横顔
カウンターには濃いピンク色の花びらが散っていた。 いつも某か花の生けてある碁会所の受付は、つい先週まではヒカルですら名前を知って いるチューリップが飾ってあったのだが、今日は見たことがあるような無いような、そんな 花の枝が飾られていたのだった。 「今、お客さん居なくてアキラくん一人だから、ちょっとの間だけ二人で留守番していて」 いつものように待ち合わせてやって来た碁会所の階段の下で、ヒカルは駆け下りて来た 市河さんに出会った。 「あれ? 市河さんどっか行くの?」 「入金! 銀行行くの忘れてて!」 早く行かないと閉まってしまうと走りながらヒカルを振り返り元気良く言う。 「お茶を仕舞ってある所に桜餅と草餅が入っているからアキラくんと食べていてね!」 「はーい」 桜餅と草餅。今日の茶菓子は豪華だなと鼻歌まじりに階段を駆け上がって、碁会所に入 ってみたら中はいつもとは違い、しんと静まりかえっていた。 「…そういや、北島さん達みんなで温泉に行くって言ってたっけ」 この碁会所に通っているのはほとんどがこの近所に住む老人達だった。 中には塔矢行洋の名前に惹かれてやって来る相当の碁好きというかマニアも居たが、そ ういう者はほんの少しで、だから町内会の旅行などがあると、こんなふうに一度に人の数 が減ってしまうことがあるのだ。 (だから茶菓子が豪華なんだな) 旅行に行った以外の常連は今日は人が居ないのを知っている。なのでわざわざそんな日 を選んでは来なくて、時にはヒカルとアキラと市河さんだけなどということになる日もある。 普段はおかきや十円饅頭など、大勢で食べても差し支えが無いような安価で量があるもの を市河さんは買ってくるが、今日は人が少ないということで奮発したのだろう。 「へっ、へっ、ラッキー♪」 これはうっかり緒方先生や芦原さんなんかが来たりしないうちに、とっとと塔矢と食べてしま わなくちゃと思いつつ、いつもの場所に歩いて行ったヒカルは指定席にアキラの姿を見つけ られなくて目を見開いた。 「あれー? なんだよ。いないじゃん、塔矢」 本来、碁会所の中に「だれの席」というものは存在しない。 けれど常連やヒカルとアキラのような特別な客にはなんとなくいつも選ぶ席というものがあ り、混雑していてもそれを知っている人間はそういう席を避けるものなのだ。 アキラがいつもヒカルを待っているのは碁会所でも一番奥まった席で、北島さんによれば 二人が喧嘩を始めても他に被害が広がらない良い席でもあるとのことで、それが二人の 『指定席』になっているのだ。 「塔矢?」 市河さんは確かにアキラが居ると言った。でも碁会所をざっと見渡してもアキラの姿は無 い。 「トイレにでも行ったんかな」 ふうとため息をついて座りかけたヒカルは、はっとして振り返ると入り口に戻った。 すると案の定アキラは受付カウンターの一番端に居て、椅子に座り、カウンターにもたれ るようにして静かに眠っていたのだった。 「こんな所に居たのか…」 留守番を頼まれたのだから少し考えればそこに居るということがわかりそうなものなのに、 ヒカルはなんとなくアキラは奥の席に居るものと思ってしまったのだ。 アキラが起きていたならばもちろんヒカルに声をかけたはずだし、もし声をかけなかったと してもヒカルも気が付いたはずなのだが、こんなふうに気配を消して眠られていてはわから ない。 「塔矢―おい」 右腕を腕枕にして眠っているアキラの寝息はとても静かで室内を暖めているエアコンの音 の方が大きいくらいだった。 「塔矢、おいってば」 食い扶持が減らない内に桜餅と草餅食っちゃおうぜと揺り起こしかけてヒカルは手を引っ 込めた。 アキラがここの所忙しくてほとんど休んで居ないのを思い出したからだ。 「…こんなに無理しておれに会うこと無いのに…」 それでもアキラは出来うる限り時間をひねりだしてはヒカルと打つ機会を作る。 今日のこの半日を作るためにどれだけ他で無茶をしたのかと思うとヒカルはなんだか胸の 奥が痛がゆいようなそんな気持ちになった。 「そりゃ…おれはおまえと打てて…会えて嬉しいけどさ」 こんなにも側に居るのにぴくりとも動かない。それほど疲れ果てているのだと思うと、無理 をさせている自分が悪者のように思える。 「ま…いいか。もうちょっと寝とけよな」 静かに言って着てきた自分の上着を背中にかけてやる。 もう春だとはいえ、まだ寒い日もある。こんなふうにうたた寝をしていては風邪をひくかもし れないからだ。 「それにしてもよく寝てんなあ…」 手持ち無沙汰に寝顔を眺めていたヒカルは、アキラの白い頬にひらりと何か桃色の片が落 ちたのに気が付いた。 「なんだ?」 見るとそれは花びらで、すぐ側に生けてある花瓶の花が散ってアキラの上に落ちていたの だった。 「なんだろ…桜?」 いつも飾ってあるような、いかにも花っぽい花では無くて、枝についた花だった。 ヒカルは花には詳しくないが桜は学校や家の回りで嫌という程見ているので、それが違うと いうことだけはわかった。 「梅…かな」 でも梅ともちょっと違うような気がするとぼんやりと考えながら頬の花びらを指でつまんで取 ってやる。 アキラの頬は思いがけず温かく柔らかくてヒカルはなんだかドキリとした。 「花びら取っただけだからな。ほんとそんだけだからな」 言わないでもいい、言い訳をつい言ってしまう。 けれどまたすぐにひらりと花びらは落ちて来て、見てみればカウンターの上はそんな花びら で一杯で、アキラは花びらにまみれて眠っているのだった。 「花瓶…デカくてずらせないな」 それに下手に動かしてアキラを起こしてしまうのも可哀想に思った。 仕方なく顔にかかったものだけを側に居てずっと指で取ってやっていたのだが、それでも落 ちてくる花びらは尽きなかった。 「もう終わりかけなのかな? これ」 エアコンの風具合でこんなに散ってしまうようでは何日も持たないだろうと、もう少し掃除の 楽な花にすればいいのにと余計なことまでヒカルは考えてしまった。 「しかしよくこんな花まみれで寝てるよなあ…」 静かに、静かに眠るアキラ。 普段起きている時や、盤の向こうに座っている時は厳しく年よりもずっと上に見える面立ち がこうして寝ていると無防備で年相応に幼く見える。 「…こいつ、寝てる時はこんなに可愛いのに」 じっと寝顔を見つめていて、いつしか花びらを拾うことをやめてしまったヒカルは花びらで彩 られて行く白い横顔を見つめながらついぽろりと言ってしまった。 「いつも…こういう顔してりゃいいんだよ」 せめておれの前だけでもさと、頬の白さは花びらの濃い桃色を移して赤らんでいるようにも 見えた。 「市河さん…遅いな」 いつの間にかもう、ヒカルの頭の中からは桜餅のことも草餅のことも消えてなくなってしまっ ている。 市河さんは出かけているし、唯一相手をしてくれるはずのアキラも眠ったままでいつまでも 起きない。 けれど。 ヒカルはこの時間がなんだか非道く大切に思えてきた。 静かな部屋、無防備に眠るアキラの横顔は非道く美しくていつまでもこの横顔を見ていたい と思ってしまったのだ。 「塔矢…」 一度呼びかけて、それでも起きないのを確認してからそっと身を乗り出す。 「塔矢」 もう一度呼んでも返事は無い。 「…おまえが悪いんだぞ、こんな所で寝てるから」 いつまでもかわいい顔で寝てやがるからいけないんだと、そっと密やかに囁くように耳に吹 き込むとヒカルは顔を寄せ、アキラの頬にそっとキスをしようとした。 ―――――と、唇が触れるか触れないかのその瞬間に唐突にアキラが目を開いたのだっ た。そして驚きのあまりそのまま硬直したヒカルの方をゆっくりと見る。 (殴られる) ヒカルは咄嗟にそう思った。 (殴られて突き飛ばされて変態って罵られる) けれどそのどれにもならなかった。 アキラはヒカルの顔が間近にあるのを悟ると微かに顔を傾けて、それから驚いたことには 少しだけ身を起こすと、自分から顔を寄せてヒカルの唇に唇を重ねたのだった。 そしてふわりと笑ってから再びカウンターの右腕の上に頭を置く。 「塔―――――――」 「起きてたんだ。ずっと」 呆気にとられて目を見開いたままのヒカルにアキラはまるで少し寝ぼけているような、とろ んとした微笑を浮かべながら言った。 「キミを驚かそうと思って寝たふりをしていたら、キミはぼくには気が付かずにまっすぐに奥 に行ってしまって起きるに起きられなくなってしまって…そのままどうしようかと思っていたら 戻って来て思いがけないことを言い出すから…」 ゆっくりと話すアキラの表情は今までヒカルが見たことの無いものだった。 怒っては居ない。 拒んでも居ない。 どちらかというとそれは誘うようで、思わずヒカルは衝動的にもう一度身を屈めるとアキラに キスをしてしまった。 「おまえが――悪いんだぞ」 飛び退くように離れてから顔を赤く染め、ヒカルが言う。 「ね、寝たふりなんかしてるから!」 その上寝顔は滅茶可愛いし、キスしようとしたら自分からしてくるし、とにかく何がなんでも 全部おまえが悪いんだからなと、それは照れと動揺のあまりの逆ギレのような台詞だった がアキラは微笑んだままで静かに返した。 「だって嬉しかったから…」 「嬉しかった? 野郎にキスされそうになったのが?」 「好きな人にされて嫌がるバカなんかいない」 「好き? おまえおれを好きなん?」 「キミはぼくを嫌いなのにキスをしようとしたのか?」 ヒカルへのアキラの問いはそのままアキラの答えでもある。 キミを好きだから、だからキスをされそうになって嬉しく思ったのだと、微笑むアキラの頬は さっきまで落ちていた花びらのように肌の内側から淡く赤く染まっていた。 「進藤、キミはぼくを――」 好き?――と、改めて言葉で問われ、ヒカルが更に真っ赤になった瞬間に、まるでタイミン グを計ったかのように自動ドアが開いた。 「たっだいまあ、遅くなっちゃってごめんなさいね。もう銀行混んじゃって混んじゃって大変だ ったのよぉ」 春に吹く一陣の風のように市河さんが入って来て、途端にヒカルはアキラから飛び退いた。 「ご苦労さま、進藤くん。アキラくんも。誰かお客さん来た?」 「いや…誰も来なかったよ、進藤の他には」 顔を上げたアキラはまるで何事も無かったかのように無邪気に笑って市河さんに答えた。 「あら、暖房効きすぎてるかしら、アキラくんも進藤くんも顔が赤いわ。まるでそこの桃の花 みたいな色になってる」 暑くない? と言われてヒカルとアキラは顔を見合わせた。そして少しの間の後に二人して 複雑な、でもどことなく照れたような笑いを浮かべる。 「そうですね、ちょっと暑いかも」 「うん、おれもちょっと暑い」 「そう? じゃあ設定温度ちょっと下げるわね」 その暑さがどこから来ているのか彼女が知ることはきっと無い。北島さんも常連の皆も、世 界中の誰一人として知ることは無いのだ。 でもヒカルとアキラは気が付いてしまった。 昨日までは友達だった自分達の間に生まれたほのかな温もり。 やがてそれは夏の日の眩しい、焦がすような熱さへと変わっていくのだろうか? 「あ、そういえば桜餅と草餅食べた?」 「いえ、まだです」 「だったらいただきましょう? いいお茶も買って来たから」 弾むような市河さんの声を聞きながら、ヒカルはちらりと目の前で桜餅を上品に食べるアキ ラを見る。 ついさっき、あんなことがあったなんておくびにも出さない。 でも頬はまだ確かに花の片のように赤くて夢でも幻でも無い確かな事実だと伝えている。 『キミを好きだから、だからキスをされそうになって嬉しく思った』 キミは? と、肝心な所で邪魔が入ってしまったけれど、もし市河さんが帰って来なかったな らばヒカルはきっと答えていただろう。 「おれだって…おれだって好きだからしたんだ」 小さく呟く声が聞こえたのか、アキラの頬の赤味が濃くなる。 気持ちだけが先走り、それをこれからどうしていいのかはわからない。きっとアキラにもわ からないのだろうとヒカルは思った。 (でもキスはした―) アキラの唇は柔らかくて、そして花のように甘い香りがした。 (桃の香りだったんかな) 無意識に唇を指でなぞると、アキラもまたそっと唇を指で押さえていた。 「気持ち…良かったな」 ぽつりとした呟きはアキラの顔を更に赤く染め、市河さんは不思議そうにヒカルとアキラを 見比べていた。 まだ何と呼ぶのかすら知らない。 でも唇はもう知っている。 春の日だまりの温かさに似たこの胸に溢れる想いは―――。 恋。 誰にも一度は訪れる最初で――そして二人にとってはただ一つの。 それが初恋であることをヒカルはまだ知らなかったけれど、アキラの頬に落ちた花びらが 桃の花だということだけは記憶にしっかりと刻まれた。 そしてそれから春になり、桃の花を見るたびに、ヒカルはアキラの美しい横顔と初めて交 わしたぎこちないキスを思い出し、複雑な甘さと切なさで胸が満たされるのを覚えるように なったのだった。 |