おめでとう



小走りになる歩調と共に心臓の鼓動も大きくなる。

遠く見えていた背中が近づいて、触れられるくらい側に来た時には息が止まりそうになった。

「進藤―」
「ん? なんだ塔矢じゃん」


おはようと、帯坂の上で振り返った進藤はぼくを見るとにっこりと笑った。

「おれより遅いなんて珍しい、もしかして寝坊したん?」
「まさか! キミと一緒にするな。乗換えの駅で電車が止まって」


それで少し遅れてしまったのだと言ったら、ああそう言えばそんなアナウンスが流れていた
っけと思い出したように言う。


「まあ、良かったよな、間に合って。そうで無かったら不戦敗になる所だもんな」
「そんなことにならないように、いつも早めに来ているんだ」


ぽんぽんと投げ合う調子のいい会話。でもぼくはずっと言いたい言葉を喉の奥に飲み込み
続けていた。


「そういえば今日、おまえが打つのって越智だっけ。久しぶりだよな」
「うん―公式で打つのは久しぶりかな」


エレベーターに乗り込んで、それでもまだ本当に言いたいことが言えない。

六階までの上昇はそれこそあっという間で、何度かぱくぱくと口を開いただけでもう着いて
しまった。


「おれは今日、門脇さんなんだ。門脇さんと打つのすげえ久しぶりだから楽しみ」
「あの―進藤」


下りて、歩き出した所でようやく声が出た。

「何?」
「あの…この前借りた百円」


返すよと、気がつけば彼の前に百円玉を乗せた手を差し出している。

「この前、小銭が足りなくて借りただろう、早く返さないと忘れてしまいそうだから」
「なんだ、そんなのいつでもいいのに」


進藤は少し驚いた顔をして、でもすぐにおかしそうに笑った。

「おまえって本当にクソ真面目って言うか律儀だよな」
「借りたものを返すのは当たり前だろう」
「だから貶してるんじゃないって褒めてんの」


おれ、おまえのそういう所好きだよと、なんでも無いことのようにさらりと言われて頬が染
まった。


ああ、悔しい。どうして彼はこんな難しい言葉をこんなにも簡単に言えてしまうんだろうか。

「別に…当たり前なことだし」
「その当たり前なことを出来ないヤツがたくさん居るだろ」


だからおまえのそれは美点だと思うぜと、続く言葉もぼくにとっては致命傷なくらい嬉しい。

「今日もお互いがんばろうな」
「ああ―」


うんと、頷いてぼくは項垂れた。

(言えなかった)

言いたくて、言わなくちゃいけないと思い続けて練習までして来た言葉をどうしても彼に言
えなかった。それがとても情けなかった。



9月20日。

進藤の誕生日の今日、ぼくは彼に告白しようと決めていた。

進藤はいつもぼくに浴びる程『好きだ』と言ってくれる。冗談めかして、時に真面目に、そ
していつの間にかぼく達は付き合っているような状態になっていた。


それなのに、ぼくは今まで一度も彼に『好きだ』と告げたことが無かったのである。

『無理して言わなくていいよ』
『言わなくても顔にかいてあるし』
『本当に嫌だったらおまえ、おれと一緒に居ないもんな』


進藤が言ってくれた言葉に甘えていたせいもある。

何よりもぼくは自分の気持ちを表に出すことが人一倍苦手で下手だったから。

(それでも―)

それでもいつか言わなくちゃと思い続けたぼくが自分に決めたリミットが今日、彼の誕
生日だったのだ。


「いつまでも甘えていちゃダメなんだ」

彼にばかり好きだと言わせていないで、好きならば自分もちゃんと言葉に出してそれを
伝えなければフェアじゃない。


頭では解っているけれど、いざ実行に移すのはそれはもう大変だった。考えるだけで動
悸がしてくるので早くからそれに慣れるよう、家で何度も練習した。


『好きだ』

キミが好きです。ただその一言をどれだけぼくは口にしたことだろう。

そしてやっと迎えた本番。朝一番に言うはずが、結局ぼくは言えなかった。

(黒星だ)

手合いは勝ったけれど、それと同じくらい大切な勝負には挑む前から敗北してしまった。

「検討しますか?」

越智君に言われて、ぼくは反射的に頷いた。

「うん、中盤からの展開で気になる所があったから」

じっくりと検討しようと言いつつも目は遠くの進藤を見る。彼はまだ対局途中で持ち時間
を目一杯使って長考に入っているらしい。


(大丈夫、検討してもまだぼくの方が彼より先に終わる)

だから検討を終えた後、一階で彼を待てばいいと、真剣に石を並べる越智くんには悪か
ったけれど、ぼくはそんなことを考えていたのだった。



小一時間後、一人棋院の一階に降り立ったぼくは自分の間抜けさを罵っていた。

「…まさか検討しないで帰るなんて」

ぼくが越智くんと検討を始めて十分程した所で、思いがけず門脇さんの投了によって、
進藤は早々に中押し勝ちで勝ったのだった。


誕生日に負けなくて良かったと、進藤が負けるなんて思ってもいなかったけれど、それで
も少しほっとして見ていたら、彼らはそのまま立ち上がって洗心の間から去って行ってし
まったのだった。


進藤か、門脇さんかどちらかに約束があったらしくそのために検討はしなかったらしい。

「し――」

進藤と言いかけた言葉を慌てて飲み込んで盤に集中する。

ちらりと彼らの姿を見た越智くんが「そういえば今日は進藤の誕生日だそうですね」とぽ
つりと言った。


「きっとこれからどこかでお祝いでもするのかもしれないですね」

あなたは誘われなかったんですか? と問われて「別に」と答える。

「ぼくはあまり賑やかな場は好きじゃないから」
「そうですか」


それでもまだ何か言いたそうな越智くんの口を塞ぐ意味も兼ねて、ぼくはそれからムキ
になって色々な手を示し、結局いつも以上の時間をかけて検討をしてしまったのだった。


終わった頃にはもう他に誰もいなくなっていて、夕方というよりも夜に近い時間になって
いた。


「それじゃぼくは帰ります」
「お疲れ様」


のろのろと帰り支度をして、エレベーターに乗った頃には本当に棋院の中には人の姿
はほとんど無くて、しんと静まりかえっていた。


「失敗した…」

誰もいないロビーに降り立った時、情けなさのあまり涙がこぼれそうになった。

「あんなに家で練習したのに」

ほんのたったのひとことを彼に伝えることが出来なかった。

「キミが…好き」

ほら、本人を目の前にしなければこんなに簡単に言葉に出来る。

「キミのことが好きです」

ぽつり、ぽつりと呟きながら出口に向かって歩いていたぼくは、途中でふいに立ち止ま
った。


「あの…ごめん」

柱の影に隠れるように、そっと進藤が立っているのに気がついたからだ。

「進藤…どうして…」
「ごめん、本当に! 立ち聞きするつもりなんか無かったんだって! ただ、おまえが遅
いからずっとここで待ってて、そうしたらおまえが―」


聞かれた。

そう悟った瞬間に一瞬で顔が深紅に染まった。

「どうして、キミ、みんなと誕生日を祝っているんじゃ…」

我ながら支離滅裂の言葉に進藤がきょとんとした顔でぼくを見る。

「何それ。おれ別に誰とも約束してねーし。そもそもせっかくの誕生日なんだから」

お前以外に祝って貰う気持ちも無いしと頬を染めながら言われてぼくもまた更に頬が熱
くなるのを感じた。


「ぼくはただ…キミに伝えたくて…どうしても伝えたくて」
「うん」
「今まで一度もちゃんと言ったことが無かったから、今日、キミの誕生日に伝えようって
ずっと―」
「うん…」


嬉しい、すごく嬉しかったと言って進藤はぼくの目の前に立った。そしてどうしていいか
わからずに立ち尽くすぼくの手をそっと握ると耳元に囁いた。


「もう一度だけでいいから言ってくんない?」
「え――」
「今の。もう一度聞きたい」


それだけでもう、おれにとっては百年分の誕生祝いになるからと言われてぼくは口を開
いた。


「好―」

声が震えて上手く出ない。それでも必死に絞り出した。

「キミが…好き」

キミのことが大好きですと、ひとことひとこと、ゆっくりと言ったら進藤は「どうして敬語な
んだよ」と笑って、それから抱きつくようにして本当に嬉しそうにぼくをぎゅっと抱きしめ
たのだった。



※ヒカル誕生日おめでとう。もう24。早いなあ。棋士として脂がのりきっている所でしょうか。
二冠、三冠ぐらい行っているかな?アキラと永遠に幸せにね。2010.9.20