とある塔矢の初恋事情
それを見た時、『縁から闇に身を投げる』、そんな風に見えた。
ヒカルがアキラの居ないことに気がついたのは、お偉いさんの長々とした挨拶が終わり、立食でのパーティー
が始まってしばらく経った頃だった。
その日、棋院のスポンサーになってくれている企業の80周年記念祭にヒカルはアキラと共に招待されて来て
いた。
棋士も名が知れてくると、対局や指導碁以外にもこんな仕事が加わって来る。
ヒカルは元々そういう改まった場が苦手だったけれど、アキラと一緒ならと仕方無く溜息つきつつやって来たの
だ。
そういう時の常でアキラはすぐに人に囲まれ、話しかけられることに笑顔で上手く対応している。ヒカルと言えば
苦手は苦手であるものの、人懐こい性質が幸いしてか意外に困った失態もせず、それなりに会話を続けていた。
いつもそんな風であったから、ヒカルはアキラがいないことにすぐには気づけなかった。見えなくてもきっとどこか
の人の輪の中に居ると思っていたので探すこともしなかった。
けれどそれがある程度ばらけ、自由に動くことが出来るようになった時、初めて会場のどこにもアキラが居ない
ことに気がついたのだ。
(あれ、あいつ…)
最初はトイレかと思い待ってみたが、いつまで経っても現われない。
アキラが自分を置いて帰るわけも無いので妙に不安になり、立ち入れるありとあらゆる場所を探した。
そして会場から出られるテラスの奥にアキラが佇んでいるのをようやく見つけたのだった。
「塔矢ー」
ほっとしつつ近づいて行ったヒカルは、ぎょっとして途中で立ち止まった。
明りのない暗いテラスで、アキラは思い詰めたような顔で手すりに手をかけ、微動だにせず下を見詰めていた
からだ。
ここは十二階で、下には何も見るべき物は無い。ヒカルは咄嗟にアキラが飛び降りるのではないかと思ってし
まった。
「塔矢!」
走っている自覚も無く駈け寄って必死で腕を掴んだら、アキラは驚いたような顔で振り返った。
「進藤…」
まるで夢から覚めたような顔で、アキラはいつものアキラに戻り、血相を変えたヒカルに苦笑したような笑みを
向けた。
「どうしたんだキミ」
「それはこっちのセリフだろ。こういうの苦手なおれを見捨ててこんな所で一人でサボっていやがって」
言いたいことはもっと別の言葉だったが、なんとなく怖くてそれは言えなかった。
「…ごめん、ちょっと一人になりたかったものだから」
「もしかして人酔いした? おまえ人が多いの苦手だもんな」
良かったと言いたいのを堪えてヒカルは笑顔で返した。
それならば心配は無い、妙な不安を感じたのは何の根拠も無いただの妄想だったのだ。
けれどしばし黙った後でぽつりとアキラが呟いた言葉にヒカルは凍り付いた。
「少し…疲れてしまって」
「疲れたって何に?」
それにアキラは答えなかった。代わりに再び手すりに手をかけ、身を乗り出すようにして下を見る。
「…このまま落ちたらどうなると思う?」
「ばっ―」
冗談のように言いながら、その声は全く笑っていない。いつの間にかアキラの顔は、ついさっきまでの思い詰
めたそれに変わっていた。
ぞっとした。
ヒカルは掴んだままの腕を思いきり引くようにしてアキラを自分の胸に抱き寄せて、そのままぎゅっと抱きしめ
た。
「ダメ! そんなの絶対ダメだからな」
今までこんな風にアキラを抱きしめたことはヒカルには無い。けれど今もし少しでも力を緩めたらアキラを失う
と感じたのだ。
「苦しい。キミ、酔っぱらっているのじゃないか?」
やんわりと胸を押され、けれどヒカルは益々アキラを抱く手に力を込めた。
「酔っぱらってなんかいねーよ。おまえこそ安い酒で酔っぱらってるんじゃねーのかよ」
「酔ってないよ、今日ここに来てから何も口にしていないし」
「だったら余計、絶対死んでも離さねえ」
「どうして?」
ふいの問いかけにヒカルは非道く動揺した。それはヒカルが内に秘め、隠していたことを鋭く突かれたようなも
のだったからだ。
「…好きだから」
迷った後、ようやくヒカルは言ったけれど、アキラは表情一つ変えなかった。
「そう」
「違うって! ダチとかじゃなくて、おまえのこと本当にマジで好きなんだって!」
だから間違っても変なことを考え無いで欲しいと言うヒカルの声は悲痛ですらある。けれどアキラの反応は薄
い。
「だったらぼくにキスをしてみろ」
「は?」
「好きなんだろう? それならそういう欲求もあるんじゃないか?」
そう言って顔を上げたアキラはヒカルの目を怖いぐらいまっすぐに見詰めた。
瞳の奥はあまりにも暗くて得体が知れず、ヒカルは更に不安になった。
「あるよ、助平心満載だもん。キスでもなんでも出来るよ。おまえが嫌で無いんなら」
「…嫌じゃない」
そう聞いた瞬間、自分の中の何かが弾けて、ヒカルは噛みつくようにアキラに深くキスをしていた。
本当は打ち明けるつもりなんてまるで無かった。
それでももし万が一があったらと、考えることは以前からあって、それなのに優しいキスは出来なかった。
無理矢理に舌で唇をこじ開けて、食らうように舌を絡める。
「…ん」
自分から挑発しておいてアキラは一瞬大きく目を見開き、後はじっとされるまま、すぐに自分からも積極的に
ヒカルに応じた。
離れては口づけ、少しでも距離が出来ると、引き合うように唇を重ねる。
まるで食らい合いだなと舌の甘さに痺れながらぼんやりとヒカルは思い、ようやく離れることが出来たのは、互
いに息が出来なくなった時だった。
「塔矢」
いきなりの現実に、ヒカルは気持ちが溢れて一杯になってしまった。迸る感情に頭がちっとも追いついて行かな
い。まるで夢でも見ているようだった。
けれどアキラはそんなヒカルを今度は力一杯押し退けて、抱きしめられていた腕の中から逃げるように身を離し
た。
そして言う。
「まったくキミは…タチの悪い酔い方をする」
「飲んでねーって!」
「飲んでるよ。そういうことにしておいた方がきっといい」
「何、わけのわかんねーこと…」
「キミをね」
アキラはヒカルを見詰めたまま、溜息のように言った。
「キミをね…好きでいるのに疲れてしまった」
思いがけない事を言われ、のぼせ上がったヒカルの顔から血の気が一気に失せた。
「ちょ…何言ってんの、おまえ」
「言葉通りだよ。ぼくはずっとキミが好きで、キミの側にさえいられたらいいと思っていたんだけど、でも最近そ
れに疲れてしまった」
「そんなのおれ、聞いて無い!」
ムッとして言うのにアキラは冷ややかな声で言った。
「キミだってぼくに言わなかったじゃないか」
言わずにただ気を持たせて来たじゃないかと言われて絶句する。確かにそういう所もあったからだ。
自分では上手く隠せていたと思ったが、ヒカルの気持ちはアキラにしっかり伝わってしまっていたのだ。
「でもいつまで経ってもキミは言わないし、ぼくもキミに言えなかったし、キミは誰にでも優しいし」
子どもの頃にはほとんど相手にされなかったが、二十歳に近くなった頃からヒカルは頻繁に告白されるように
なっていた。
身長が伸び、体も出来てそこそこに顔立ちも良い。何より碁もアキラと競うほどに強いということが女性の目に
非道く魅力的に映るようになったのだ。
今日の立食パーティーでも、ヒカルは何人もの女の子に話しかけられて、しきりに連絡先を聞かれていた。
人気があるのはアキラだって同じだったが、顔立ちの美しさと愛想の無さから敬遠されることが多かったのだ。
それにヒカルとアキラでは大きく違うことが一つある。
ヒカルは望まれればほいほいと携帯の番号でもアドレスでも教えてしまうし、誘われれば余程危険性を感じ無
い限り断るということをしないのだ。
「キミは優しいよね。見た目よりずっと真面目だし人懐こくて愛想がいい。相手を傷付けることが出来ないんだ」
アキラはもちろんそれを平静に見ていたわけでは無い。内心かなりな葛藤と嫉妬でいつも狂いそうだった。
「それでもやっていけると思っていたんだ。でも今日はなんだかそれが急に我慢出来なくなって」
ああ、いつかこうして自分の見詰める先で、ヒカルは誰かに奪われてしまうのかと思ったら、もう耐えられない
と思ってしまった。
「何故だろう? この先もう一歩だって歩けないってそんな気持ちになってしまったんだ」
「それで…どうするつもりだったんだよ。おれが見つけなかったらここから飛び降りるつもりだったのか?」
「わからないけど…そうかもね」
アキラの答えにヒカルの顔が歪む。
「おまえ、おれのことが好きだって言うのに、おれの気持ちは考え無いのかよ。おまえに目の前で死なれて、
一生苦しむとか悲しむとか思いもしなかったのかよ」
「…思ったよ。でも、それならそれでいいかなって」
「どうして!」
「だってそうなったら、きっとキミは一生ぼくのことを忘れ無い」
いつか好きな人が出来て結婚して家庭を持ったとしても、キミの中に誰よりも深く刻まれるのはぼくなんだと
言われて思わずヒカルはアキラを殴ってしまった。
「おまえ…非道い」
バシっとかなり派手な音がした。
「本気でそんなこと言ってんのかよ。おれだったら絶対におまえにそんな重荷を負わせたくない。好きなのに
不幸になんか絶対になって欲しく無い」
「だから、そういう自分にも絶望していた。あまりの自己中に吐き気がしそうだと思ってた」
だけどキミはわざわざそんなぼくを捜しに来て、頼まれればキスまでしてしまうんだからお人好しにも程がある
と、アキラの声は静かだったがどこか恨みがましくもあった。
「キミ、言ったのがぼくじゃ無くてもキスしたんじゃないのか?」
さすがにこれはどうしても我慢出来なくて、さっきよりもずっと痛い音をさせてヒカルはアキラを思いきり殴った。
「舐めるなよ! おまえがどうか知らないけど、おれは好きでもなんでも無いヤツに同情でもキスなんかしない」
好きだからしたんだよ、どうしてそれが解らねーんだよと言いながらヒカルは泣いてしまった。
ここまで追い詰めてしまった自分の不甲斐なさとアキラの身勝手さ、そしてもう少しでアキラを失う所だったかも
しれないという恐怖に涙がこぼれたのだ。
「おまえが飛び降りたら、おれも速攻で追いかけるから覚悟してやれよ。なんだったら一緒に死んでやってもい
い。それくらいおまえが好きなんだって、どうしてそれを疑うんだよ」
「進藤…」
「格好悪ぃ。こんなクソ意地悪いおまえの前で泣くなんて死ぬ程嫌だし格好悪い。確かにおれが悪かったのか
もだけど、だからってこんなやり方―」
言いかけて、ぐっと言葉が詰まってしまった。
ほんの数メートル先では賑やかにパーティーが進行しているというのに、この暗いテラスでヒカルとアキラは好
きなのにお互いを傷付け合っている。
「進藤」
「うるさい。おまえなんか嫌いだよ。こんな非道いことしかしないようなヤツ、こっちこそもう金輪際好きでなんか
いたくない」
「でも…だったらどうしてまたぼくの腕を掴んでいるんだ?」
「…それでもおまえのことが好きだから」
愛してるんだと言った後にヒカルは全く喋れなくなってしまった。
必死で嗚咽を押さえながら、涙を流し続けるヒカルにアキラの表情がゆっくりと変わる。
「ごめんなさい」
俯くように下を向き、アキラはヒカルの胸に頭をもたれた。
「疲れたなんてぼくも嘘だ」
愛してるよと呟いて、やはり何も言えなくなって涙をこぼした。
「だったらもう絶対に―」
「しない。したくなんか無い」
でもキミを好きだから。好き過ぎるから約束は出来ないかもしれないと呟くように言う。
「疲れるって、『憑かれる』とも言うんだよ。たぶんぼくはキミに憑かれて、キミもぼくに憑かれてしまったのか
もしれないね」
恋愛は美しいけれど妄執は恐ろしい。
「それでもダメだ。おまえが死んだら、おれ…生きて行けない」
どうしたらバカなことしないって約束してくれる? と尋ねられて、アキラはゆっくり顔を上げた。そして泣きなが
らそれでもしっかりとヒカルに告げる。
「…愛してるって言ってくれたら」
不安や嫉妬に駆られないように、毎日言葉にしてくれたら約束すると言われ、ヒカルは即座に口を開いた。
「愛してるよ、本気だよ。それでおまえがいなくならないって言うんなら、百年だって千年だって毎日毎晩言って
やるよ!」
「…バカだなあ、キミは」
でもありがとうと囁いたアキラの顔からは、あの思い詰めた表情は拭ったように消えていた。
※今日、10月8日はとうやの日です。なのにこんな痛い話でゴメンナサイ。1212.10.8 しょうこ
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