言祝ぎ



「今日が成人式なんだって?」

始める前、進藤七段はそう言って笑った。

「行かないで良かった?」

「意味の無い式よりも手合いの方が大切ですから」

そう自分が言った言葉に更に笑う。

「うん、そうだよな」

若手では塔矢九段と並んでトップを走る進藤七段とは、もうかれこれ公式で10回は当たって
いる。


最近ではほとんど残留組の進藤七段とはあまり予選で当たることは無くなったけれど、少し前
までは結構普通に当たることもあったのだ。


そして人に相性というものがあるように碁にも相性というものがあるらしく、自分にとっての進藤
七段は非常に相性が良く無いと言えた。


10回当たって10敗。

『君は進藤くんが苦手なんだねえ』

研究会で苦笑まじりに言われてしまったことがあるけれど、実際打ちにくいのは確かだった。

進藤七段は若いけれど意外に古い棋風を好む。秀策を深く研究しているようで、最近の打ち回
しのパターンのつもりで打っていると思わぬ所で足を掬われてしまうことが多々あった。


『なんでそんなに秀策が好きなんですか?』

一度研究会で顔を合わせた時に聞いてみたことがあるけれど、進藤七段は笑いながら『なんで
だろうな』と言った。


『説明すると長くなるし、他人には解らないことでもあるし』

でもとにかく好きなんだ。尊敬しているんだよと自分とそんなに年が変わらないはずであるのに
非道く大人びた顔で言う。


『心の師みたいなものですか』
『ああ、うん。そうだな』


おれにとっては心の中に居る師匠みたいなもんなんだきっとと、そう語った時には少しだけ切な
さが混ざっていて、どうしてだろうと不思議に思ったことを覚えている。


ぱちり、ぱちりと自信を持って置かれて行く石の道筋。

座っている姿は堂々としていて圧力がある。

それに気圧されてしまっているのだと自分でも自覚があるけれど、なかなかそういうものは乗り
越えるのが難しい。



「お願いします」
「―お願いします」


頭を下げて向かい合い、それからゆっくり碁笥の蓋を取る。

石を握ったその後は、息を整えて冷静に盤に集中することに努めた。



あれ? と思ったのは終盤。

複雑になった盤面は結局またいつもの通り気がついたら進藤七段の筋書き通りになって居て、
こちらにとっては分が悪い状況になっていた。


あそことここでこうした方が良かったんだとか。それともあの時にこっちに置いた方が有利だった
のではないかとか必死で頭の中で思うけれど、今更どうにもならなくて手にかいた汗をハンカチ
で拭いながら石を置くことしか出来なかった。


もう駄目だ。どう考えても数目足りない、絶望感に打ちひしがれた時、微かな違和感に気がつい
たのだった。


目を上げると進藤七段の気配が微妙に変わっている。ついさっきまでの圧倒的、絶対的な迫力
が薄くなり、代わりにほんの僅かな焦りが混じって見える気がするのだ。


(なんだろう)

最初解らずに、けれどじっと盤を睨んでいて気がついた。

コウ争いをしていた左隅に決定的な白の失着を見つけたからだ。

さっき、進藤七段の番の時、二十分かけて考えて置かれた手。それにとどめを刺されたように思
っていたけれど、全体を通して見詰めた時、そうでは無いことが今になって解った。


(ひっくり返せる)

大きな挽回では無い。

でも食らいつけば相手の地をかなり減らせる。

そしてそれは完璧な進藤七段の筋書きを崩し、壊すのに充分なはずだった。

張り詰めたような空気の中、交互に考えながら石を置く。

ぴりぴりと肌に痛い程緊張があって、少しでも気を抜いたら殺されるとぼんやりと思った。やがて
ふと進藤七段が手を止めた。


「うーん」

ぎゅっと唇を引き結んで盤を睨み、それから今まで以上の長考に入る。持ち時間はまだ残ってい
たはずだけれど、それでもこんなに使っていいのかと思う程の長考だった。


それが終わったのは四十分が過ぎた頃。進藤七段は大きく溜息をつくと肩を落とした。

「―ありません」

聞き違いかと思った。

その驚きがそのまま顔に出てしまったのだろう、進藤七段は険しい顔から、くしゃっと急に笑顔に
なって自分に向かってこう言った。


「勝ったって言うのになんでそこまで驚くかなあ」

あそこから粘ってひっくり返した。

勝ちをもぎ取ったんだから、もっと堂々と勝ちましたヅラしていればいいんだよと、そうしてからあー
あ負けちまったと改めて悔しそうに言った。


「あ…ええと」
「ありがとうございました」


静かに頭を下げられて慌てて下げる。

「あっ、ありがとうございました」

ゆっくりと石を集め、それからそのまま検討した。

やはりあの一手が分かれ道だったらしく、進藤七段はしきりにその読み違いを悔やんでいた。

「あーっ悔しい。なんでここを見落としたかな」

少ししてやって来た塔矢九段に、思い上がっているからだ!だの、注意力が散漫なんだ!だの散
々非道い言葉で罵られていたけれど、それでも腐ることはしない。


「うん、おれが間抜けだった。でもそれに気付いて生かしたのはこいつの実力だから」

面白かった。面白い碁が打てて楽しかったと、負け惜しみでは無い言葉で言われて頬が熱くなった。

「本当に…ありがとうございました」
「次は絶対負けないけどな」


ふと思い出して時計を見ると夕方の5時。

もうとっくに式は終わっているなと思い、覚えている数々の級友の顔を思い浮かべる。

好き勝手しているんだから成人式くらいは出なさいよとうるさく親には言われたけれど、出なくて良か
ったと思った。


「おめでとう」
「え?」


ふいに塔矢九段に言われて驚いた。

「今日、成人式だったんだって?」
「あ…はい」


ぼく達も成人式には出なかった。君と同じように手合いに出て打っていたよと言われてなんだか非道
く嬉しくなった。


「…こちらの方が大切ですから」
「うん。そうだよね」


ぼく達は棋士なんだからと、その言葉を胸の中で噛みしめる。

10敗の後の初めての一勝。

自分にとって今日は、どんな式典に参加するよりもずっと成人を考えさせられる一日だったと石を碁
笥に戻しながらしみじみと思った。




※24、か25くらい。もうかなりぶいぶいいわしている頃です。そろそろ後輩を指導するようなそんな立場になり始めています。
2011.1.10 しょうこ