海の日
海の日に海に行きたいというのが進藤の密かな野望だったようなのだけれど、なかなかどうして
思い通りに世の中はいかない。
当日ぼく達は二人揃って桑原先生のお宅に呼ばれ、日がな一日打っては合間に雑用を頼まれる
ということをしているうちにあっという間に夕方になってしまった。
「今日はおぬしらが来てくれて助かったわい」
帰り際、貰い物だという和菓子と果物のお裾分けをどっさりと持たされて、また今度手の足りない
時にはよろしく頼むと言われたので、今日呼ばれたのは打つことよりも雑用を手伝わせるのが目
的だったのだなとわかったけれど、でも不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「はい、ぜひ呼んでください」
休日を潰されてふて腐れるはずの進藤がおべっかで無く言うくらい、桑原先生と打つのは勉強に
なるし、楽しいからだ。
齢九十になろうというこの老人は辛辣で毒舌家でもあったけれど、その碁に僅かの衰えも見えず、
又、常に人生を楽しみ生き生きとしている。
そんな空気が側に居ると伝わって、どんなキツいことを言われても、だからそれで腹が立つという
ことが無いのだ。
「なんか…随分貰っちゃったなあ」
帰りの電車の中、ガサガサと音をたてる紙袋を見下ろして苦笑しながら進藤が言う。
「キミは甘い物も果物も好きだって知ってらっしゃるからね、だからたくさんくださったのだと思うよ」
「それにしてもちょっとくれ過ぎなんじゃないか? 一応おれら『一人暮らし』のはずなんだぜ?」
ぼくと進藤は表向きまだそれぞれに一人暮らしをしていることになっている。でもその実ほとんど彼
がぼくの部屋に入り浸っていて、今では同居していると言っていいくらいになっているのだ。
「…ご存知なんじゃないかな。桑原先生はとても勘の鋭い方だから」
「それって、おれらのこともバレてるってこと?」
友人としてでは無く、恋人として側に居る。そのこともわかってしまっているのだろうかと進藤は問う
ているのだ。
「さあ…そこまではわからないけれど…」
悟っていてもおかしくはないなとそう思う。
「やっばいなあ、桑原センセー意地悪いから、それで盤外戦仕掛けられたらおれ動揺しちゃうかも」
「そんなことはしないよ、桑原先生は」
「そうかな?」
「うん――たぶん」
それよりも、どちらかと言えば何故今日呼ばれたのだろうかとその方が気に掛かる。
雑用をこなす若い手が必要だったのはわかるけれど、何もそれはぼく達で無くても良かったはずだ
からだ。
「キミ…もしかして桑原先生に海に行きたいと思っていたことを話したんじゃないか?」
「え? いや、別に」
言ってそれからふいに口を噤む。
「…………っちゃーっ。言ったかも」
うん、言ったよと進藤が額に手を当てる。
なかなか休みが合わないけれど、今度は久しぶりにぼくと休みが重なると。
だから海に行きたいのだと言うことまでバカ正直に進藤は桑原先生に話したらしい。
「でもそれ、一ヶ月も前の話だぜ?」
「それでも覚えていらしたんだろう」
覚えていて、わざわざその日の早朝に電話をかけてぼく達を呼び出した。
「確かにちょっと意地が悪いかもしれないね」
「底意地悪いよ、あのクソジジイ」
でも、そうだろうか、果たしてそれだけのためにこんなことをしたのだろうか?
「…戒め…かもしれないね」
考えてぽつりと思う。
「え?」
「関係を人に悟られてしまうようなことを安易に口にするなって言う戒めと、それからこれから苦労が
多いぞって言う戒め」
人と違う道を選ぶことは苦労と苦痛が伴って、何一つ思い通りにはならないと、あのご老体はぼく達
にそれを教えたかったのではないだろうか。
「だったら直接口で言ってくれればいいじゃん」
「そこは、桑原先生の性格なんじゃないかな」
楽しみにしていた休日を潰されて悔しがる進藤を間近で見ていたかったのかもしれない。
悔しがり、不満を覚えつつも目上の相手への尊敬からそれを押し殺して平静を装う進藤とぼくを見て
楽しんでいたのかもしれなかった。
「やっぱ…性格悪い」
「いいじゃないか、おみやげもたくさん頂いたんだし」
何より今日一日は打つ上でとても勉強になった。
体力が続かないということで桑原先生は研究会の類はここ数年、全く開いては来なかったのだから。
「でもさぁ、ちょっとさあ…」
やっぱ少し悔しいと進藤がぼやいた時だった。
電車が駅に止まり、ドアが開くと同時に人がたくさん乗り込んで来た。
駆け込んで来たのは子ども達で、目の前を通り過ぎた途端、潮臭さがつんと鼻を突いた。
「え…海?」
進藤が驚いたように目で追う。
遅れて入って来た親達はいかにも海帰りと言う風情の重たげな荷物を両手にぶら下げていた。
「逗子の方からの乗換え駅だから…」
みんな海に行って帰って来た所なんだろうねと言いながら海の香りのする人達をそっと見やる。
日に焼けた肌と潮の香り。
何よりも楽しそうな笑顔と笑い声が強く海を感じさせた。そしてそれは進藤も同じだったようで、し
ばらく黙った後でうめくように言った。
「…これもわかっていて呼んだんだと思うか?」
「さあ、どうだろう。でもどういう経路で来るのかは知ってらっしゃるはずだから」
わかっていて呼んだのだろうとそう思う。
けれどそれは最後のダメ押しの意地悪では無くて、埋め合わせではないかとぼくは思った。
休日を潰して悪かったと、人の悪い思惑の埋め合わせに、桑原先生はお情け程度ではあるものの、
海を進藤に感じさせてくれたのかもしれないとぼくは思ったのだった。
「…食えないなあ」
緒方先生がよく悪し様に言っているけど、その気持ちがちょっとわかると言って、でも進藤は笑って
いた。
「ほんと食えない」
あのジーサンには勝てないよなあと。
「…今から乗換えて海に行っても構わないよ」
泳ぐことは叶わないが、寄せる波を眺めることぐらいは出来るだろう。
「いや、いい」
「いいの?」
「うん」
今のおれにはこれくらいでいいのかもしれないやと言って進藤は人に見えないようにそっとぼくの手
を握った。
「海の日に海なんて、そんなガキ臭いことを言ってちゃダメってことなんだろう」
だったらおれはこれでいいと、今感じている海で充分だと言った。
「そうだね、ぼくもこれでいい」
ぼくもまた、今感じている彼の手の温もりだけで充分だとそう思う。
歩く度、地面に落ちる細かい砂。
潮臭い肌と潮臭い空気。
焦げるように熱い夏の日差しの下の海は、とても魅力的だろうけれど、行くのにはたぶんまだ少しだ
け早い。
(もう少し)
ぼくと彼がもっと強くなった後でなければきっと本当には楽しむことは出来ないんだろう。
己の気持ちに恥じること無く堂々と、胸を張って生きられるようになってから行けばいいのだと思いな
がら、ぼくは彼と二人して、夏を存分に味わって来たらしい幸福で平和な家族連れの姿を遠目にじっと
見詰めたのだった。
※桑じいはなんでもお見通し。そして面白いと思っているんでしょう。
若い頃も現在も色々遊んだ人だから、世間の枠には囚われていないんだと思います。むしろ囚われているのは二人の方で、
だからちょっとちょっかい出したくなったんでしょう。
2009.7.20 しょうこ