竜虎伝



これは囲碁に出会わなかった進藤ヒカルと、進藤ヒカルに出会わなかった塔矢アキラが
出会う物語である。






ポケットの小銭を指で何度も確かめながら、ヒカルはもう何度目かの深い溜息をついた。

何故かというと所持金がたったの320円しか無く、なのにアルバイト代はまだ来週にな
らなければ支払われないからだ。


「シケてんの…」

折角の休日、折角の晴天。気持ちよく晴れ渡った絶好の観光日よりにも関わらず、遊び
に行く金も無ければ遊びに行く相手も居ない。なので一人で腐っていたのだ。


「何か臨時のバイトでもするかなあ」

携帯で、登録している派遣会社からのメールを見る。

日給の良い日雇いのバイトは幾つかあったが、今これから行けるものは一つも無かった。

そもそも昼過ぎに起きた時点でアウトである。

「あーあ、今日一日何して過ごそう」

足元の空き缶を軽く蹴って、その缶が転がる先をなにげ無く目で追っていたら、ぱっとい
きなりそいつが目に入った。


(あ、可愛い)

灰色のハーフコートを着た自分と同い年くらいの女の子が、少しキツ目の顔をして、真っ
直ぐこちらに歩いて来るのだ。


(中学…いや、高校だよな、たぶん)

肩で切りそろえた髪がさらりと揺れる。

イマドキ珍しい日本人形タイプと思った瞬間に、その日本人形は腰を屈めて缶を拾い上
げると「マナーが悪い」と吐き捨てるように言った。


「あ…え?」
「ゴミはゴミ箱に捨てる。そんなことも教わって生きて来なかったのか」


一気に言って缶をそのまま肩から提げていた鞄の中に入れた。思ったより低い声をして
いるんだなと思った次の瞬間にはもうその前に立って、「何か食いに行かねえ?」と誘っ
ていた。


「は?」
「おれ、今スゴイ暇なんだ。金は無いけど茶ぐらいなら飲めるし」


どこか入って話さないかと言った瞬間に足を踏まれた。

「痛っ」
「ぼくは男だ―悪いのはマナーだけかと思っていたら頭も相当悪いんだな」


そして呆気にとられているうちに去ってしまった。

「なんだ…あいつ」

でも、缶を拾い上げた時の綺麗な指先や、キツイけれど涼しい眼差しはいつまでも目の
裏に焼き付いて残った。


「あんなオトコも居るんだ。…へぇ」

それが最初の出会い。

ヒカルにとってもあまり良い出会いとは言えないが、相手にとってはもっと最悪な出会い
だったことだろう。




数日後、ヒカルが忙しく立ち働いていると、入り口のドアが開き、何人かの客が入って来
た。


「いらっしゃいませ」

反射的に声をかけ、これもまた反射的に人数を数える。それはヒカルがカフェに勤める
ようになってから自然習い覚えたことだった。


(ひい、ふう、…六人)

どれも皆スーツを着込んだサラリーマン風で、けれど一人だけ子どもが混ざっていた。

「あ…」

思わず小さく声をあげて、でもすぐに黙って水の入ったコップを運ぶ。

「メニューとおしぼりをどうぞ。ご注文が決まりましたら声をかけて下さい」

一人一人の前に水を置きながら声をかける。一人だけ、一番端に座った客の前に水を
置く時だけゆっくりと置いてその顔を見る。


相手もまたヒカルを見て、少しだけおやという顔をした。

「アキラは何を飲む?」

真隣の青年が声をかけて来た。

「あ…ぼくはカフェラテで」

答えているのを見てヒカルは内心ぽつんと思った。

(アキラ…アキラって名前なんだ)

聞いてみるとそれは本人の容貌にひどくしっくり来る名前だった。

「芦原さんは何にするんですか?」
「んー、ぼくはねぇ」


それきり、店員であるヒカルの存在は黙殺され、客は客同士で会話を始めた。でもヒカ
ルはカウンターに下がりながらも目だけはずっとアキラと呼ばれた客を追い続けていた。



「なあ」

小一時間後、スーツの団体が立ち上がり、店を出たのをヒカルは追いかけた。

そしてアキラという名前らしい、一人だけ小さな背中を捕まえて囁いた。

「おまえ、上の名前なんて言うの?」

振り返った相手は心底驚いた顔をして、けれど無視することは無く「塔矢」と言った。

「とうやあきら。うん、解った」

そしてその場で踵を返すとヒカルはすぐに店に戻った。

「一体何事?」

後ろで芦原と呼ばれていた大人がアキラに尋ねていたけれど、アキラが答えていること
は聞こえ無かった。


でも別に構わない。知りたかったことが解ったからヒカルはただ満足だった。



数日後、思いがけない客がヒカルが働くカフェを訪れた。

アキラだった。

午前中まだ早い時間だというのに、私服でカウンターにやって来ると「カフェラテのホット
を一つ」と言った。


注文を受けたのは別の店員だったけれど、ヒカルは無理矢理場所を退かせると、自分
でアキラの精算をした。


「350円です」

ご一緒にパニーニは如何ですか? と某ハンバーガーショップの店員の真似をしてみ
たが、無反応で瞬殺された。


「つまんねーの」

釣りを渡しながらぼそっと呟く。

「…何が?」
「そこは、じゃあ代わりにスマイルをって言う所じゃないんですか? お客様」


そしていきなり口調を変えた。

「なあ、おまえって引き籠もりなん?」
「は?」
「それとも何か病気か何か持ってんの?」


一瞬聞かれたことが解らなかったらしい。じっとアキラはヒカルを見てそれから眉をぎゅ
っと寄せると「失礼な」と言った。


「ぼくは別に引き籠もりでも無ければ病気でもなんでも無い」
「だったらどうして平日のこんな時間にこんな所で茶ーしてんだよ」


学校行って無いんだろうと言われてアキラは平然と返した。

「中学は卒業している。ただ進学しなかっただけだ」
「へえ…イジメか何か?」
「キミとプライベートな話をするつもりは無いよ」


そしてくるりと背を向けると窓際のテーブルに行ってしまった。

「なあ、どうして進学しなかったん?」

それでもしつこく掃除するふりをしてヒカルが追いかけて行くと、アキラは不機嫌そうな顔
をしてぼそっとひとこと言った。


「早くやりたいことだけをやりたかったから」
「ふうん」
「それでキミは?」


ふいに切り返されてヒカルは言葉に詰まった。

「見る限りでは成績は良さそうでは無いし、遊びたくて学校に行って無い類だろう」
「あはは。当たり」


屈託無く返されてアキラは相当驚いたようだった。

「おれ、勉強嫌いでさ。だから進学する気なんか無くて、それで卒業してからずっとバイト
生活してんの」


この方が金になるし楽しいよとにっこりと笑うヒカルにアキラは呆れたような顔で言った。

「今はそれで良くてもきっと後悔する。せめて高校くらい出ておけば良かったって」
「それはおまえも同じじゃん?」
「ぼくはもう仕事をしている。遊んでいるフリーターと一緒にしないでくれ」


そしてその後はもう幾ら話しかけても、うるさそうに手を振るだけでヒカルの相手をしなか
った。


(へえ、働いてるんだ)

そう考えたらこの間、大人達と一緒に居たのも腑に落ちた。あれはきっと同じ会社の人
達に違い無い。


こんな小柄で背も高く無くて、女の子みたいな顔をしている。でもアキラはちゃんと就職し
て働いているんだなとヒカルは分けもなくそのことに感心し、同時に少しだけ悔しくもなっ
たのだった。





それからもアキラは頻繁にヒカルの勤めるカフェにやって来た。

うるさく話しかけて聞いた結果、働いている場所がカフェの近くで『出勤』する前に一息つ
くのにちょうどいいので来ているとのことだった。


「でも今まではちっとも来なかったじゃん」
「今まではこっちの改札を使っていなかったら…」


少し離れた場所にある出口を使っていたためにカフェの存在を知らなかったのだと言っ
た。


「この前連れて来てもらって、結構静かでいい店だなと思ったから」
「おれみたいな格好いい店員もいるし?」
「キミみたいにうるさい店員が居るのが、ただ一つの問題点だと思っているよ」


けれど言葉ほどはアキラはヒカルを邪険にしない。

居る時間が短いということもあるが、ヒカルがしつこい割にはアキラの様子をちゃんと見
ていて、本当に構われたく無いと思っているような時にはまとわりつかないせいもあった。


アキラの来る曜日と時間は大体決まっている。

だからヒカルもそれに合わせてシフトを組んで、アキラの好む席の回りは特に念を入れ
て掃除をするようになっていた。


何故そんなにアキラにつきまとうのかと言われたらヒカル自身にも解らない。

ただ、初めて会った時からアキラは非道く印象的で、二度目に会った時には運命だと思
った。


何が運命なのかは解らないけれど、なんとなく感覚で自分とアキラは『合う』と思ったの
だ。


(もっと長い時間話してみたいけどなあ)

アキラの方はいつもなんだか忙しそうで、深くヒカルと付き合う気も無いらしい。幾度か、
さり気なく店以外の場所で会わないかと誘ってみたが体良くきっぱりと断られてしまった。


「キミもぼくなんかを構っていないで友達と遊べばいいんじゃないか?」
「大丈夫。ダチとはちゃんと遊んでいるから」


でもアキラとも、もっとゆっくり話してみたい。もっとゆっくり長い時間をかけてつまらない
ことでも何でもその綺麗な顔を眺めながら話してみたいと思うのだ。





「進藤、おまえ最近あの客にご執心だなあ」

あまりにいつもアキラにつきまとっているので、店の他の店員にからかわれたりもした。

「確かに綺麗な顔しているけど、あれオトコだろう?」

おまえホモかと言われて違いますよと即座に返す。

「だったらなんであんなに構うんだ?」
「解らないけど、なんか…」


アキラはなんだか面白いのだ。今までヒカルが知り合った誰とも違う。

堅苦しいしクソ真面目だし、テレビも漫画も何も見てはいないらしいし、だからそういう話
は出来ないけれど、ただひとことふたこと話すだけで面白い。


心が満ちるという言い方が合っているのかどうかわからないけれど、ヒカルは例えば何
も話さなくてもアキラと居れば楽しいだろうと感じていた。





アキラが姿を見せなくなったのは三月に入ってすぐの頃で、それまで判で押したように決
まった曜日、時間に来ていたのがふっつりと半月も来なかった。


(どうしたんだろう、あいつ)

病気でもしたのか、それとも仕事をクビにでもなったのか。

(そういえばおれ、あいつの職場の名前も何も聞いてなかったなあ)

もしこのままアキラが永遠に来なくなってしまっても、消息を確かめることも出来ない。

どうしてちゃんと聞いておかなかったんだろうとヒカルは死ぬ程後悔した。

そして―。



現われなくなったのと同じくらい唐突に、アキラはまたカフェに姿を現した。

けれど時間は朝では無くて夜かなり遅くで、たまたまシフトに入っていたからいいようなも
のの、普段だったらヒカルは居ない時間帯だった。


「いらっしゃいませ」

真っ先に水とおしぼりを持ってアキラの元に行く。するとアキラはゆっくりと顔を上げてヒ
カルを見て、けれど何も言わなかった。


「どうしたんだよ、ずっと来なかったじゃん」
「…別に来るも来ないもぼくの勝手だし」


キミには関係無いと突っぱねられてカチンとした。

「それはそうだけど、一応心配したんだからな。不景気だしおまえリストラされちゃったん
じゃないかって」
「リストラ?」


ふっとアキラが鼻で笑った。

「そんなもの――」

ぼくはキシだからと、キシというものがわからなくてヒカルは答えに窮した。

「棋士だからリストラなんかされたりしない。でも棋士だから勝てなければ堕ちて行くんだ」

その言い方は自嘲気味で自分を傷付けるような響きがあってヒカルは嫌な気持ちになっ
た。


「リストラされないならいいけどさ、でもなんでそんなにやさぐれてんの」
「きみみたいなお気楽な人間に解るわけが無い」
「解らないけどさ、でも少なくともおまえみたいに自分をあざ笑うような生き方はしてない
ぜ」


キッと音がしたかと思う程鋭い瞳で睨み付けられてヒカルは怯んだ。

「わるかったな。自分で自分をあざ笑ったりして」

でもそれに相応しい非道い負け方だったんだから仕方無いだろうと。そしてそのまま俯い
てしまった。


「ちょっと待ってろよ、おれもう五分くらいで上がりだから」

つーか、五分くらいで店も閉まる。だからどこかに行こうぜと、珍しくアキラはヒカルの誘い
を断らなかった。


二時間。

ヒカルがアキラを連れてカフェから少し離れた所にあるファミレスに入って早二時間が過
ぎていた。


「あのさぁ…」

話しかけてもひとことも喋らない。ただ俯くばかりのアキラにヒカルは溜息をつくと自分だ
け珈琲のお代わりを取りに行った。


何があったのかわからない。でもアキラは非道く元気が無い。そのまま帰すのは気が退
けて、ヒカルはアキラがちゃんと上を向くまで付き合おうと二十四時間営業のこのファミレ
スにやって来たのだ。


「おまえ、帰らなくて家の人心配しないの?」
「一人暮らしだから」
「ああ、そう」


たまにぽつんと返って来ることはあるけれど、ほとんどアキラは黙っていた。

そして気がつけば何やらテーブルに指で書いてはぶつぶつ口の中で呟いている。

「…ここで下がれば、いや駄目だ。ここでコスまれて出口を失う」

飛ぶ、ツケる、二間開く、さっぱりヒカルには解らない言葉だらけだ。

でもそれがアキラを苦しめているということだけは解る。

重苦しい空気の中、ただひたすらに黙り込むアキラに付き合い、その動かす指を見詰め
るうちに、ふとヒカルは呟いた。


「それ、そっちじゃなくて、こっちじゃねーの」

コップの水でテーブルに何やら描いていた、それにヒカルは口と指を出したのだ。

「間違ってたらゴメン、それ碁だろう。うちのじーちゃんが好きでガキの頃にちょっとやった
ことあるんだけどさ」


この黒石はこっちに置くよりここで攻めた方が後々味がいいんじゃないかと言われてアキ
ラは顔を上げた。


「キミ…」
「それともこっちで挟んで…は無理だな。おまえ白だったんだろう。だったらここで割り込ん
で行っても後で全部取られちゃうもんな」


呆然と、半ば呆然とアキラはヒカルの顔を見ていた。

「どうしてそうなるって解ったんだ?」
「どうしてって、そうなるじゃん?」
「ならない。普通だったらここで下辺にコスんで、二子を生かす方に行く」
「でも、それだと次にこっちに置かれた時にひっくり返されちゃうから」


だからこっちに置いた方がいい。手抜きって言うんだっけと言われてアキラは更に呆然とし
た顔でヒカルを見た。


「キミ…碁を打てるのか」
「だからガキの頃にじーちゃんとちょっと打っただけ」
「今は?」
「今? そんなん、もう何年も打ったことなんて無いよ?」


悪びれないで言うヒカルの顔をアキラは本当に長い時間見詰めた後で、思い返したように
テーブルに再び水で何やら描き始めた。


「この展開、この後キミならどう進める?」
「あー…何コレ。黒が激ヤバじゃん」


そして目を眇めるとしばし考えて上辺に指を置いた。

「ここかな。ここに置けば陣地が広く取れるし、白が辛くなる」

すぐには逆転出来なくても、上手くやれば白に勝てるんじゃないかなとあっさりと言うその顔
をアキラは見詰めた。


「それじゃ、これは?」
「えー? なんだこれ」


アキラが次々とテーブルの表に描いたのは碁でもかなり上級者用の詰碁で、けれどそれを
ヒカルはなんなく解いて行った。そのことにアキラはただひたすら驚愕して、更に更にと試さ
ずにはいられなくなってしまった。


「それじゃ次はこれ、これはキミならどうする」
「まだやんの? いいけど。うーん、根性悪い展開だよな、これ」


けれど面倒臭いと言いながらも結局ヒカルはそれを二分で解いた。

信じがたいことだった。

「キミ、どうして碁をやっていないんだ」
「別に、そんなに興味無いし」
「興味が無い? こんなに打てるのに?」


有り得ないとアキラは言って椅子にもたれた。

さっきまでの落ち込んだ様子とはまた違う、苛立ちのようなものがその整った顔には浮かん
でいた。


「今キミが問いたのはプロでも苦戦する詰碁だぞ」
「へえそうなんだ?」
「なのにそれをさらっと解いて、そのくせ碁に興味が無いなんて言う」


許せないとアキラは本気で怒っているようなのだった。

「なんで別におれの勝手じゃん。おまえには関係無いだろう」

ヒカルはヒカルでアキラが何故怒っているのかさっぱり解らず、ただ不当に怒りに晒された
ことにムッとしている。


「関係無くなんか無い。ぼくは棋士だぞ―碁を打つことを生業として生きている。それなの
にこんなキミみたいなふらふらしている人間が、ぼくの回りに居る上級者に匹敵する程打
てるかもしれないなんて」


「ああ、キシって棋士。ああそうか、やっと解った」

そうかおまえは囲碁の棋士だったのかあと、その空気を読まないヒカルの声にもアキラは更
に激昂した。


「どうしてだ? どうして打たない」
「どうしてって…だから、さっきも言ったようにそんなに興味無いし」
「興味が無いからって勿体無い。どうしてキミはプロにならないんだ!」


プロになってぼくと打たないんだと、一気にまくしたてられてヒカルは呆気にとられた。

「は? プロ? おれが?」
「そうだよ。たぶん…いや、きっとキミはプロになれる資質を持っている」


だのにどうしてフリーターなんかやっているのだと、その口調にはやりきれない憤りが籠もっ
ていた。


「望んでも持つことが出来ないものなんだ。才能って言うのは努力だけではどうにもならない」

皆が血を吐くような思いで切望しているそれを持っているかもしれないのに生かそうともしな
いなんてどういうことだと、今にも泣きださんばかりの迫力で迫られて正直ヒカルは困った。


囲碁の棋士なんて自分の人生に全く関わって来なかった。そういう選択があることすら知らな
かった。


なのにそれを責められてどうすればいいと言うのだろう。

「…それは、だって、おれの回りにおまえみたいに言うヤツ居なかったし」
「お祖父さんは? キミのお祖父さんはキミに何も言わなかったのか?」
「もう死んで居ないし」


そう、もしまだ父方の祖父が生きていたならヒカルは碁を打っていたかもしれない。

まだ幼い自分に石を持たせて、ぎこちなく打つのをとても喜んでいたのだから。

「キミ…プロになれ」

つらつらと祖父とのことを思い出していたヒカルはアキラに迫られて目を見開いた。

「はぁ?」
「まだ間に合う。院生になってそれからプロ試験を受けてプロになれ」


なってくれ、頼むと命令口調でありながら言葉のお終いは何故か懇願するようで、ヒカルは知
らず頷いていた。


「いいけど…別に」
「本当に?」
「うん。おまえがそんなになって欲しいんだったらなってやってもいい」
「なって欲しい。絶対なってくれ」


そしてぼくと打ってくれと。

その瞬間、ヒカルはアキラが笑うのを初めて見た。

幼い頃から天才と持てはやされ、けれどそれ故に対等の相手を持たなかった。

アキラの孤独をヒカルは知らない。

周囲から孤立して、大人の中に一人混じるアキラが、同じ年頃の棋士に妬まれて嫌がらせを
受けていることもまだこの時のヒカルは知らない。


そして何よりもアキラが心の底から自分と永遠に競い合う対の相手を望んでいたことをヒカル
は欠片も知らなかった。


それらを知るのはもう少し後。

ヒカルがアキラの猛烈な後押しで院生になり、プロ試験を受けてプロになり、周囲が驚くような
早さでアキラの隣に並び立つようになってからのこと。


竜虎。

後に碁界でそう呼ばれる、生涯のライバルが今ここで誕生した。


※例えば、もしヒカルが佐為ちゃんに出会わなかったら。もしアキラがあの時碁会所に居なかったら、
出会わなかっただろう二人ですが、それでも出会った。


縁というものはそういうものなんじゃないかな。

幾百の「もしも」があってもそれでも出会ってしまう。そんな仲なんじゃないかと思います。2011.4.1 しょうこ