釣果
「あ、しまった」
時計を見るなり小さく叫んで、それから進藤は携帯を持って廊下に行った。
けれどすぐにかけるわけでなく、電話と時計を何度も見比べ、そしてやっと決心したかのように
電話をかけたのだった。
(なんだろう)
時間はもうすぐ日付を跨ぎ、そんな時に彼が電話しなくてはならない相手に思い至らない。
「あ、今晩は。すみませんこんな時間に進藤です」
漏れ聞こえてくる声の調子とその丁寧さに、和谷くんなどの友人相手ではないのだなとぼんや
りと思った。
「はい…はい。ええ、あ、あはは」
そしてしばらく話した後で、いきなり戻って来るなりぼくに電話を突きつけた。
「ほら、今度おまえ」
「え? 何?」
「いーから、とにかく出ろって」
促されて出てみたら、電話の相手はぼくの母だった。
「…お母さん?」
母は可笑しそうにころころと笑って言った。
『私だってこのくらいの時間にはまだ起きているのに随分恐縮されちゃったわ』
なんのことだかわからずに黙っていると母が続ける。
『アキラさんも進藤さんのお母様にちゃんと感謝の気持ちをお伝えしたの?』
―――あ。
慌ててカレンダーを見る。そうか、今日は母の日だったんだと今更ながらに思い出した。
いつもなんとなく五月の十何日と覚えていたので八日の今年は意識からすっかり外れていた
のだ。
「すみません。お母さん…あの」
『幸せ?』
いきなり聞かれて面食らう。
「はあ、…はい」
『それならいいのよ、それで充分』
だからあなたもまだお電話していないなら進藤さんのお母様にかけた方がいいわよと。
『優しくて気遣いの出来る素敵な男の子を貰っちゃったんだから、あなたちゃんと感謝しない
と』
「はい」
ああ、まただ。他のことでは負けているという気がしないのに、こんな時には進藤には勝てな
いとそう思う。
『そうそう、また今度お父さんと一緒に台湾に行く予定があるのよ』
何かお土産で欲しい物がある? と尋ねられて反射的に「お母さんは幸せですか?」と尋ね
てしまった。
『私? うーん、そうねえ。行洋さんは相変わらず碁一色の碁バカだし、ふらふら落ち着き場
所は定まらないし』
大変だけれど楽しいわと気負うこと無く言われて笑った。
『それに、大事な一人息子は独り立ちして幸せに暮らしている。これで幸せじゃないなんて言
ったらバチが当たるんじゃないかしら』
「…お母さん」
『大丈夫、私は幸せよ?』
だからあなたも進藤さんと進藤さんのご両親をちゃんと幸せにしなくちゃねと言われて胸が
熱くなった。
「はい…努力します」
『それじゃまた。帰ってきたら連絡するわね』
進藤さんのお母様への電話を忘れずにと繰り返し言ってから母は自分から電話を切った。
「お義母さん、なんだって?」
遠くから様子を窺っていた進藤が尋ねる。
「…またお父さんと台湾に行くんだって。何かお土産を買って来てくれるらしいよ」
「ふうん、それだけ?」
「それから、キミのお母さんにもちゃんと感謝の意を伝えなさいって怒られた」
「あははは。明子さんらしいな」
それで? と更に促されて薄く微笑む。
「幸せだって言われた。お父さんと一緒に居て幸せで、ぼくがキミと一緒に居て幸せだから
って」
「おれもシアワセだよ」
おまえと居れて、最高にシアワセと何の屈託も無く言われて、先程と同じ熱さを胸に感じた。
「…じゃあ、後はキミのお母さんだけだね」
「ん?」
「キミのお母さんにも幸せになって貰わないと」
長話をしてしまったのでもう日付は九日に代わってしまっている。こんな時間にかけるのは常
識的になんだとも思うけれど、それでもかけずにはいられなかった。
四回コールして出なかったら切ろう。そう思った電話に三回目で進藤のお母さんは出た。
「夜分遅くすみません。あの…塔矢ですが――」
『あら、お久しぶり、元気?』
うちの愚息がまた何かバカでもやらかしたのかしらと笑うのに、微笑んで返す。
「いえ、とても大切にして貰ってます」
お義母さんのおかげです。ありがとうございますと心からの言葉を伝えたら、電話の向こうで
進藤のお母さんは驚いたように一瞬黙って、それから『あら、私ったら本当に、海老どころか
イトミミズで鯛を釣っちゃったわねえ』と明るく嬉しそうに笑ったのだった。
※「はあ?おれミミズかよ」と、即座にヒカルからツッコミが。「だってあなた母の日も誕生日も関係無しで、何か
してもらったり、何かもらったりって、幼稚園の頃の色紙で作ったカーネーションだけじゃないの」母からも反撃。
「や、そうだけど…」「まあ、それでも、もう一人ずーっと可愛くて優しい息子を連れて来てくれたんだからいいか」
今度塔矢くんと二人でお買い物に行っちゃおうvとは、にこにこ顔の美津子さんの談です。2011.5.9 しょうこ