上巳の節供
清涼殿の東庭、普段は居るはずが無い場所で近衛の姿を見つけた賀茂は思わず
走りより、声をかけようとした。
けれどその近衛が親しげに女房の一人と話をしているのに気が付いて、開きかけ
た口をきゅっと結ぶとそのまま人混みの中に紛れ込んでしまった。
上巳。
年に一度行われるこの歌詠みの会は、位の高い者や都中の文人が招かれて行わ
れる。
(きっと佐為殿に付き添って来たんだな)
目の前の川を流れて行く酒の杯を眺めながら賀茂は思った。
この歌詠みの会は、庭を流れる御溝水に酒を入れた杯を流し、それが自分の前
を過ぎてしまわぬうちに歌を詠まねばならないという決まり事がある。
ずらり並んだ人々を端から順に見て行ったら、やはり中頃に佐為が居て、まごつ
く者も多々居る中、さらりと手の中の紙に歌を書き付けているのを見て、賀茂は
知らず微笑んでいた。
(さすがは佐為殿)
書き付けた歌は後に帝の前で読み上げられ、気に入られた者には褒美が出る。
たぶん佐為殿は褒美を受ける一人になるだろうと賀茂は思い、けれどそれを佐
為殿はきっと困った顔で受け取るのだろうなと思って一人苦笑した。
(囲碁だけで無く、あんなに色々と才があって、なのに表に立つことを嫌がる方は
珍しい)
人を蹴落としてでも前に出て、帝の覚え目出度い身の上になりたいと願う者が多
い中、常に一歩引いた佐為の態度は賀茂にはとても好ましく映った。
(あんな方ばかりならば、都の中の揉め事も少なかろうに)
桃の木の下に立ち、ぼんやりとそんなことを考えていたら肩越しにふいに声をか
けられた。
「なあ、なんでおまえは歌詠みに参加してないん?」
それはさっきから意識して避けて来た近衛の声だったので賀茂は飛び上がらん
ばかりに驚いた。
「近衛っ!」
思わず大きくなりかけた声を必死に押さえて噛み殺す。
「どうしてキミ、こんな所に居るんだ」
「どうしてって、佐為の付き添いで来たんだけどさ、おれみたいな下々のモンは歌
を詠んでる時まで側に居ることは出来ないから」
だからこうして時間を潰していたんだと言われて納得したけれど溜息が出た。
「だからって…いくら清涼殿の中とはいえ、いつどんなことがあるかわからないん
だぞ。佐為殿の付き添いというならば、何かあった時にすぐに動けるような―」
「わかってる。だからさっきまでずっとあっち側に居たってば。でも今やっとおまえ
を見つけたから」
ずーっとおまえのことを探していたのにどこに隠れたのかちっとも姿が見えないか
ら苦労したと言われて賀茂は一瞬嬉しく思ったけれど、同時に来たばかりの頃に
女房と親しげに話していた近衛の姿を思い出してすぐに素っ気ない表情を作った。
「別に…ぼくにだって、ここですることは幾らでもある」
そもそもキミに会えるとも思っていなかったしと言ったら、近衛は即座に「嘘つき」と
言った。
「おまえ、歌詠みが始まるずっと前におれに気付いていたくせにシカトして声をかけ
なかったじゃないか」
「気のせいじゃないか? この人混みだもの、ぼくはキミが居たことになんか全く気
が付いていなかったけれど」
では知っていたのか。知っていてあの時振り返りもしなかったのかと思ったら余計
にむっと腹が立った。
「悪かったね、キミがぼくのことを探しているなんて夢にも思わなかったから」
「また…そういう物言いをする」
近衛は賀茂のつっけんどんな言い方に一瞬眉を顰めたものの、それで怒るような
ことも無く、ただ苦笑したように笑うとそっと賀茂の体を抱きしめたのだった。
「…何をする」
こんな宮中の、しかも人がたくさん居る場所でと大声で怒鳴りたくて、でも歌詠みの
邪魔をしかねなくてそれが出来ない。
「大丈夫だって、みんな歌詠みの方に集中してて、こんな桃の木の陰に隠れてるよ
うなヤツらのことなんか見て無いから」
「でも…キミは見ていたんだろう」
「うん、おまえはきっとこういう所に隠れてるんだろうなって思ってたから」
そういう所を意識して探していたと、自分のことを全てわかっているような物の言い
方が賀茂は非道く癪に障った。
(そもそもなんで誰も知らせないんだ)
賀茂は常日頃、自分の周囲に式神を潜ませている。何者かが近づいて来たならば
それらはすぐに賀茂に注意を促すはずだった。
けれど最近どの式神も、近衛が近づいて来ることを賀茂に知らせることをしない。
それはたぶん、知らせないでいいと賀茂自身が無意識に思ってしまっているからで、
そう思うと賀茂は余計に癪に障って仕方が無いのだ。
「それで…キミは何の用事でぼくを探していたんだって?」
「冷たいなあ、折角一緒に草餅食おうと思って持って来たのに」
「草餅…?」
「あかりに頼んでこっそり貰ったんだ」
これって縁起物なんだろう? だったらそれを一緒に食べたらもっと縁起がいいん
じゃないかと思ってと、あっけらかんと言うのに賀茂は思わず言ってしまった。
「じゃあ、あの時はその話をしていたのか」
「ほら、やっぱり気付いてたじゃん」
してやったりと言う近衛に賀茂は今度こそ本当に耳まで赤く染まってしまった。
「だって…キミ…忙しそうだったし」
「うん、まあ実際ホントに忙しかった。言いくるめて草餅二つ持って来て貰うのに、色
々約束させられたし」
おかげで、かねこの君に歌を詠んで貰って来るように約束させられちまったと、頭を
かきかき苦笑する。
草餅は本来厄よけの供物で、身分の高い者にしか振る舞われることは無い。だから
こその縁起物だし、食べれば厄が払われるとも縁起の良い年になるとも言われて居
るのだ。
「まあ…別におれなんかがやらなくたって、おまえは食べられるんじゃないかと思った
んだけど」
でも、もしかしたら貰えないかもしれないし、だったら少しくらいズルをしたって、おまえ
には縁起のいいモン食って貰いたかったからと、言って近衛は更にぎゅっと賀茂を強
く抱いた。
「…懐に入れているんだろう?」
「ん? 何が?」
「草餅。だったらそんなに強くしたらせっかくの餅が潰れてしまう」
賀茂の声に近衛の腕から力が抜けた。
「おまえって……」
ものっすごく美人で可愛いくせに、そういう所が無粋なんだよなとくすくす笑いながら近
衛は賀茂の耳朶を軽く噛んだ。
「近―」
「しない、しないってば」
言って、ぱっと離れて立つ。
「おまえが嫌がるなら『こういう所』でワルイことはしない」
だからそんなに怖い顔しないでさっさと一緒に草餅食おうぜと、懐に手を突っ込んで無
造作に近衛は草餅を取り出した。
「あ、マズっ…本当にちょっと潰れちゃった」
取り出された草餅は少しひしゃげていびつな形になっている。
「だから言ったじゃないか。なのにキミが聞かないから」
「ごめん…でも、まだ温かいからさ」
きっと美味いぜと言って賀茂の掌に載せる。春の息吹を練り込んだ緑色の餅は本当に
まだ温かく柔らかかった。
「でもこれは…」
「ん?」
これはキミの肌の温もりなんじゃないかと言いかけて、賀茂は言葉を飲み込んだ。
うっかりとそんなことを言ったなら、妙に生々しい返事を貰ってしまいそうな、そんな予感
がしたからだ。
「なんでも無い。食べればいいんだろう? 折角の草餅だ、有難く頂くから歌詠みが終わ
らないうちに食べてしまおう」
もしぼく達が食べているのを誰かが見つけたら、用立ててくれた女房殿にも迷惑がかか
ってしまうかもしれないしと言うのに何故か近衛が苦笑する。
「おまえって本当に―可愛く無いけど、可愛いなあ…」
「それは一体どういう意味―」
言う前に近衛の顔が迫って来て、そっと唇が重なった。
「近衛っ」
賀茂が小声で叱るのに怯まずに再びキスをする。
「あの時―本当はさ、おまえ、おれがあかりと話してるのを見て焼き餅妬いたんだろ?」
だから声をかけないで去って、その後もずっと隠れていたんだろうと言われて思わず睨
む。
「そんなこと…無い!」
「嘘つき。嘘つき賀茂!」
「ぼくは本当に――」
言いながら、でも自分が既に負けてしまっていることを賀茂はとうにわかっていた。
近衛は敏い。
いらない所で敏い。
子どものように真っ直ぐな目で、強引に真実を突いて来る。だから愚かで浅はかな自分
の誤魔化しなど容易に見破ってしまうだろう。
「…焼き餅を妬いていたとぼくが言えば満足か?」
熟れたような赤い顔で悔しそうに賀茂が言う。
「キミと女房殿が親しげに話していたのを見て、焼けるような思いを味わっていたと言え
ばキミはそれで満足か?」
「そういうわけじゃないけど…」
じんわりと目尻に涙を滲ませて言う賀茂に近衛は大きく目を見開いた。
「…ごめん、そんなに嫌だった?」
「嫌なのはキミのそういう所だ」
優しいのか意地が悪いのかわからない所が嫌だと言う言葉に近衛の眉が寄る。
「泣かせてごめん、そんなつもりじゃ無かったんだ」
賀茂は赤い顔をしたまま、黙って涙を袖口で拭った。
「おまえ、いつもおれが誰と居ても何をしてても無反応だから…」
「だからわざと振り向きもしなかったのか?」
そうしておいて今更言う、それは意地悪じゃないのかと言ったら近衛は一瞬口を噤み、
それから真面目な顔で言った。
「もうこんな意地悪絶対にしないから、だから機嫌直して草餅食おう?」
「今更…」
背後では高く歌を詠む声が響く。
もう杯は流れ終わり、皆がそれぞれ自分で詠んだ歌を帝に聞かせる段になっている
のだ。
「…早くしないと歌詠みが終わっちゃう」
「だから?」
「佐為が詠み終わったら、おれ…戻らなくちゃなんないし」
そうしたらもう一緒に食えなくなっちゃうからと言う近衛の声は困惑している。
気が強く滅多なことでは感情すら表に出さない。そんな賀茂を思いがけず泣かせてし
まったことに心底驚き、狼狽えているのだ。
「もしかして…おれのこと嫌いになっちゃった?」
「当たり前だろう」
ばっさりと切って捨てるような言葉に近衛の顔から血の気が引いた。
「嘘だろ? そんなに本気でおれのこと―」
「怒ったよ。だってキミは非道いから…」
人の気持ちを試すようなことをする人間は大嫌いだと言ったら、青ざめた近衛の顔が
くしゃりと歪んだ。
「ごめん、賀茂…どうしたら許してくれる?」
「許さない」
「賀茂…」
しょんぼりとしょげた近衛はうち捨てられた犬のようで、見えない尻尾がしおしおと垂
れ下がってしまっているようだった。
「でも…」
「ん?」
「キミのことは許さないけれど、草餅は好きだから一緒に食べてやってもいい」
「…え?」
きょとんとした目でしばらく賀茂を見詰めた後、ようやく近衛は理解して尋ね返す。
「えーと…」
「だから草餅を一緒に食べてもいいよ」
でもそれは草餅が好きで無駄にしたら勿体無いから食べるだけで、決してキミを許し
たわけでは無いのだからそれは肝に銘じてくれと言う言葉に、近衛の顔色はゆっくり
と元の色に戻って行った。
「うん。うん、わかった! 本当、おまえって…」
言いかけるのに鋭く言う。
「いらないことは言わなくていい!」
泣いた顔を見られたのが恥ずかしい。
つまらないことで焼き餅を妬いたことが恥ずかしい。
けれどそんなことよりも何よりも、この子どもっぽいくせに肝心な所ではちゃんと大人
で狡い男を好きで好きで仕方が無い自分が一番恥ずかしいと賀茂は思った。
「いいからもう食べよう」
聞こえて来るのは佐為の声で、だったらもう一緒にいられる時間は残り少ない。
「わかった。食お――」
言いかけて途切れたのは、賀茂が自分が持っていた草餅を近衛の口元に突き出し
たからだった。
「ほら、早く食べろ」
少し驚いた顔をして、それから近衛は満面の笑みになった。
「じゃあ、おまえも」
そして自分も腕を伸ばし、持っていた草餅を賀茂の口元にそっと近づける。
「ありが―とう」
食べるよと、自分で先にそうしたくせに、照れたように頬を赤く染めて、賀茂は一口餅
を食べた。
それを見届けてから近衛も嬉しそうにかぶりつく。
春の証、瑞々しい青草の香りが二人の鼻をくすぐった。
「…美味しい」
「うん、美味いな」
これで少しは縁起が良くなったかなと言う近衛の言葉に賀茂が素っ気なく「さあね」と
言う。
「でも、そうだね。もしかしたら―」
「もしかしたら?」
(ぼく達の縁は強くなったかもしれない)
そう思い、けれど賀茂はその言葉を飲み込んだ。
「…やっぱり言わない」
「なんだよ、言えよ」
「全部食べ終わったら言ってあげてもいい」
促され、渋々と近衛は二口目を食べる。賀茂もまた一口はくりと食べて、それから
ようやくふわりと微笑んだ。
春。
垂れるような桃の花の下、腕を交差させ互いに餅を食わせ合う。それは決して行儀
の良いことでは無いけれど、くすぐったいような幸せを感じさせる行為だった。
「賀茂」
最後の一口を飲み込んだ時、ちょうど歌を詠む声も止んだ。
「何?」
「もう一度―」
もう一度口づけさせてと言う言葉に賀茂は嫌だとは言わなかった。頬を赤く染めたまま
重ねられる唇を目を閉じて受け止める。
「賀茂の方が美味いな」
「え?」
「やっぱり餅より賀茂の方が百倍美味い」
甘くて柔らかくて美味しいと言うのに、賀茂は短く「うるさい」と返した。
けれどそれでも花の下から出ることはせず、歌詠みが終わったその後も近衛の腕に抱
かれたまま、幸福な上巳の節供を味わい続けたのだった。
※間に合わなかった雛祭り(−−;花の下のイケナイ二人は宴が始まる頃にやっと離れます。
何事も無かったかのようにそれぞれ戻るべき場所に戻るけれど、どちらも花びらまみれだという。
こらこら!という感じです。 2009.3,6 しょうこ