進藤ヒカル誕生祭6参加作品
ありがとう
歩行者用信号が青になり歩き出した所で、後ろから5歳くらいの女の子がぼくを走って 追い越して行った。 元気がいいなと思った瞬間躓いて転び、はっとして見ると、強引に左折して来た車のライ トがすぐ側にあった。 轢かれると思った瞬間手が伸びて、鞄を投げ出すことに躊躇いは無かったが、もう片方 の手に持っていたケーキの箱を投げ出すのにはほんの一瞬躊躇った。 それは進藤のためのバースデーケーキだったから。 もちろん迷ったのは一秒の何分の一かで、ぼくは両手でその子を抱きかかえると車を避 けて転がった。 結果としてその子は無事でぼくも無事で、鞄も乱暴に投げ出した割には無傷だった。 ただケーキの箱だけは救いようが無かった。 「どうしよう…」 青い顔をして駈け寄って来た母親に、泣いているその子を渡した時は平静だった。 礼を言われて何度も頭を下げられて、別れるまでも冷静だった。 けれど、いざ別れて改めて手の中のへしゃげた箱を見た時には自分でも驚くぐらいに落 ち込んだ。 『おまえその日、仕事だろ? おれも用事があるからさ』 だから特別なことはしなくていい。そうでなくても忙しいんだから、ご馳走もいらない、プレ ゼントもいらないと進藤は9月に入った時、カレンダーを見ながらぼくに言った。 『あ、でも、もし無理を言ってもいいなら、ケーキだけは欲しいかな』 せめてそれくらい一緒に食べたいじゃん? と、そう言われ、誕生日に唯一用意したもの だったのだ。 予め予約をして、閉店時間ギリギリにそれを受け取って、家まで後数十メートルという所 でこういうことになってしまった。 引き返しても店はもう閉まっている。他に開いていそうな店も知らなかったし、コンビニの ケーキではあまりに寂しい。 それでも諦めきれず何件か回り、それでもやはり代わりになるような物を見つけられなく て、とぼとぼとへしゃげた箱を抱きながら帰ったら、先に戻っていたらしい進藤が「おかえ り」と笑顔でドアを開けた。 「なんだよ、言ってたよりも遅かったじゃん、おれもう待ちくたびれて―」 言いかけて、それからぼくの様子に気がついたらしい、表情が曇った。 「どうした? 何かあった?」 そして改めてまじまじと見て、その顔が更に険しくなる。 「なんだよ、おまえスーツ汚れてるじゃん。髪も乱れてるし――」 「ごめん、キミのケーキ、落としてしまった」 ようやく絞り出すようにこれだけを言った。 「ケーキって…」 差し出すようにして箱を見せたら、進藤は絶句した。 「何? もしかしてまさか事故にでも遭った?」 「いや、そうじゃないんだけど、そこの国道の横断歩道で…」 ぼくは立ち尽くしたまま、ついさっき遭ったことを進藤に話した。 「今日は敬老の日だっただろう? その子は信号を渡った先にあるおばあさんの家に行 く途中だったらしくて」 繋いでいた母親の手を振り払って走り出て転んでしまったのだと、ぽつりぽつり語るぼく の声は、無機質で、自分の声では無いようだった。 「あの子は小さかったから、左折して来た車にはきっと姿が見えていなかったと思う」 片手ではどうしても助けることが出来なかったからと、そこまで話して息を吐いた。 「だから…ごめん」 「なんでそこで謝るんだよ、おまえ全然何も悪く無いじゃん!」 「でも、キミのバースデーケーキがこんなになってしまった」 ご馳走も何も無い、だからケーキだけはちゃんとしたものを買って誕生日を祝いたかっ たのだと、そう思った時、急にぐっとこみ上げるものがあった。 「ごめん、折角の誕生日なのに何も無くて」 「ケーキなんてどうでもいいよ! その子もおまえも無事だったんだろ?」 だったらそれでいいじゃないかと進藤は言って、ぼくを箱ごとそっと抱きしめた。 「それでおまえが怪我してたら、間違っても『いい』なんて言えないけど、でもおれだって きっと同じことをすると思うし」 だから本当にいい。それで良かったんだってばと溜息のように言われて泣きそうになっ た。 「進藤…」 「おまえは色々言うけどさ、ケーキはちゃんとあるじゃんか」 その箱ん中に入っているんだろうと言われて進藤を見上げる。 「確かめていないけれど、…きっとすごいことになっていると思うよ?」 「形が変わっても味なんか変わらないって」 だからいい、それで充分、いやおれには過ぎた誕生祝いだと言われて堪えきれずにとう とう涙をこぼしてしまった。 「ごめん、来年はちゃんと」 ちゃんとお祝いをするからと、子どものように泣くぼくの頭を進藤は黙ってそっと撫でた。 そして――。 ぼく達はその後、恐る恐る箱を開け、ケーキを取り出して二人で食べた。 「芸術的じゃん」 一目見て進藤が笑う。 「これを芸術って言うかな…」 「じゃあ、斬新。こんな格好いいデコレーション、おれ今まで見たこと無いぜ?」 いかにも自分のバースデーケーキらしいと、進藤は半ば本気で言っているようだった。 心配していた味の方も色々混ざってしまっていたけれど、それでも思っていたよりずっ と美味しくてほっとした。 「これってさあ、もしかしたらこうやって崩して食った方が美味いのかもしれないな」 機嫌良く、フォークでケーキをほじくりながら進藤が言う。 「カレーとご飯を最初に全部混ぜて食べちゃうみたいなもんでさ、酸っぱいベリーもチョコ もクリームも程良く混ざっていい感じじゃん」 繊細な飾りは跡形も無い。 けれど唯一チョコレートのプレートだけは奇跡的に残っていた。 『HAPPY BIRTHDAY!』 恥ずかしくて名前までは入れて貰わなかったのだけれど、やはり入れて貰うべきだった かもしれないと、分け合って食べながら思った。 こんなになってしまったケーキにも怒らない、むしろとても喜んでくれた。 ぼくのしたこと、そのことでぼくが怪我をしなかったこと。それがどんなプレゼントよりも一 番嬉しかったと偽りでは無く言ってくれた。 彼を好きになって良かったと心から思った。 「…ありがとう」 「え?」 「生まれて来てくれてありがとうって言ったんだ」 そしてフォークでケーキを掬い取り、彼の口元に運んだら、進藤は非道く驚いた顔でぼく を見て、照れたように笑ってから、幸せそうに大きく口を開けたのだった。 |
「一実のお城」
※素材はこちらからお借りしました。