Engage



「左手貸して」

ふいに言われて何も考えず、目の前の進藤に左手を差し出した。

すると彼は服のポケットからマジックを取り出し、口でくわえて蓋を取ると、そのままきゅうっと
ぼくの薬指に線を引いた。


あっと思う間も無く、くるりと指を囲むように線を引かれ、その後手の甲に矢印を書かれて『け
っこんゆびわ』と付け足して書かれた。


「この野郎、若先生になんてことしやがる」

側で見ていた北島さんが眉をつり上げて進藤を怒鳴る。

「しかもそれは油性マジックだろうが、若先生の綺麗な手が台無しだ」

受付のカウンターに居る市河さんも、あらあらという顔でこちらを見ている。

「小学生のガキじゃあるまいし、何しやがるんだ小僧」
「いいじゃん別にこのくらい」


北島さんだってそれこそガキの頃にやったことあるだろうと言われて北島さんは即座に「無い」
と断言した。


「こんなつまらん悪戯はしたこと無いわい」
「うるさいなあ、大体された塔矢が何も言って無いのにどうして北島さんが怒るんだよ」


ぼくはと言えば呆然としていた。

そもそもが幼い頃から年の近い子どもと遊んだ経験が無い。悪戯というものも一切やったこと
が無いしされたことも無いのでどんな反応をしていいのかまったくわからなかったのだ。


「キミ…まだ『結婚』も漢字で書けないのか」
「そこかよ!」


もっと他に言うこと無いのかと言われてしばし考える。

「…普通、結婚指輪より先に婚約指輪を贈るものなんじゃ無いだろうか」
「そうだ、それくらい解ってろ馬鹿もんが!」
「って、北島さんもそこは塔矢に突っ込む所じゃないのかよ」


進藤は拗ねたように口を尖らせて言う。

「何を言う、てめえの馬鹿な悪ふざけに若先生が付き合って下さっているのがわからんのか」
「あ…いや、ぼくはそんなつもりでは…」
「ほら、こいつ天然だからさっきのもマジで言ったんだぜ」


信じられないボケっぷりと言われても今ひとつぴんと来ないし怒る気にもなれない。

「でも、どうして油性マジックなんかで書いたんだ? これじゃ洗ってもしばらく落ちないじゃない
か」


手合いの時に相手の方に失礼になると小さく溜息をついたらそれに溜息で返された。

「まったくもう、消えたら嫌だから油性にしたんじゃんか」
「どうして?」
「それは―――」


言いかけて何故か進藤はぼくの目の前で茹でたように赤くなった。

「進藤?」
「なんでもねーよ、うるさいな。北島さん、そんなに暇なら相手してやるからあっちで打とう」
「おう、若先生の敵討ちだ」


そしてそそくさ行きかけて、それからふいに戻って来てぼくの耳に囁く。

「それ、おれは本気で書いたんだからな」
「え?」
「今日が何日だか考えてみろ」


それだけ言ってぼくを置き去りにして去ってしまった。

「今日が何日って…二月十四…」

バレンタインデーだ。

そう思った瞬間にぼくの顔もさっきの進藤と同じくらい、かあっと熱く赤く染まった。

(そうなのか?)

本当に本気でそういう意味なのかと思いながら左手を持ち上げて、薬指と、手の甲に書か
れた文字を見る。


嬉しくて恥ずかしくて、でもやはり嬉しい。

帰ったら真っ先に手を洗おうと思っていたけれど、出来るだけ消さないように洗わないでお
こうと心の中でそう決めて、ぼくは左手を右手でそっと包んだのだった。




※それでも帰ったら手を洗った方がいいと思います。すみません。この手にマジックで直描き指輪ネタも前に書いた覚えがあります。
でもまた書きたくなったので書いちゃいました。すみませんすみません。
なんかね漢字で書けないわけじゃないけれど、それでもヒカルは平仮名で「けっこんゆびわ」って書くような気がするんですよねー。
2011,2,14 しょうこ