Dog run
「いってらっしゃい」
そう言うつもりが「言っておいで」と言ってしまった時、思わず飼い犬を送り出すようだなと
思ってしまった。
「いってきます」
当の本人である進藤は、ぼくの言葉の違いには気付かずにただ笑って出て行った。
いや、もしかしたら本当は気がついていたのかもしれないが、表情には欠片も出さずに
出て行った。
(進藤はこういう所が怖い)
いつか何も言わず、いつものように笑って出て行って、そのまま戻って来ないのでは無い
かと思わせる何かが潜んでいる。
「あ、夕飯は食べるからおれの分も作っておいて」
明日はおれが作るからさと、行きかけて思い出したように振り返って言うのに、無意識に
ぼくはほっとした。
「いいよ、どうせ今日は休日だし」
久しぶりにのんびりと手の込んだ物でも作っているよと返したら、進藤は目を糸のように
細めた。
「ああ、じゃあおれシチューがいい。白いのじゃなくてビーフシチュー」
あれ、作るのに時間がかかるけど美味いからと、それを作るこっちの手間を考えてくれと
思いながらもそれでもぼくは文句は言わなかった。
「わかった。折角だからいい肉を使って作ってやる」
「やった!」
小躍りせんばかりに喜んで、そして今度こそ出て行った。
振り向きもしない、その背中をしばし見詰めてドアを閉めた。
ずっと閉じこもりきりで過ごしていた5月のその日を進藤が逆に外に出て過ごすようにな
ったのはいつ頃からだっただろうか?
ある時ふと、「おれちょっと出てくる」と言い出した時には非道く驚いたものだった。
「…大丈夫なのか?」
「何が?」
一見無邪気に返す進藤は、それまでずっとカーテンを閉め切り、ぼくの体を抱きしめて
過ごした。
それは毎年繰り返されることで、きっと外には彼にとって耐え難いものがあるのであろうと
そうぼくは理解していた。
だから毎年無理矢理にでもその日は仕事をオフにして、彼の側に居られるようにしてきた
と言うのに、あっさりそのぼくを置いて進藤は一人で外に出て行ってしまったのだった。
釈然としない。
不安も大きかった。
でも夜になったら進藤はごくごく当たり前に帰って来て、でもその日一日、どこで何をして
いたのかは、どんなに水を向けても喋らなかった。
『まあ、いいじゃん、別に』
そんな大したことはしていないし、そんな遠くに行ってたわけでも無いしと、繰り返される言
葉にいつしかぼくも問うことを諦めてしまったのだけれど、でもたぶん彼は『誰か』と一緒に
過ごしているのだろうなと思った。
彼にとって大切な誰か。
そこにぼくが立ち入れないのは非道く痛い事実だったけれど、仕方のないことだと思う自分
もまた同時に存在した。
誰にだって人には踏み込まれたくない何かを持っている。進藤にとっては五月五日がそう
なんだろうと思う。
(それに…)
彼は実際に『誰か』に会っているわけでは無いという気もしたからだ。
思い出と旅に出る。
そんな言葉が彼を見ていると何故か浮かぶ。
直感のようなものだけれど、たぶん外れてはいないだろうとぼくは思った。
(だからと言って心穏やかではいられないんだけれど)
引き籠もっているのと外に出るのでは断然外に出る方がいいだろう。
今まで傷つかずには見られなかったものを受け止められるようになったということなのだか
ら、それは彼にとって喜ばしいことなのだろうとも思う。
(単に嫉妬しているのかもしれないな)
自分の知らない彼の一日。そのほんの僅かな空白に、自分はたまらない程に切なく焼き餅
を焼いているのだと思う。
「ビーフシチューか…」
全く人をなんだと思っているのかと思いながら、それでも約束を違えることをせず、ぼくは出
かけて肉を買った。
普段買うよりずっと高い肉を塊で買って、それからワインと花も買った。
花は白いカサブランカ。
少し派手過ぎるかなと思ったけれど、寂しすぎるよりはいいと思った。
寸胴鍋で肉を炒め、野菜と一緒にゆっくりと煮込む。
その間に部屋を掃除し、洗濯をし、空いた時間は空を見た。
「…今頃どこをほっつき歩いているんだろう」
鎖を外した途端、駆けて行ってしまう。とんだ野良犬を飼ってしまったものだと苦笑しながら
そう思った。
「ただいま」
帰って来た時、進藤はやはりどこに行っていたとも何をしていたとも言わなかったけれど、靴
を脱いで上がった途端、細かい砂がぱらぱらと落ちたので海に行っていたんだなと思った。
「あ、マジで作ってくれたんだ」
匂いで気付いたのだろう、振り返って嬉しそうに言う。
「作るよ。だってキミが作れって言ったんじゃないか」
「作れなんて言って無い、作ってくれたら嬉しいなって思ったんだって」
でも本当に作ってくれたんだなあと妙にしみじみ言うので少し意地の悪い気持ちになった。
「有難いと思うなら、土産の一つでも買って来てくれればいいだろう」
せっかく海まで行ったのにと、口にしてから言わなければ良かったと思った。
案の定、進藤の表情からは笑顔がすっと消え、痛い所を突かれたような顔になった。
「ごめん―」
言ったのはぼくでは無くて進藤だった。
「違う、今のはぼくが悪かった。ごめん」
すぐにぼくは謝った。彼の触れてはいけない所を解っていながら触ったのだから。
「いや、おまえは全然悪く無い」
ごめんなと言って進藤はぼくを抱き寄せた。
「本当はきっと、おれにたくさん聞きたいこと…あるんだと思う」
知りたくて聞きたくて、気が違いそうになるくらい焦れることもあるだろうと進藤はぼくに言う
のだった。
「でもおまえ、聞かないよな。昔からずっとそれだけは聞かない」
他のことはなんでもずけずけ言うくせに、絶対にそれだけはおれにおまえは聞かないのな
と、その声音には切なさが混ざっていた。
「…別に聞きたいわけじゃない」
知りたくないと言えば嘘になるけれど、進藤が望まないことを聞きたいとは思わない。
「話さなくていいんだ、本当に」
ただ帰って来てさえくれればいいと、ぼくがそう言ったら進藤はぎゅうっと強くぼくの体を抱
きしめた。
「帰ってくるって」
「…だったらいいけど」
「だっておれ、おまえの他に帰る場所なんて無いもん」
鎖をじゃらじゃら言わせながら、脱走した犬が戻って来る。そんな絵面が瞬間浮かんだ。
(逃げ出したわけじゃない。ぼくがこの手で離したんだ)
行っておいでと、好きなだけ好きな場所を走り回ってくればいいと、自分のこの手で離して
おいて、どうしてぼくはそれに不安を覚えるのだろう。
「…来年は一緒に行こうか」
耳元に囁くようにして進藤が言った。
「毎年置き去りにしちゃってるけど、来年はさ、おれと一緒に―」
「うん」
それでもきっと来年のその日、キミは一人で行くくせにとそう心の中で思いながら、ぼくは小
さく頷いた。
「―うん」
嘘でも、誤魔化しでもなんでもいい。
言葉だけでもキミがぼくを忘れ無いのなら。
「行くよ…」
五月五日、誰か他の人のことで進藤の全てが占められてしまうその日、片隅にでもちゃんと
ぼくを覚えているのなら、ぼくはキミの鎖を外し、ずっと一人で待ち続けられると、そっと体を
抱き返しながら祈るように思ったのだった。
※どっちが大事とかそういうことでは無いわけで、でもヒカルは結局最後までアキラに言わないような気がします。
アキラはずっと焦れたまま少しだけ片想いのような気持ちで過ごすんだろうな。でもだから焦がれる。そして焦が
れつつも理解もしている。アキラだけが本当に唯一解った人なんだと思う。そしてアキラが解っているからこそ、ヒ
カルは非道い男でいいんだとも思います。2010.5.5 しょうこ