「そこまで非道くは無いっ!」 そしてはっと口を噤む。 「いいんだって、それで」 そういうおまえが大好きだからと、強い所も弱い所も全部併せて好きだよと言われて堪えきれず涙 がこぼれた。 「―――ありがとう」 今はありがとうとしか言えないと言いながら、でもそれでも気になって仕方無いことをぼくは言わず にいられなかった。 「でも…和谷くんのクリスマスパーティーは……どうしよう」 「そんなん最初から無いって」 おまえんちに押しかけるための、おまえの反応見るための最初から最後までまるっきりの嘘だって と言われてカッと頬が違う意味で赤くなった。 「進藤っ!」 「そうそう、やっぱおまえはそうでなくちゃ」 大好きと、さらりと前髪を持ち上げられてキスをされる。 「そうやっていつまでもおれのこと怒鳴って」 怒鳴って殴って、そしておれの前だけで可愛く泣いてと、言いながら重ねてキスをされてもう何も言 えなくなった。 「ぼく――――も、キミが―――――」 大好きだよと、ゆっくりと床の上に倒されて、服の前を開かれながらぼくは泣き続けた。 嬉しくて幸せで、指先から伝わってくる彼の温もりがあまりにも心地よくて、どうしても泣かずにはい られなかったのだった。 |