身の内の鬼


「実はね、ぼくの家では豆まきをしなかったんだ」

煎った豆を手にしながら、塔矢が苦笑のように笑いながら言った。

「なんで? おまえんちなんて、どこの家よりもそういうことをちゃんとやりそうなのに」

スーパーで見かけて、そう言えばそうだったと豆を買って帰ったその夜、さて始めようか
という段になって塔矢は話し始めたのだった。


「柊に刺した鰯の頭は玄関に飾ったし、食卓に鰯は上がったけれど、豆まきはね。…
しなかった」


それは塔矢の父親がそれを嫌ったからなのだと言う。

「鬼を払ってどうするって」

打ち続けるには鬼でなければいけないのに、身のうちにある鬼を払ってしまってどうす
るのだと、そう言って誰が何を言おうとも頑として豆まきだけはしなかったのだと言う。


「でもあれって、鬼って言うか邪気を払うものなんじゃねーの?」
「うん。まあでも、それでもね」


鬼は鬼だから。

「父は間違い無く鬼だったと思うよ」

いや、今も鬼かなと。

「…だったらおれらも豆まきやめる?」
「うーん…でも、折角キミが買って来てくれたのだし」


それにキミに厄災が憑いてもぼくは困ると、そう言って塔矢は升の中から一つかみだ
け豆を掴んで取り出した。


「何?」
「お母さんはね、結婚した最初の年の節分でお父さんに叱られて以来、表立ってはし
なかったけれど、こっそりとこういうことはしていたんだよ」


そしておれの体に豆を掴んだ手をそっと当てる。

「キミに禍を為す、悪い物が落ちますように」

そうしてからそれをぱらりと部屋の隅に撒いた。

「もちろん、母は口に出して言ったわけでは無いよ」

言葉には出さず、けれど夫の身を案じて影で密かに豆まきの真似事をやっていた。

「それ、先生は知らなかったん?」
「―知っていたと思う」


豆まきを禁じているはずの家の中で豆を見つけてしまったことがあるからだ。

「母は全て拾ったつもりだったのに、取りこぼしたものがあったんだろうね。それをたま
たま父が見つけて不思議そうに掌に乗せてから母を見つめた。ぼくは母がやっていた
ことを知っていたから心臓が止まりそうだったけれど父は何も言わなかったよ」


ただ静かに笑って豆を妻に渡し、「掃除のし忘れがあったようだ」とだけ言ったと言う。

「あれを見た時に、子ども心に父と母は理解しあっているんだなって思った」

羨ましかったよと言うその言葉には深い響きがあった。

「いつか自分も―って思った?」
「そんなこと!」


無いと、くってかかってくるのにおれは豆を一つかみ掴むと、押しとどめるように胸の辺
りにそっと当てて言った。


「おまえの中のカワイイ鬼はそのまんまで、禍だけが逃げて行きますように」
「―なんだそれは」
「だから豆まきだろ?」


おれもおまえも鬼だから、鬼で有り続けなければならないのだから払うことは出来ない。
でもやはり、大切な人に禍があっては嫌だからそれだけを払うのだと言ったら黙った。


「でも…キミのはなんだか少し違っていたような気がする」
「気のせいだよ」


別に誰もおまえのことを打っていない時でも凄く可愛くて凄くおっかない鬼だなんて言っ
て無いってと言った瞬間に頭をぶたれた。


「言っているだろう、はっきりと」

ああそうだ、どうせぼくは鬼だよと、でもキミも打っている時とあの時だけは鬼だからと
切り返されて苦笑した。


「そんなに鬼畜だった?」
「いや…さあ、どうだろう」


自分の胸に聞いてみたらいいのじゃないかと笑いながら、塔矢はもう一度豆を掴むと
おれに当て、それからそっと微笑みながらおれの禍だけを払うために部屋の隅に撒
いたのだった。




※棋士に限ったことではありませんが、何かに真剣に打ち込んでいる人はみな「鬼」ですよね。
禍は欲しく無いけれど身の内の鬼を払ってどうすると私も常々思います。
2010.2.3 しょうこ