進藤ヒカル誕生祭6参加作品





Birthday




「明日、シゴトが入ったから」

そう告げたら塔矢は驚いたように目を見開いて、「どうして?」とひとこと絞り出すような
声で言った。



「なんか、湯河原に行くはずだったヤツが熱出して寝込んじゃったって話でさぁ」

「そんなこと知っている、ぼくにだって棋院から連絡があった」


そして断ったものをどうしてキミが受けるのだと塔矢はおれを責めているのだった。


「指導碁だけ手伝えばいいみたいだし、朝行って夜には帰って来られるみたいだし」

「だから、そういうことを言ってるんじゃない! どうしてわざわざ自分の誕生日に仕事
なんか引き受けるんだと聞いている」


「んー…誕生日だから?」


そう言った瞬間、ぱあんと部屋に響くような派手な音でおれを殴って塔矢は言った。


「勝手にしろ!」


そして部屋を出て行ってしまった。



塔矢が怒るのも無理は無い。

今までずっとおれ達は互いの誕生日に手合いや仕事の類を入れることを極力避けて
来たのだ。


段位が上がってすれ違うことが多くなって来たので、せめてこの日だけはと、誕生日は
多少無理をしてもオフにするように努めて来た。


一緒に住む前はもちろん。

一緒に住むようになってからは絶対に。

それは塔矢が、と言うよりはおれがそうしたがったからで、なのにこうも易々とおれの方
からそれを破ったので塔矢は怒ったというわけなのだった。






「じゃあ行って来るな」


当日、朝早く出かけるおれに塔矢はとうとうひとことも口をきかなかった。

ただずっと不機嫌そうな顔で見るだけで、何時に帰って来るのかと聞きもしなかった。


「絶対、今日中に帰って来るから」


だから打つ用意だけして待っていてと、そう言ったら少しだけ眉を動かして、でも解った
とも何とも言わなかった。



「ごめんな。それじゃ―」


パタンとドアが閉まる。その直前に小さな声で「馬鹿」と言ったのだけが耳によく響い
た。





その日、おれが行ったのは温泉街で開催された囲碁祭りだった。

平塚などより規模は小さいが歴史があり、かれこれもう数十年行われて居るという。

温泉街全体が会場のようになって、湯治を兼ねて全国から囲碁ファンが集まって来る、
かなり賑わう祭りなのだ。


ずっと以前、まだ十代だった頃に一度だけ手伝いに来たことがあるが、それから後は
機会が無くて訪れたことが無かった。





「うわっ、スゴイですね、これ」


駅前に設えられた百面打ちの会場でおれが言うと、市の役員が誇らしそうに言った。


「ええ、これが目玉ですから」


去年までは五十面打ちだった。それを今年は百面打ちにしたのだと言う。


「老人から幼稚園に通う子どもまで、様々な年齢層の碁打ちが盤の前に座ります」


全てが全て、上手いというわけでは無いが囲碁好きなのは間違い無いと言うその人も
また碁を打つのだと言う。



「じゃあ、始まる前に一局打ちますか?」


社交辞令では無く言ったのに、苦笑したように断られてしまった。


「そんな勿体無い。ここに座るのは抽選で当たった人だけなんですから、その分少しで
も多く打ってあげて下さい」



進藤先生がお相手ならば皆さん喜ばれるでしょうからと、満更お世辞でもなさそうな言
葉に微笑む。



「勿体無くなんか無いですよ。だからもし時間があったら後でぜひおれと打って下さい」


結局、進行その他の雑用が多く、その人と打つことは無かったのだけれど、おれはこ
の日、数え切れない程の人と打って、数え切れない程の人の指導碁をした。


小さな手で石を持つ女の子や、普段カードゲームばっかりやっていそうな小学生や、深
く皺の寄った顔をしたお年寄り。


その全てがおれにとっては大切で、面白い一時だった。

夕方、祭りが終わっても指導碁が終わらず、結局おれは予定していたよりもかなり遅い
時間に帰ることになったのだけれど、それでも欠片も悔いは無かった。






「ただいま」


辛うじて12時を回る前に家に着いたら、塔矢は相変わらず怒った顔をして、でも律儀
におれのことを待っていた。



「用意してある?」

「…後五分遅かったら先に寝てしまうつもりだったけれどね」


言われた通り、ちゃんと待っていたと言われて微笑んだ。


「ありがとう」


そして二人で寝室に行き、ベッドの脇にちょこんと置かれた碁盤の前に正座して座る。


「…キミが握れ」

「うん」


碁笥の蓋を開け、じゃらっと石の感触を楽しんでいると塔矢が硬い声のままで言った。


「…お願いします」

「お願いします」


やがて打った最初の一手。ぱちりと響く石の音に心地よく目を閉じたら塔矢がぼそっと
言った。



「どうして今日、仕事を入れたんだ」

「だから言ったじゃん。誕生日だからって」


置かれた石に反発して石を置くと、すかさず塔矢も石を置いた。

ぱちり、今日一日、ずっと聞き続けた音だった。


「そんなの理由になるか、いつもは自分の方がこういうことを気にする癖に」


無理矢理にでも予定を明けさせ、二人だけで過ごすようにして来たくせにどうして今年
に限ってそれを自ら破ったのだと問うて来る。



「いや…おれってさ、貰ってばっかりだなと思って」


言った瞬間、石を掴もうとした塔矢の手が止まった。


「何が?」

「何って、よくわかんないけど、おれって貰ってばっかりだなあと思ってさ」


唐突に思ったのは、碁会所で最近囲碁を始めたばかりと言う老人と打った時だった。


『いやあ、すみません。進藤先生みたいな偉い人に私なんかの相手をさせちゃって』

『なんかってことは無いですよ。いつでも、どんな人と打ってもおれは楽しいし、その全
部が勉強になるんですから』


『そうは言っても、勿体無い』

『勿体無くなんか無いです。おれだっていつも―』


いつも貰ってばかりなのだからと、思った瞬間、目の前の老人に重なったのは佐為の
姿で、それは次に塔矢の姿になった。



(―あ)


和谷の姿にもなり、伊角さんの姿にもなり、森下先生や緒方先生の姿にも重なる。

一体自分がどれくらい多くの人に貰ってばかり居たのか、おれはたぶんその瞬間にや
っと気がついたのだと思う。



「だからおまえには悪いと思ったんだけど、どうしても囲碁祭りの仕事を受けたくなっち
ゃって」


恩返しなどと言うのは傲っている。でも。

「おれが今こうして打って居られるのは、すごくたくさんの人に色々なものを貰って来た
からだって解ったから、少しでもそれを返したくなったんだ」


ぱちり。しばらく経って盤に石を打ち下ろしてから、塔矢が小さな溜息と共に言葉を吐き
出した。



「…それで、どうだったんだ?」

「え?」

「今日、楽しかったのか?」

「うん、楽しかった」

「……ならいい」


許してあげるよと塔矢は言って、やっとその硬い表情を緩めたのだった。


「絶対に許してなんかやらないつもりだったけれど、キミがそう思って一日楽しんで来た
のならそれでいい」


「来年は、行かないよ」

もしかして、どうしてもと頼まれたら行ってしまうかもしれないけれど、それでも二人だけ
の時間もやはり大切にしたいと思う。


ただ今年は…気付いてしまった今年だけは、どうしても行かずにはいられなかったの
だ。



「おれって恵まれているんだなって思い知ったからさ」

「だったらぼくだって恵まれている。小さい頃からたくさんの人に囲まれて、言葉では無
く、石で色々なことを教わって来たから」



ぼくも誕生日には仕事を入れた方がいいのかもしれないなと言うのに、思わずダメとダ
メ出しをしたら苦笑されてしまった。



「相変わらず自分ルールだな。自分はいいのにぼくはダメなのか」

「だっておまえはちゃんと返していると思うし」

「そうかな」

「そうだよ。だっておれ、おまえにはほんと、貰ってばっかだし」

「そんなこと無いよ」

「あるよ、だから今日の最後におまえと打ちたかったんだ」


我が侭で自分勝手で子どもなおれをここまで引き上げてくれた。

佐為とはまた違う意味で、おれに囲碁を教えてくれた。囲碁以外のことも―。


「おまえが居なかったら、おれきっと今こうして打って無い」


だから絶対、今日の最後におまえと打ちたかったと言っておれは手を止め、少し体を
後ろにずらすと、深く塔矢に頭を下げた。



「―ありがとう」


顔を上げた瞬間見えたのは、こちらが驚く程、びっくりした塔矢の顔で、その白い頬に
一瞬赤味が差したかと思ったら、塔矢もまた体を後ろに引いて、それからゆっくりと深く
おれに頭を下げたのだった。



「ぼくの方こそありがとう」


キミが居てくれて良かった。

キミが囲碁の道に進んでくれて良かった。

キミがぼくを愛してくれて良かったと、言ってから顔を上げる。そして泣き笑いのように
笑った。



「ぼくの方こそ貰ってばっかりだ」

「おれの方が…やっぱり貰ってるよ」


たくさん、たくさん貰って居ると。

言ったその瞬間に時計の針が12時を越えた。


「過ぎてしまったけれど、誕生日おめでとう」

「ありがとう」


悪かったなと、改めて謝るのに塔矢は笑った。


「いや、いい。キミがどうして仕事を入れたのか解ったから」


そして何より、大切な日の最後にぼくと打ちたいと思ってくれたことが嬉しかったと言っ
た。



「キミの誕生日なのにぼくの方が嬉しいなんて、ダメだな」

「違うって、だからおれが嬉しいからおまえと打ちたかったんだってば」

「それでも、こんなに幸せにされたら、返しようが無いじゃないか」


キミは狡い、そして非道いと。でもその声に責めるような色はもう無かった。


「…打ち終わったら、ケーキを食べよう」

「ケーキ?」

「うん、実は買って冷蔵庫に入れてある」


料理もキミの好きな物を作ってあるからと言われて、今度はおれの方が泣き笑いにな
ってしまった。



「馬鹿じゃん? おまえ」

「ああ、用意している時はそう思っていた。本当に自分はなんて馬鹿なんだろうって。で
も今は思っていないよ」



むしろ誇らしいと。


「今キミと打てる、ぼくの前にキミが居る。そのことがたまらなく幸せだ」


生まれて来てくれて本当にありがとうと再び頭を下げられておれは本気で泣きそうにな
った。



「…やっぱ、おれの方がたくさん貰ってるって」


ありがとうと、おれもまた再び頭を下げた時、膝に置いた手の上にぽたりと水滴が一つ
落ちた。


それが自分の涙だと気がつくのに少し時間がかかり、でも解ってからも拭わずに落ち
るにまかせた。


だってこれは悲しい涙じゃない。幸せな涙だったから。


おれの方こそ幸せだ、おれの前に居るのが塔矢で本当に幸せだと思いながら、おれは
ゆっくり石を掴むと、過ぎてしまった誕生日を改めてじっくり噛みしめながら、盤の上に
思い切り打ち下ろしたのだった。







「進藤ヒカル誕生祭6」開催おめでとうございます♪

主催者様、今年も素敵な企画をありがとうございます。
ヒカルも、もう24歳なんですねえ。早いなあ(しみじみ)今頃タイトル争いでぶいぶい言わせている頃でしょうか。
さぞやいい男になったことでしょう。ヒカルが生まれて来てくれて私も本当に嬉しいです。



サイト内には他にも色々ありますので、(ヒカアキ)よろしければそちらも見てみてやってください。
2010.9.20 しょうこ