嘘つきな唇



いつかその日が来るとは思っていたけれど、いざ来てみると自分でも信じられないくらい動揺した。

「あ、塔矢。どう? おれの婚約者」


その日の午後、和谷くんの研究会に集まっていた僕たちの前に少しだけ遅れて来た進藤は、見た
ことの無い若い女性を連れていた。



「なんだよ進藤、遅刻して来――」


いつものように怒鳴ろうとした和谷くんが思わず黙ってしまう程、その人は際だって綺麗な顔立ちを
していた。



「へへへへへ。美人だろう、和谷」
「……………何? おまえのオネーサン?」
「違うって、聞いて驚け! おれの婚約者だっ!」



進藤の紹介にその人が黙ってぺこりと頭を下げる。


「今日、用事があって家まで来たからさ、折角だからおまえらにも紹介しようかなって」


それで連れて来たんだと言う彼の言葉を居並ぶ面々は呆然として聞いた。

中でも一番呆然としていたのはぼくだったろう。


「みんな何黙ってんだよ、感想は? なあ、なあ」


にこにこと機嫌よく皆の顔を一通り見た彼は、ぼくと目が合うと満面の笑顔で言った。


「塔矢、どう? おれの婚約者。美人だろう」
「ああ……うん。とても…綺麗な方だね」


おめでとうと、呆然としつつもなんとか言えた自分を偉いとそう思う。


「良かったね。お幸せに」


けれどそこまでが限界で、これ以上ここに居たら涙がこぼれてしまうとぼくは思った。


「…折角来てくださったんだから何か買ってくるよ」
「って、いいよおい」
「でもこの家、コーラとスナック菓子しか無いじゃないか。もう少しまともな物を買ってくるから」



そして何か返される前に上着を羽織って逃げるように部屋を出た。


ぱたんとドアが閉まった瞬間にぶわっと涙が目に溢れ、そのままとめどなく流れ落ちた。


(どこか…早く)


早く行かなくちゃと、ぼくは泣きながらアパートを離れふらふらと歩いた。

人から見ればそれは奇異な眺めだっただろう。もういい年をした大人が子どものように泣きじゃくり
ながら歩いているのだから。


それでもようやく小さな公園を見つけ、奥まったベンチに座った時には心からほっとした。


(よかった、これでやっと心から泣ける)


泣いて涙が止ったらお祝いのワインでも買って皆の元に戻ればいいと。

けれど座ったか座らないかのうちに公園の入り口に進藤が現われて、息を切らせながらぼくの方
に走って来たのでぼくは思わず立ち上がった。


そして泣き顔を見られまいと背を向ける。


「塔矢っ!」


声を出せば泣いているのがわかってしまうので、ぼくは無言で彼から顔を背け続けた。


「おまえ何やってんだよ、もうすげえ走っちゃったじゃん」


止める間もなく買い物に出ちゃうし、出たかと思えば何故かこんな公園に入って行っちゃうしと、彼
は余程全力で走って来たらしく、息が本当に苦しそうだった。



「彼女もびっくりしてたってば! もう、何も特別に買ってなんか来なくて良かったのに」
「だってキミが婚約したのならお祝いをしなければいけないじゃないか」
「だから違うんだって、あの人は―――」



言いかけた進藤は、ぼくの声の調子と背け続ける顔に敏く気が付いた。


「何…もしかしておまえ泣いてんの?」
「泣いてなんかいない!」
「って泣いてんじゃん。どうして?」



肩を掴まれて無理矢理正面を向かされて、ぼくは思わず彼に向かって怒鳴ってしまった。


「キミが嫌いだからだ!」
「え?」
「いきなり…あんな…婚約者だなんて人を連れて来る…から」



心の準備が出来ていなかったんだと、動揺のあまりついいらぬことまで言ってしまう。


「おまえ…おれが嫌いなんだ?」


ぼくの肩を掴んだまま、しばらく沈黙していた進藤はやがてぽつりと呟くように言った。


「マジで?」
「嫌いだよ。大嫌いだ!」
「そうか……実を言うとおれもおまえのこと大嫌い」



あまりのことに顔を上げると、進藤は非道く真面目な顔でぼくを見ていた。


「素直じゃねーし、可愛くねーし、ずっと前からおまえのこと嫌いだった」
「そう…か。だったら丁度いいじゃないか。ぼくもキミのことが嫌―」



言いながらも涙が溢れて止らない。


最初から実る恋だとは思っていなかった。けれど心密かに思っていた相手から嫌われているとは
思わなかった。



「ぼくも…ぼくもキミのことが嫌い…なんだか…ら」
「うん。わかった。わかったからもういいよ」



泣きじゃくるぼくの頬を進藤の暖かい手がそっと挟む。


「もういいからさ……」


そしてあっと思う間も無く顔が近づいて来たかと思ったら深くキスをされていた。


「おまえ…本当に可愛くないよなあ」


そんな非道いことを言いながら文句を言う暇も与えず、もう一度キスをする。


「ひでえ顔。涙でぐしゃぐしゃですげえ汚いぞ」
「悪かったな、どうせぼくはキミの婚約者みたいに綺麗じゃない」
「うん。綺麗じゃない」



この男はなんて非道いことをなんて悪びれもなく言えるのだろうかと、あまりのショックで口もきけず
にいると、進藤は再びぼくに口づけてそれからぼくをその胸の中に抱き込んだ。



「あのさ……みんなすぐに気が付いたんだぜ?」
「なんの――」
「あの人がおれの婚約者だ云々ってヤツ。なのにおまえ、いきなり出て行っちゃうからすげえ焦っ
たじゃん」



言われていることの意味がわからない。


「あの人はおれの母方のイトコ。あ、これは本当な。来月結婚するってんでおれんちに挨拶に来た
の。そんだけ」
「結婚って…もうそんなに話が進んでいるのか」
「だから違うって、あ、これも本当の話な。あの人は自分の会社の同僚と結婚すんの。って言うかも
う一緒に暮してるんだって。それでその相手ってのはおれじゃねーよ」



結構年が近いし、こういう悪ふざけにもノッてくれるような人だから頼んで帰る途中に寄り道して貰
っただけだと言われて、ようやくぼくの脳も彼の言葉を理解した。



「…………え? じゃああの人はキミの…」
「婚約者なんかじゃないっ! これも本当のことだからな」



ちょっと考えればわかりそうなことなのに、どうしてそう簡単に引っかかっちゃうかなあと、進藤はた
め息をついて、でもそこがいいんだよなと優しくぼくの頭を自分の胸に埋めるように押さえた。



「あ、今のももちろん本当だから」
「…さっきからなんでそんなに念を押すんだ」
「あー、もしかしておまえわかって無いんだ。今日が何の日だか」
「今日? 今日は四月―――」



一日だと思った瞬間にカッと全身が熱くなった。


「わかったか? つまりそういうことだから」
「わかったけど…でも、じゃあさっきのは…」
「だからつまりそういうことだよ!」



彼はぼくに嫌いだと言った。

泣きじゃくるぼくに、ずっと昔から嫌いだったと言った。


でもそれはエイプリル・フールの嘘だったのだ。

婚約者と言って連れて来た彼女が嘘の婚約者だったようにぼくに告げた言葉も皆真実の裏返し。


可愛くないは可愛いだし。素直じゃないは素直だになる。

そしてその彼に向かってぼくはよりによって大嫌いと言ってしまった。

四月バカ。この日に相手に嫌いと言ったらそれは―――。


「おまえおれのこと大嫌いなんだ?」
「それは―」
「おれのことマジで嫌いなんだよな」



それがわかっただけでも今日の悪戯は成功だったと、そして進藤はこれもバカ丁寧に「あ、これも
本当だから」と言った。



「改めて言うけどさ、おれおまえのこと嫌い。大っ嫌い」


出会った最初の頃からずっと嫌いで仕方無かったんだけどと言われて、ぼくは体が熱で溶けるの
では無いかと思った。



「おまえは? ねえ」


さっきみたいに勢いよく告白してよとねだるように言われて、ぼくは恐る恐る顔を上げた。


きっと顔は泣きじゃくった涙でどろどろになっているはずなのに、進藤はそんなぼくを見て「すげえ
汚い。みっともない」と笑った。



「ぼくは――ぼくも」


ぼくもキミのことが嫌いだ。

大嫌いだと、さっきとは違ってようやく絞り出すように言うと、進藤は幸福そうに笑って、それから強
くぼくを抱きしめると「可愛くない」と言ってからぼくに甘く優しいキスを降るほどたくさんしてくれたの
だった。









※バカっぷる万歳ということで4月の甘々バカっぷるでした。なんとなく同じタイトルで以前にSSを書いたような気がしますし
よくあるようなネタですがこういうのが好きなんだなと笑って許していただければ嬉しいです。
2008.4.1 しょうこ



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