ぼく達はどこまでも




一度だけ学校の授業で泣いたことがある。


元々勉強は嫌いだったし、卒業後は進学しないで棋士として生活すると決めてからは、更に
授業に興味は失せた。


一応席には座っていたし、教科書をめくってはいたけれど頭の中は碁で一杯で、早く帰って
打ちたいなとそんなことばかり考えていた。


その時―。

国語の授業を受けていた時も後どれくらいで帰れるかなと、あくびを噛み殺していたのだけれ
ど、同じ列のヤツが指されたので自分も指されるかもと、慌てて開いていたページに目を落と
した。


そして読んでいるうちに、思いがけずそのまま読みふけってしまったのだった。


『どこまでもどこまでも一緒に行こう』


聞いたことの無い題名の、読んだことも無い話。


『カムパネルラ、またぼく達二人きりになったねえ』


けれど目は文字を追い、気がつけば何度も何度も同じくだりを繰り返して読んでいた。


「進藤くん、進藤くん?」

先生に呼ばれているのにも気がつかずに、後ろの席のヤツに背中をつつかれてようやく我に
返る有様だった。


「進藤くん? 聞こえ無いんですか?」


『ああ、きっと行くよ』


「あ…はい」


『けれどジョバンニがこう言いながらふりかえって見ましたら―』


「進藤くん?」


『―そのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの姿は見えず、ただ黒い
びろうどばかりが広がっていました』



「進藤くんっ!」

苛立ったような声に顔を上げた時、ぼたっと涙が教科書の上に落ちた。

教室中がざわめいて、先生が驚いたようにおれを見詰める。

「スイマセン。おれ…気分悪いんで保健室行って来ます」

早口で言って教室を出る。

「あ、ちょっと進藤くん」

出てからも読んだ文章が頭の中で繰り返されて、どうしようもなく涙がこぼれた。


『どこまでもどこまでも』



おれ達は二人でずっと一緒に行くはずだった。




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読書は嫌いでは無いけれど、物語を楽しむという趣味は無かった。

与えられれば読むし、それが義務ならば取りあえず読む。

そういうスタンスだったので、母親は影ながら溜息をついていたらしいけれど、文字と文字の
間よりも、碁盤の上の碁石の並びの方に物語りを感じるのだから仕方が無い。


その時、その本を読んだのも課題図書で感想文を書かなければならなかったからに過ぎな
い。


面倒臭いなと思いながら、それでもつらつらと文字を目で追って、それから途中で唐突に本
を閉じた。


「あら、アキラさんもう読み終わったの?」

早いわねえと笑われるのに苦笑する。

「いえ、まだ途中です。ちょっと目が疲れたので休もうかと思って」
「そう。あんまり根を詰めて読むのも良く無いものね」


お茶でも煎れましょうかと言われるのを断って自室に戻る。

そして机に向かうと再びそっと本を開いた。

(最初から部屋で読んでいれば良かった)

そう思ったのは、たぶん本を閉じた時、自分が非道い顔をしていただろうと思ったからだ。

何故だか理由は解らない。でも腹が立って腹が立って仕方が無かった。


『どうして僕(ぼく)はこんなにかなしいのだろう』


何にそんなに腹が立つのかわからないし、そんなに非道い話だとも思わない。


『僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない』


なのに文字を追うごとに何故か怒りがこみ上げて、たまらない気持ちになるのだ。


『カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ』


主人公にも腹が立てば、途中で関わって来る少女にも腹が立つ。

関わって来る大人にも腹が立ち、けれど一番怒りを覚えたのは主人公の親友にだった。

たかが作り物の世界ではないかと言われそうではあるけれど、それでも無性に腹が立って
仕方無い。


読み終わっても腹立ちは消えず、苛々とした気持ちで本を開いては、何度も何度も同じくだ
りを繰り返した。



『ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか』


「…ぼくだったら置き去りになんかしない」

気がつくとぽつりと呟いていた。

「ぼくだったら絶対に一人になんかしない」

ずっとずっと一緒に行く、そう思った。



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「あれ? おまえ本なんか読んでるんだ」

待ち合わせたカフェで暇つぶしに文庫本を開いていたら、遅れて来た進藤が物珍しそうにぼく
を見て言った。


「失礼な、ぼくだって本くらい読むよ」
「いや、だっておまえって普段何か読んでいても定石集とか詰碁の本とかじゃん」


だから珍しいと思ってと、何を読んでいるのかと尋ねられてタイトルを見せてやる。途端、進藤
の顔がさっと強ばったように見えた。


「何?」
「…おれ、その本嫌い」


いつも愛想のいい彼には不似合いな硬い声に驚いた。

「キミも本を読んだりするのか」
「おまえも大概失礼なヤツだよな。おれだって本くらい読む時は読むよ」


でもそれは嫌い。だからもう二度と読まないんだとそう言う進藤の表情はどこか思い詰めていて、
見ていてなんだか辛いものがあった。


「おまえは…好きなん?」

黙った後、ぼくの顔を見ながらぽつりと問う。

まるで喧嘩をふっかけて来ているみたいな顔だなと思った。

「いや」

ほとんど反射のように即座に答える。

「…嫌いなんだ、ぼくも」
「へえ、意外」


睨むようだったその顔が、素直に驚いた顔になる。

「おまえ、そういうの好きそうなのに」
「好きなんかじゃない。嫌いだよ」


ふうんと妙にゆっくりと進藤は言った。

「嫌いなのに読むのかよ」
「嫌いだから読むんだ」
「変なヤツ」


呆れるように言って進藤はぼくを促した。

「とにかくもう行こうぜ、早く行かないと打つ時間が無くなっちゃう」
「そっちが遅れて来たくせに随分だな」
「だって道が混んでたんだから仕方無いだろ」


行くのか行かないのか、はっきりしろよと、せっかちに尋ねられて苦笑する。

「行くよ…もちろん」

そしてぼく達は店を出て、雑踏の中を歩き始めた。

夕暮れの少し暗くなった街の中、行き交う人はたくさんで、それこそ星の数程が縦横無尽に
道を行く。


「あーあ、おれ、早く大人になりたいなあ」
「どうして?」
「だってそうしたら、時間なんか気にしないでおまえとゆっくり打てるじゃん」
「…そうだね」



鞄の中の本を思いながら、ぼくは小さく口の中だけで呟いた。

「どこまでもどこまでもぼく達は」


別れること無く、一緒に行くのだ――。




※青い文字の部分は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」からの引用です。カムパネルラは佐為ちゃんだよなあと思うわけです。
どこまでも一緒に行くはずだった人に置いて行かれたジョバンニはその後、どうしたのかな。
2010.12.30 しょうこ