溢れる程たくさん
何をあげたらいいのか想像もつかない。 アキラは洋菓子店の前に佇むと、ショーウインドー越しに中をのぞき込んだ。 ケーキやクッキーの並ぶ明るい店内はあちこちにホワイトデーの文字が踊り、それらしいラ ッピングのクッキーやマシュマロなどが置かれている。 (でもあれでいいんだろうか?) 確かにあれは間違い無くホワイトデー用の品物であるけれど、たぶん大体はチョコレートを 貰った男性がくれた女性にあげるもので、男同士でやり取りする物として正しいのかどうか がわからない。 「あの…何かお探しですか?」 あまりにも長い間張り付いていたせいだろう、見かねた店員がドアを開けアキラに声をかけ た。 「どうぞ? あ、もしかしてホワイトデーのお返しをお探しですか?」 「あ……いえ、違うんです。すみません」 言って慌ててその場を立ち去る。 (どうしてぼくがこんな…) こんな面倒臭いことをしなければならないのだろうか? そもそもアキラが菓子店の前で悩むことになったのは、バレンタインデーに進藤ヒカルにチ ョコレートを渡されたからだった。 「…え?」 一瞬わけがわからずにきょとんとするアキラにヒカルは怒ったような顔で無理矢理チョコを 押しつけると、「それ、義理じゃないからな!」と言って走り去って行った。 残されたアキラはあまりの剣幕に一瞬自分は喧嘩を売られたのだろうかと思った。 けれど胸に自分が抱いているのは間違い無くチョコレートであり、今日が何の日かもアキラ はちゃんとわかっていた。 「バレンタインに……進藤……」 何故と、その文字が溢れんばかりに頭に浮かび、それから次に「友チョコ」というヤツだろう かと思った。 最近は男女の愛の告白では無くて女性が友人同士で贈り合いすることも多いという。いくら 世間に疎いアキラでもそのくらいのことは知っていた。 「そうか…お中元かお歳暮みたいなものかな」 まさか男同士で愛の告白とは夢にも思わず、アキラはそうのんびりと結論づけると自分もヒ カルのためにチョコレートを買って来た。そして折角だからとヒカルの家を訪ねると、「はい」 と手渡したのだった。 その瞬間のヒカルの顔をアキラは今も忘れない。 「え? なんで?」 そんな速攻で断ってくる???と泣きそうな顔で言うのでわけがわからず、アキラは狼狽え ると「キミに貰ったお返しのつもりだったんだけど」と言った。 「……え? ああ、なんだ。そうか」 どうやらヒカルはアキラに自分のあげたチョコレートを突っ返されたと思ったらしくそれでショ ックを受けたらしいのだ。 「ありがとう。こういうの貰ったことが無かったから嬉しかった。ぼくからのも受け取って貰え るかな?」 アキラは本当に素直に『お返し』のつもりでチョコレートを差し出した。けれどヒカルは今度 は別の意味で困惑したような顔になってチョコを押し返して来たのである。 「ちょっ…ちょっと待てよおまえ。これどういうつもりでくれている?」 「キミが昼間くれたチョコレートのお返し」 友チョコって言うんだろう? とにっこりと答えたらヒカルはがっくりと項垂れてしまったので ある。 「っちゃーっ、おまえ鈍いとは思ってたけど、そこまでかよ」 「なんだ、非道い言いようだな。キミの好意を無にしないように今日中に渡しに来たって言う のに」 「今日くれちゃダメなんだよ〜。百歩譲って今日くれたとしても、おまえ全然意味がわかって ねーんだもん」 昼間あげたアレは友チョコなんかじゃないとヒカルはゆっくりと噛んで含めるようにアキラに 言った。 「もう、人がなんのために死ぬ思いで『義理じゃない』って言ったと思っているんだよ」 「え? だから義理じゃなくて、日頃お世話になっているお礼とかそういう意味かと」 「なんでおまえにそういう礼をしなくちゃいけないんだっての! おれは、だから…」 「だから?」 じっと無心に見つめるアキラにヒカルは歯を食いしばりながらゆっくりと顔の色を赤く染めて 行った。 「もう…信じられねーくらい鈍い。碁だったら二手、三手先まで読むくせに」 「さっきから何をわけがわからないことを言っているんだキミは」 「わけがわからねーのはおまえの方だって! おれがおまえにあげたのは義理でも礼でも なんでもなくて…その…おまえが…」 おまえが好きだからに決まってんじゃんと、一瞬倒れるのでは無いかと思うくらい真っ赤に なったヒカルは、それからふうと息を吐いて苦笑のように笑った。 「仕方ないか。おまえだもんな。こんないきなり言われたってそりゃわからないよな」 確かにアキラにはわからなかった。そして言われても尚、ちゃんと理解出来ていない。 それをアキラ本人よりもヒカルの方がよくわかっているようだった。 「だからまあ、もし吐く程嫌だったらあのチョコは捨てちゃっていい。おれのこともシカトして もいい。でもそうじゃないなら…」 もし少しでも考えてくれる余地があるなら来月までに考えていてくれと言われてアキラは3月 14日を思った。 「…ホワイトデー?」 「そ。そん時に答えを教えて」 おれのこと好きか嫌いかそれだけでいいよとそしてそのままヒカルはアキラのチョコを受け 取らずに家の中に入ってしまったのである。 そして一ヶ月。 アキラはアキラなりに悩んだ。 最初のショックが治り、ゆっくりと言われたことと事態が飲み込めた時にはかなり動揺した ものの、答は意外にもすんなり出ていたからだ。 (ぼくは彼が嫌いじゃない) 好きだ――と、言葉に出して言われたことによって、今まで考えたことも無かった自分の相 手に対する気持ちをアキラははっきりと自覚したのである。 『ホワイトデーに答えを教えて』 好きか嫌いかだけでいいとヒカルは言った。でもそれは言う程簡単では無いとアキラは思う 。 (少なくとも断るわけじゃないのに手ぶらで行くわけにはいかない) しかもこっちも本気の『お返し』だとわかるものにしなければいけないのだと思った時にアキ ラは正直、ヒカルに告白されたことよりも困惑した。 何しろ今まで一度だってホワイトデーのお返しを――本気のお返しをあげたことが無かった からである。 「市河さん達にはクッキーをあげていたけれど…」 それは詰め合わせで碁会所の皆で…という感じだったので個人的な贈り物では無い。 よく考えてみたら自分は誕生日などでも人に物をあげたことが無かったと遅まきながらアキ ラは気がついたのである。 (なのにいきなり本気の『お返し』をしろだなんてハードルが高すぎる) 雑誌も買った、テレビも見た。人の意見ももちろん聞いた。 でもそのほとんどが大して役には立たないものだった。 『え?ホワイトデーのお返し? 下着だけはやめておいた方がいいよ』 『クッキーとかマシュマロでいいんじゃないの?』 『基本三倍返しって言うけどな、女は高けりゃ高い程喜ぶぞ』 いえ贈る相手は男なんです。しかもぼくに好きだと告白してくれた人なんですと何度アキラ は言葉に出して言いたくなったことか。 どなたか男性への本気のお返しを知っている方はいませんかと聞けたならどんなに楽だっ ただろう。 そして結局当日まで選ぶことが出来ないで、アキラは洋菓子店の前をうろうろするはめにな ってしまったのだった。 (今日は5時に碁会所で会う約束をしている。その前までに用意出来れば) けれど焦れば焦る程わけがわからなくなってしまう。 「どうしよう―――」 10件目の洋菓子店の前で店員に声をかけられて逃げ出したアキラは、ほとほと困って街 の真ん中で立ちつくしてしまった。 「どうしよう…何を贈ったらいいのかわからない」 無情にも時間は5時になろうとしている。もう行かなければヒカルはアキラが来ないことを返 事と勘違いして帰りかねない。 「もう……、もう、もう、もう…」 (なんでもいい!) アキラは踵を返すと人混みを分けるようにしてヒカルの待つ碁会所に走ったのだった。 「あら、アキラくん遅かったのねぇ」 ドアをくぐった途端、市河さんの声が降り、アキラは自分が間に合わなかったのかと思って しまった。 「進藤くん、ずっとあっちで待っているわよ」 なんだか今日は随分そわそわして落着かないけれど、また喧嘩でもしたの? という言葉 に曖昧に笑う。 「ごめん―遅れて」 「遅いよおまえ、今日はもう来ないのかと思ったじゃん!」 「来ないはず無いだろう。キミに…返事をしていないのに」 ぼくはそこまで非道い人間じゃないと、走って来たので上がる息で言うとヒカルは拗ねたよ うな顔から一転真面目な顔になった。 「そ、そうだよな。ごめん」 そしてアキラに座るよう促す。 「まあ、座れよ。なんかおまえ汗だくだし」 「ずっと…走って来た…から」 それでもこんなに遅くなってしまってごめんなさいとぺこりと頭を下げるアキラにヒカルは明 らかに狼狽えた。 「いや、いいって、いい。ごめん。おれだってそんな早く来たわけじゃないから」 「うん。でも…早く返事を聞きたかっただろうなって」 だからごめんと重ねて言われてヒカルは神妙な顔になった。 「ぼくの返事は………」 瞬間、ぴんとヒカルが背筋を伸ばし二人の間には緊張が漂った。 「ぼくのキミへの返事は色々考えたんだけど…」 「うん」 「これ…でいいかな」 「え?」 ゆっくりと自分を指さすアキラにヒカルはきょとんとその顔を見つめた。 「これって…何が?」 「キミはチョコレートに気持ちを託してぼくに贈ってくれた。だったらぼくも今日、キミにぼくの 気持ちをこめて返さなくちゃって思ったんだ。でもどうしても贈る物が思いつかなくて…」 考えた末にこれにしたのだとアキラが指しているのが『アキラ自身』だとヒカルが理解するま でには結構な時間がかかった。 「え………嘘。マジ…で?」 マジでおまえをおれにくれんの? とうわずる声でヒカルが尋ねる。 「もしキミがクッキーやマシュマロの方がいいんだったら今すぐ買ってくるけど」 「いや、いい! そんなもんいらないって!」 おまえを貰えるのに菓子なんか一つもいらないと、ヒカルの言葉にアキラはほっとしたよう な笑みを見せた。 「良かった。いらないって言われたらどうしようかと思った」 「いっ、そんなこと言うわけ無いじゃん!」 「でも人に聞いたら相場は三倍返しだって言うし、もしかしたらキミは物で貰いたがっている かもしれないし」 でもキミが喜ぶと思うものをどうしても見つけられなかったのだとアキラは言った。 「そしてぼくのキミへの気持ちに相当する物も見つけられなかった。だってそんな買えるよう なものでは無いから…」 それくらいぼくはキミのことが好きだよと微笑まれてヒカルは染めたように真っ赤になった。 「う…嘘みてぇ」 「なんで? ぼくがキミを好きだと言ったら何かおかしいか?」 「だって…おれはおまえのこと好きだったけど、でもおまえがおれなんかを好きだなんて… そんな」 そんな夢みたいなことあったらいいなとは思ったけれど、現実になるとは思わなかったと。 「…なんだ、良かった」 「ん?」 「ぼくのことを鈍いと言ったけれど、キミも相当鈍いじゃないか」 キミとぼくは結構似ているのかもしれないねとアキラの微笑みはとどめとなり、ヒカルはもう 何も言えなくなって目の前のアキラの手をぎゅっと握りしめた。 「じゃ…」 「うん」 「マジで貰うから…」 「うん」 「後でやっぱダメとか絶対に言うなよ?」 「言わないよ」 「こんな物しかあげられなくて本当に申し訳ないけれど…」 「そんなこと無いよ!」 最高っ!! とヒカルは真っ赤な顔のまま言うとそのままぎゅうと握る手に力を込めた。 「こ、これからよろしく」 「うん、ふつつか者ですが―」 まるで結婚するみたいだとぎこちなく笑い合い、その言葉にアキラも赤くなった。 甘い。 キャンディーよりもクッキーよりもマシュマロよりも甘いとろけるような空気。 アキラは火照ったような顔に微笑みを浮かべると、生まれて初めて碁会所で一局も打たず 、ただヒカルと手を握り見つめ合ったまま幸せな時間を過ごしたのだった。 |