繋
「今年は互いにチョコは贈らない」 そう塔矢が言い出したのは1月の末頃だったと思う。 「え? なんで? いいじゃん。おまえはともかくおれがおまえに贈るくらいは」 面倒でもそれくらい許してよと言ったのに妙にきまじめな顔をして塔矢はきっぱりとおれに言った。 「ダメだ、贈るのも無し、贈られるのも無し」 今年は絶対にそうしたいんだと、塔矢が一度こうと決めたら絶対に揺るがないのはわかっていた のでおれはため息をつきながら頷いた。 「いいよ、おまえがそんなに言うんならそれでいい。………で、出来れば一応その理由を聞かせて 貰えたら嬉しいんだけどな」 「理由なんてそんなの―」 キミに言う必要は無いよと、これもまた非道くそっけない声音だったのでおれは少しばかり怖くなっ た。こいつ、もしかしておれから気持ちが離れて来ているのではないかとそう思ったからだ。 今までおれに引きずられるようにして『好きだ』と、そういう関係になってしまったけれど、年と共に やはりそれが苦痛になって来たのかもしれない。 (おれもそうだけど、塔矢は元々ノーマルだもんな) 決して恋愛対象として男が好きなわけでは無いのだ。 だから――。 だから例えばそれが他愛の無い、子どもっぽい行為であったとしても愛を告げるイベントを男の おれとはしたく無くなったのかもしれなかった。 もしかしたらこれが別れに向かう第一歩なのかもしれないと思うと心なし顔から血の気が引いた。 (塔矢がおれを捨てる?) おれを捨てて誰か知らない女を好きになる。 それはちょっと試しに考えただけでも耐えきれない程の苦痛だったけれど、もし塔矢がそれを望 むのだとしたらおれにはそれを止められない。 「…なんだよ、ちょっとかなり辛いぞ、それ」 まだそうとは限らないけれど、はっきりと口に出して別れを告げられるシーンまで想像してしまっ たおれは、いつもなら楽しみでたまらない2月が来るのが恐ろしくてたまらなかった。 そして、慌ただしく毎日を過ごしている内に節分も終わり、はたと気がつけば2月14日になって いた。 毎年のことだけれど、おれだけではなく棋士には全国のあちこちから郵送でチョコが届いていて、 おれもそれを手合いが終わった後に紙袋に入れて渡された。 「進藤くんは今年も多いねぇ」 「…はは、全部義理ですけどね」 でも当分菓子には困らないかなと言うのに職員の人が笑いながら言った。 「確かに、毎年毎年増えて行くしね。後何年か経ったら菓子屋が開けるんじゃない?」 苦笑するおれの横で、気がつけばおれよりも遙かに多いチョコを持った塔矢がおれの貰った紙袋 をにこりともせずに見つめていた。 「……おまえも今終わったん?」 「うん、さっき。相手の方が検討は無しにというのでいつもよりずっと早く終わったんだ」 「おれも、なんか約束があるとかで相手のヤツさっさと帰っちまった」 バレンタインだからクリスマスと同じで、それっぽい相手のいるヤツはみんなその相手との約束の ために早々に帰ってしまうのだ。 (おれも去年までは塔矢とデートだったのに) 今年はその誘いすらもきっぱりと断られてしまった。内心のしょんぼりを顔に出すまいと努力しつつ 踵を返す。 「じゃあ、おれもう帰るから」 またなと言いかけたおれに塔矢が「待って」と声をかけて来た。 「ぼくももう帰る。どうせ同じ駅なんだから一緒に帰ろう」 「あ……ああ、いいけど」 一瞬おれはぱっと明るい気分になった。 あんなふうに冷たい言葉を告げたけれど、実はそれはサプライズのための嘘で、おれのために、 ちゃんとチョコを用意していたのではないかとそう思ったからだ。 けれど帯坂を下り、駅に着くまで塔矢はチョコのチの字も言わなかったし、改札に入ったらあっさ りとおれに手を振ったのだった。 「キミは下りだったよね」 ぼくは上りだからとわざわざ言わないでもわかっていることをだめ押しのように言って、「さよなら」 と階段を下りて行ってしまった。 (なんだよ、だったら別に一緒に帰らなくても良かったじゃんか) 残されたおれはやるせない気持ちで一杯だった。 塔矢はやはりおれにチョコをくれなかった。 恋人同士の特別な日に共に過ごすことすら嫌がった。 「もうこれは………決定かなあ」 ガサリと音をたてて紙袋を持ち直して、おれはゆっくりと階段を下りた。 目の前にはちょうど下りの電車が滑り込んで来た所で、一瞬その前に持っている紙袋を投げ捨て てやろうかと思ってしまった。 (でも…物に当たったって…) 気分が晴れるわけも無いない。 振り上げても下ろすことが出来なかったその腕の前で黄色い電車がゆっくりと止る。けれどドアが 開いてもおれはそれに乗る気にもなれずに、空いていたベンチに腰を下ろした。 目の前には釣り堀があって、もうこんな薄暗い時間だと言うのに何人もの人影が釣り糸を垂らして いるのがよく見えた。 「なんで…どうしてあいつ、いきなりあんなことを言ったんだろう」 『約束をしよう』 『今年のバレンタインには互いにチョコを贈り合わないって』 塔矢の真意がわからなくて、でも考えるとどうしてもおれのことを嫌いになったからだとしか理由が 思い浮かばない。 「おれ…どこかで下手打ったかなあ……………」 考えればそれかと思わないでも無いことが確かに過ごした中にはある。 でもそれが決定打でいきなり別れを告げられるとはどうしてもおれには思えない。 つらつらと、つらつらと目の前の釣り人を眺めながら何回電車を見送っただろうか、ふと気がつく と隣が空いて、入れ替わるように座る細い人影があった。 「面白い?」 「――――――と」 かなり前に上りと下りで改札で別れ、さっさと上り電車に乗って帰ったはずの塔矢が別れた時のま まの格好で紙袋を置いておれの隣に座ったのだった。 「おまえ、もう帰ったんじゃ」 「もう何時間も見てるけど、釣りをしている人を眺めるのはそんなに面白いのか?」 「いや―――」 面白いわけが無い。そもそもそんなもの目には映っていても見てはいなかった。 「ぼくはね、反対側のホームからずっと今までキミを見てた」 「ええっ?」 「ホームでキミがぼくを見るかなと思って見ていたんだけど、キミは一度もこちらを見なかったね」 「それはだっておまえ駆け下りて行ったし、ちょうど電車も来ていたみたいだったからそれに乗った ものと思って―」 「乗らなかったよ、乗らないでキミがぼくを見るのを待ってた」 でもいつまで経ってもキミはぼくを見ないし、帰るわけでも無く何時間も目の前の釣り堀なんか見 ているものだから悔しくなってとうとう来てしまったと、怒ったような口調で言われておれは呆気に とられてしまった。 「…おれがおまえを見なかったからって、なんでそれでおまえが怒るん?」 「ぼくはキミにチョコはいらないって言った。でも今日手合いが終わった後にどこにも行かないとは 言っていない」 キミとの時間を持たずに帰るとは一言も言っていないよと言われて「え」と思わず声が出てしまった 。 「だっておまえ、チョコはいらないって言った時に、おれが『じゃあ代わりにデートしよう』って言ったら 嫌だって言ったじゃんか」 「チョコはいらない。デートもしない。でもキミと一緒に居たくないとは言わなかった!」 「はぁ?????」 さっぱりわからなくて困惑した表情のままでおれは塔矢を見つめてしまい、塔矢はそんなおれに悔 しそうに唇を噛んだ。 「チョコレートに………繋がれるなんて言うのは嫌なんだ」 やがてぽつりと小さな声で塔矢が言った。 「イベントの日に、いかにも『恋人同士』みたいなことをするのはぼくは嫌だ」 「……なんで?」 「だって…」 まるで普通の恋人同士を一生懸命真似ているようなそんな気分になってしまうからと、言われてお れは少なからずショックを受けた。 「…おまえ、ずっとそんな風に思ってたん?」 「だってぼくたちは『普通』じゃないじゃないか。でもキミは誕生日も、クリスマスも、バレンタインもホ ワイトデーも」 どれも普通の男女の恋人同士のようにやりたがるからぼくはなんだか不安になって来てしまったの だと。 「なんで? なんでそんなに嫌なん? おれは別に『普通』の真似をしてたつもりは無いぜ?」 おまえが好きだから、だから特別な日には一緒に居たかっただけなのにとおれの言葉に塔矢は苦 笑のような笑みを見せた。 「だったら別に他の日でもいいじゃないか」 遊びに行く、ホテルに泊まる、いつもより豪華な食事に行く。それらを別にイベントに合わせる必要 は無いと。 「ぼくはキミと居られればいい。キミさえ居てくれればそれがいつでもぼくにとっては特別な日だから …」 なのにキミはイベントごとが大好きで一生懸命やりたがるからとため息をつかれて口が尖った。 「…いいじゃん。おれそーゆーの好きなんだから」 「わかってる」 わかっているからずっと付き合って来たけれど、そろそろそれを終わりにしないかと言われておれ は尖ったままの口でなんとか言った。 「それ、遠回しに別れようって言ってんの?」 「まさか! どこをどう曲解したらそうなるんだ」 「だっておれとそういうイベントごとはやりたく無いんだろう?」 逆を言えばおれじゃなくて相手が女だったらしてもいいってことになるじゃないかと言ったおれの言 葉に塔矢は笑った。 「そうだね、そういう意味にもとれてしまうね」 「それにおれ、やっぱりイベントって好きだから、例えおまえが嫌でも真似ごとだと感じてしまうんだ としてもやっぱりやりたい」 「そうか…」 交渉決裂だなと塔矢は言った。 「ぼくはイベントごとをやめにしたい」 「おれはそういうことをやめにしたくない」 「でも……」 キミはぼくを好きで、ぼくはキミを好きなんだよねとぽつりと何気にスゴイことを塔矢は言った。 「だったら仕方無いかな」 「やっぱ………別れる?」 「だからどうしてそうネガティブな方に行くんだろう」 そんなことはそれこそ一言だって言っていないだろうと言って、塔矢はいきなりガタっと勢いよくベン チから立ち上がった。 「何?」 「また…電車が来るみたいだから乗ろうかと思って」 「おまえ逆じゃん」 言ったおれの頭をぺちりと軽く塔矢は叩いた。 「キミも行くんだよ。いつまでもこんな所で釣り人を眺めていても仕方ないだろう」 大体あそこだってそろそろ閉まる時間だよと言われてみればさっきまでまばらに居た人影は釣り堀 には見あたらなくなっていた。 「…何時間も向こうからキミを見ていて、ずっと腹を立てながら見ていて」 話す塔矢の声に駅員のアナウンスの声が被さる。 『間もなく下り電車がホームに入ります――』 「どうしてぼくを見ないんだとか、どうしてそんなにありきたりなことをやりたがるんだとかずっと思 っていて」 『―――白線の後ろまでお下がりください』 ごうっと電車の入って来た勢いで風がおれと塔矢の髪をなびかせる。 「でもそのうちなんだか非道く寂しい気持ちになった」 「え?」 「キミはずっと釣り堀ばかり見ている。ぼくはキミのそんな姿ばかり見ている。なのに回りに居る人 達はみんな幸せそうに笑い合う恋人同士ばかりだったから」 無性に切なくなってしまったのだと、言って塔矢はおれの手を引いた。 「乗ろう? すっかり体が冷えてしまったからキミの部屋に行って温まりたい」 「いいん? おまえ明日は仕事は?」 引っ張られるようにして電車に乗ったおれの後ろでアナウンスが響く。 『駆け込み乗車はおやめください』 「いいに決まっているだろう。最初から明日は仕事を入れていない」 キミと過ごすためにねと塔矢が言った瞬間電車のドアが背後で閉まった。 『――発車します』 呆気にとられた気持ちのまま、しばらく流れて行く窓の風景を二人で見つめた。 「仕方ないよね」 やがてまたぽつりと塔矢が言う。 「キミとぼくの考え方が違っていてもそれは当たり前だし、相容れなくても仕方が無い」 「それがさっきの『仕方が無い』?」 「うん。意見が食い違うのだったら方法は一つしか無いからね」 別れるか折れるか、その二つに一つしか無い。 「だから折れようかと思って―」 「へ?」 「よりキミを好きなぼくの方が折れるべきだってさっき思って」 だからキミの所に来たんだよと相変わらずこいつはすごいことをさらりと言うなと思った。 「ぼくはやっぱりイベントごとは好きじゃない。でも試しにやらないで見たらキミがあんまり寂しそうだ ったから」 「って本当は結局自分も寂しかったからだろう!」 長い、長い時間しょぼくれた姿を見つめられていたのだと思うと今更ながらに恥ずかしい。 「そんなことは―――」 塔矢が言いかけた所で電車は次の駅に着き、ドアが開いて人がどっと乗り込んで来た。 半分は会社員、その半分は学生で、でもその残りはどこからどう見てもベタベタなカップルばかりだ った。 幸せそうに笑い、腕を組んで体をすり寄せる。そんな姿を無言で見た後、塔矢はぽつりと小さな声 で言った。 「そんなことは――ある…かもしれない」 「なんだよ、おまえそこもっと大きな声で聞かせろよ!」 思わずがしっと両肩を掴み、掴んだと同時に二人揃ってあることに気がついた。 「あ――――――――」 「チョコを忘れ―――――」 話の方に集中していたので、おれも塔矢も座っていたベンチの横に棋院で渡されたバレンタインの チョコを紙袋ごと置いて来てしまったのだ。 「どーしよう…」 「取りに戻る?」 自分のせいだという頭があるんだろう、塔矢がおれの顔色を見るように言う。 「キミ、当分菓子に困らないって喜んでいたしね」 「言ってねぇ!」 いや、言ったかもしれないけど社交辞令だと怒鳴った声にくすくすと塔矢は笑った。 「いいじゃないか。チョコレートは美味しいし栄養もある。買えばあれで結構な値段がするものだし 何より贈った人の気持ちもこもっている」 次の駅で降りて取りに行こうかと言われておれは一瞬じっと塔矢を見つめた。 「…いいよ? もう。さっき言ったようにぼくは折れることにしたから」 それにつまらないぼくの意地で、キミがチョコを全く食べられないのはあまりにも可哀想だしねと、 言いながらドアの方に向かう塔矢の手を咄嗟におれはしっかりと握った。 「――いい」 「え?」 非道く驚いた顔で塔矢がおれを振り返った。 「少なくとも今年はいい」 「だってキミ―」 「おれも折れることにした」 確かにおまえが居ればいつだって特別だし、だったらチョコなんか一つもいらないと言うおれの顔を 今度は塔矢がじっと見つめた。 「いいの?」 「うん、おれはもう充分恵まれているから必要無いってわかったし」 「…何に?」 「愛!」 言いながらぎゅっと手を強く握りしめたら塔矢はゆっくりと頬を赤く染めた。 「なんて…恥知らずな」 「うん」 でも間違っていないだろうとおれが言ったら、塔矢は何も言わずただ静かに頬の赤味だけを増し た。 『次の駅で快速電車の通過を待ちます―』 アナウンスが流れ、ホームに滑り込んだ電車のドアが再び開いた。 下りて行く人の波と乗り込んで来る人の波。 2分ほど電車はそこに止まっていたけれど、おれ達はしっかりと手を繋いだまま下りることは無か った。 そしてゆっくりと再び動き出した電車に揺られ、市ヶ谷にたくさんのチョコを置き去りにしたまま、お れ達は仲良く二人でおれの家へと向かったのだった。 |