幸か不幸か



誰かの祝賀会か、それとも何かの式典だったのか。とにかくそれが立食のパーティーのような
もので、人がたくさん居たことだけは覚えている。


人々に囲まれて談笑する父と母。

父はやがて知り合いの棋士に連れられて行って、残された母はぼくを連れたまま棋士の細君
達と話をしていた。


それがなんだったのか幼いぼくにはわからなかったけれど、ふいに一人が針のように鋭い何
か一言を言って場が凍った。


母も一瞬顔を強ばらせたけれど、でもすぐにやんわりとそれを微笑みに変えて、見事なくらい
動じずに流してしまっていた。


悔しそうな相手の顔と、微笑みながら、でも細かく手が震えていた母。

父の妻であるということは、普通の誰かの妻であるというよりも、ずっと苦労が多いのだとその
時ぼくは知ったのだった。





珍しく一人だけで日本に帰って来た母は、家に入った途端、いきなりばたばたとあちこちの掃
除や片付けを始めた。


「すみません…一応掃除はしていたんですが」

お母さんのようには出来なくてと言うぼくに、苦笑のように母が笑う。

「あら、いやね。ちゃんとお家は綺麗になっています。男の子の一人暮らしにしては上等よ」

ただ、久しぶりに自分の家に帰って来たものだから嬉しくてと言う言葉にぼくは首をひねった。

「嬉しいと掃除をするんですか?」
「そうね、するわね」


だってここは私とお父さんの大切な家ですものと言う母は、言いながらもう次にするべきことを
探し始めている。


「納戸の片付けは今回は出来ないから…そうね、後はカーテンとシーツを全部洗って、それか
らお庭をちょっと見てみましょうか」


庭ももちろん定期的に庭師に見てもらっている。でもそれでも母には物足りない何かがあるの
だろうと、ぼくは忙しく立ち働く母を放っておいて自室に戻った。



今回、母が帰って来たのは思いがけないことだった。いつもは父にぴったりと寄り添い、父の
棋戦に合わせて移動や行動を起こしているのが常だからだ。


それがまだ棋戦途中の父を置いて一人だけ帰って来る。何かあったのではないかと子どもの
身としていらぬこととは思いつつも心配せずにはいられない。




「お母さん…」

夕方になっても、まだごとごとと台所の奥で片付けをしている母に、ぼくはそっと声をかけに行
った。


もし父と喧嘩でもしたのなら話を聞こうと思ったからだ。

それとももしやいつぞやのように、棋士の妻として辛いことがあったのだったら、愚痴なりなん
なり聞いてあげたい。そんな気持ちだった。


今でも充分に母から見たらぼくは子どもなのだろうけれど、それでもずっと昔、母が傷つけられ
ているのを見詰めていた小さな子どもではもう無い。棋士として日々を過ごしていることもあっ
て少しは助けにならないだろうかと思ったのだ。


けれど台所にこもっていた母は、ぼくが水を向けた言葉にあっけらかんと「ええ? 何か困って
いること? 無いわよ」と言ったのだった。


「…でもずっと海外暮らしで…向こうの棋士の方々とのお付き合いも大変だったりするんじゃな
いですか?」
「そうねえ、歴史や習慣が違うから戸惑うことも多いけれど、でも最近は随分慣れたのよ」


そう言う母は決して強がっているようには見えない。

「向こうで…何かあったんじゃないですか?」
「え? ああ! 嫌だ。アキラさんたらそういうことを心配していたのね。いやだわ」


埃まみれになりながら台所の床下収納から顔を上げた母は、ぼくを見詰めてふふっと笑った。

「私がいきなり帰って来たから心配しちゃったのね。ごめんなさい。別に何も無いのよ。向こう
で困ったことがあったとか、お父さんと喧嘩したとか」


そういうことじゃないからと言いながら母は側に立つぼくを改めてじっと見詰めた。

「アキラさんはずっと私の側で見て来たからそんな心配をしちゃうのねえ…」


あの時―。

その場では笑ってやり過ごした母は、しばらくして人混みから離れると誰も居ない場所で一人、
涙を拭いていた。そんな母にぼくは何もしてあげることが出来なかった。


どうしてお父さんはお母さんにこんな思いをさせているんだろう?
どうしてお父さんはお母さんのことをちゃんと守ってあげないんだろうか?



誰にどんなキツいことを言われても、当てこすりや嫌味を言われても母はいつも毅然としていた。

ぼくはそんな母を誇らしく思いつつも、でも同時に自分なら自分の大切な人にこんな苦労をさせ
たりしはしないのにと幼いながら思っていた。



「本当にね…向こうで辛いことなんか何も無いのよ。むしろこちらに居るよりもしがらみが少なく
て気が楽なくらい」
「そうですか」
「でもそれでアキラさんをずっと一人にしてしまっているんだから…悪い親よね?」
「いえ、そんなことはありませんよ」


ほっとした。母が向こうで苦労しているのでは無いかと実はぼくはずっと心配していたから。

父は碁のことだけに目を向けて、生活のことも近所の付き合いや何もかも全て母に任せきりだ
った。その暮らしぶりが海外に行って変わるとも思えなかったからだ。


「お母さんがお父さんと楽しく過ごしてらっしゃるなら、ぼくは別に」
「そう?」


そうねと母はぼくをしげしげと見た。

「アキラさんたら、いつの間にかもう子どもじゃなくなってしまったのねぇ」

それも少し寂しいわと、笑う母の笑顔はこんな大きな子どもが居るというのに今だ少女っぽさが
ほの見える。



「それで…じゃあ、今回帰ってらしたのはどうしてだったんですか?」

不安が解消されて疑問だけが残ったぼくは母に改めて尋ねてみた。

すると母は一瞬黙って、それからうふふと笑いながら手に持っていた素焼きの壺をぼくに見せ
た。


「梅干し?」
「そう。この間帰って来た時にたくさん持って行ったはずだったのにもう無くなってしまって…」


行洋さんたら私が漬けた梅以外は絶対に口にしないからと言った母の口調には、ほんのりと
誇らしさが漂っていた。


「そうだったんですか」
「ええ、そうなの。笑っちゃうでしょう?」


そして母の漬けた梅干しが食卓に無いと、父は無言で不機嫌になるのだと言う。

「向こうでも漬けてはみたのだけど、やはりお塩が違うからかしら、同じ味にならないのよね
え」


この頃忙しくてお疲れだから、どうしても食べさせてあげたくて、思いついて来てしまったのと
そのフットワークの軽さに驚きつつ、母らしいと思ってしまった。


柔らかく微笑みながら、でも様々な場をその微笑みで切り抜けて来た百戦錬磨。さすが父の
選んだ人だと思わずにはいられなかった。


「じゃあ…これを持ってまたすぐに帰られるんですね?」
「ええ。今夜の最終で―」
「今日!? 今日帰られるんですか????」
「ええ? だって帰らなかったら明日の朝ご飯に間に合わないでしょう?」


なんでも無いことのように言う母にぼくは笑ってしまった。

ああ、本当になんて強い。
この人の血を継いでいるということをぼくは心から嬉しく思った。



「アキラさんにはまた不便をかけるけれど―」
「いいんです、ぼくは」


料理も随分上手くなったし、掃除も洗濯も嫌いでは無い。それに最近は一人住まいのこの家
に遠慮無く転がりこんでくる輩も居たりするのだから。


「寂しくなんか無いですよ。だからどうか心配せずに行ってください」
「そう言われるのもなんだかつまらないわね」


でもあなたがそう言うならそうなんでしょうと、ちらりと箸立てを見た母は、確かに進藤の箸に
目を留めたようにぼくには思えた。


「それじゃ、梅干しも見つかったし、久しぶりに家のことも出来たし、そろそろ私は行くわね?」
「タクシーを呼びますか?」
「いえ、大丈夫。帰って来る時乗せていただいた運転手さんにまた来てくださるようにお願いし
ておいたから」


もう数分もしたら来るはずよと、言う母の言葉通り表で車の気配がした。

「あら、いやだ。言っていたよりも早いじゃないの」

母はつけていたエプロンを畳むと持って来たバッグに詰めて、梅干しの壺を風呂敷できちっと
包んで抱いた。


「慌ただしくてごめんなさいね。お正月には帰りますから」
「お父さんによろしくと伝えてください」
「ええ、アキラさんはちゃんと―ちゃんと暮していたって伝えておきますね」


そして小さな嵐のごとく玄関から出て行ったのだった。


残されたぼくはしばらく母の姿の消えた玄関戸を見詰め、それからもう既に空港に向かって
いるであろうその姿を思い浮かべた。


大切そうに梅干しの壺を抱え、父の元に戻った母は何食わぬ顔で翌朝食卓に自分で漬けた
梅干しを出すんだろう。


(お父さんは果たしてわかっているんだろうか)

母が一人でずっと父のためにして来たこと。小さな体で戦って、父のためにいつも走り回って
来たことを。



「…わかっているんだろうな、きっと」

父に直接当たれない分、母への当たりは強かった。

上り調子の棋士への妬みは相当なもので、でも母はそのことを一度も父に訴えなかった。

『お父さんは今大切な対局を控えているんですからね、決して何も言ってはダメよ』

涙を拭った母にそう口止めされて、割り切れないものを覚えたりもしたものだけれど、思い返
せばそういう日には、父は必ず帰り道、人前でもなんでも母の手をしっかりと握って帰ったも
のだった。


すまないとも苦労をかけるとも口に出すことも無く、でも母が泣いたような時には必ず後から
寄り添って、あの無骨な父が母の手を引いて歩いたのだ。


(羨ましい)

幸か不幸か、夫婦の幸せというものはそのお互いにしかきっとわからないことなんだろう。

母は幸せなのだろうかと思った日々もあるけれど、今は本当に幸せなのだと思うことが出来
る。



「ぼくも―」

ぼくもいつかあんなふうに誰かと分かち合い暮すことが出来るのだろうか?

たった一人、嬉しいことも悲しいことも苦しいことも一緒に過ごして。

それでも尚共に居ることが幸せだとそう思えるようなそんな『夫婦』になれたらいいなと思う。



「もっとも…ぼく達は夫婦にはなれないんだけど」

でもいつか、それに近いものになれたらいいと、ぼくはくすりと笑いながら、来るなとメールで止
めた恋人の顔を思い出し、急に会いたくてたまらなくなって、今度は「来い」と強引なメールを送
ったのだった。




※幸か不幸かそれは他人が決めることでは無くて、当事者が決めることであると。

ところでアキラは碁は父似、容姿性格は母似。明子さんは結構情熱的な人だと思います。だからあんなにイノシシ
のように(ヒカル)一直線なんじゃないかなと。ちなみによく出来た母でもある明子さんはちゃんとこの日の夕食のお
かずも作ってくれています。しかも二人分だ!(笑)2008.11.22 しょうこ