雛に稀なる



その昔、『人形みたいな顔』と言われて相手を殴ってしまったことがある。

勿論それはかなり幼い頃のことで、普段大人しい良い子と思われていただけに周囲に非道く驚かれた
記憶がある。


わんわん泣いていた男の子。

すみませんとひたすら頭を下げる母。

父はその時は母と一緒に謝っていたけれど、後でこっそりと「よくやったな」とぼくを褒めてくれた。

誇りを傷付けられて怒るのは当然。怒るべき時に怒ることが出来ない人間はただの臆病者だと。

将来棋士になるなら、誇りを傷付ける者を決して許すなとまで言い切った父の言葉は以来ぼくの指針
となった。


侮られまい、見くびられまい、決して誇りを汚させまいと、必要以上に肩に力を入れて生きて来たぼく
は、結果として面白みの無い堅物に育ったけれど、それを後悔することは一度も無かった。


むしろそんな自分に満足していたので、それを進藤に話して、いきなり大笑いされた時には侮辱され
たような気持ちになった。



「何故笑う。ぼくの話はそんな馬鹿げたものだったか?」

「いや…そういうわけじゃないんだけど、でもバカはバカだなあと思って」


失礼極まりない進藤は、言いながら更に失礼の上塗りをしてくれた。


「だっておまえ、そいつだけじゃ無く他の誰が見てもきっと『人形みたい』だったと思うぜ?」


カッと怒りで頬が熱くなった。


「確かにぼくは母親似だし、容姿のことはよく言われるけれど、でもだからって女っぽいと侮辱される
謂れは―」



言いかけたのを笑いながら進藤が遮る。


「だから違うって、侮辱なんかじゃないって。人形みたいって言うのはさ…」


そして何故か唐突にカレンダーを指さした。


「何?」

「おまえがそれ言われたのって、ちょうど今頃だったんだろう?」

「…うん」

「それで言われた場所ってのは子どもがたくさん居る家で、もしかしなくても雛人形が飾ってあったり
したんじゃねーの?」


「雛人形…」


言われてみれば奥の和室に立派な段飾りがあったような気がする。


「言ったヤツはさ、たぶんその雛人形をいつも見ていて、だからおまえを見た時に思わず言っちゃった
んだと思うな」



まるで雛人形みたいだ―と。


「まだガキだから語彙も少ないし、そんな言い方しか出来なかったんだろうけど」


整った目鼻立ち。

きめの細かい白い肌。

際だって美しい顔をした子どもを見て、きっと驚いて思ったままを口にした。


「賭けてもいいぜ。絶対それってバカにして言ったんじゃない。むしろ逆だよ」


褒めたんだ。雛人形みたいに綺麗だと、そう言われて目から鱗が落ちたような気がした。


「…そんなこと、考えもしなかった」

「まあ、おまえのことだから雛人形って言われてもやっぱり怒ったかもしれないけどさ」


進藤の言う通り、それでもぼくは怒ったかもしれない。でも少なくとも殴りはしなかっただろうと思うの
だ。


あの頃も今も容姿はぼくのコンプレックスで、そこを突かれるとどうしてもムッとせずにはいられない。
けれどそれが純粋な好意だったのなら―。



「…悪いことをしてしまったかな」


今更ながらにそう思う。

あの時ぼくは本当に容赦無く殴ったので、相手の口は切れて血が出ていた。もしかしたら歯の一本
くらい欠けさせるようなことをしてしまっていたかもしれないのだ。



「いいんじゃねーの? それこそガキの喧嘩だし」


ぼくの表情の変化を見て進藤が言う。


「おれなんか怪我するのもさせるのもしょっちゅうだった。男のガキなんてそんなもんだろ」

「でも…」


ぼくにとっては汚点だ。誤解で人に手を出して、しかもそれを誇らしく思っていたなんて。


「だったら謝る? あの時は殴ってゴメンナサイって」

「そんな、今更謝られたって向こうも困るだろうし」

「じゃあもういいじゃん。塔矢先生が言ったことも全然間違って無いし、そもそもそいつの言い方も悪
かったんだし」



おれだったらおまえに『人形みたいだ』なんて言わないよと言われて苦笑してしまった。


「さっきキミ、『誰が見ても人形みたいだったと思う』って言ったじゃないか」

「揚げ足取るなよ。誰が見ても人形みたいに綺麗だって言うと思うって、そう言ったんだ」

「じゃあキミはなんて言うんだ?」


あの時のぼくにキミだったら何と言うつもりなのだと言ったら、進藤は少しだけ目を見開いて、それか
ら大真面目にこう言った。



「人形よりも綺麗って言う」

「…えっ」

「そりゃ確かに雛人形って綺麗じゃん? でもあんなのよりおまえの方が百倍も千倍も綺麗だもん」


だから絶対そう言うよと言われて、ゆっくりと頬が怒りでは無い感情で染まるのが解った。


「そんなこと…」

「あ、でもそいつが失言してくれて良かったのかな。だってそれでおまえのガード固くなったし、おかげ
でおれが手ぇつけるまで誰も手出し出来なかったし」


「ばっ…なっ…」

「バナナ?」

「違うっ」

「違わない。ほんと、そいつが言い方下手で良かったよ。そしておまえが短気で怒ってくれて本当に良
かった」



こんな美人で凛々しくて、惚れ惚れするようなおまえをおれだけのものに出来たんだものと、ぬけぬけ
と言われて首から上が火照るようになってしまった。



「取りあえず、そいつ今棋士になんかなってねーよな?」


そんな危険分子、放っておけないから居るなら潰しておかないとと言われて、ぼくはとうとう恥ずかしさ
の余り俯いてしまった。



「…知らない」

「知らねーの? だって先生の知り合いなんだろう?」

「知らないったら知らないっ!」


ぼくは生まれてから今まで、キミ以外の誰にも興味なんて持ったことが無いから、その子がその後どう
したのかなんて知らないよと怒鳴ったら、進藤は嬉しそうな声を上げ、それからぐっと顔を近づけて来る
と耳元で囁いた。



「おまえって、本当に可愛くて綺麗。雛人形よりもずっと綺麗」


どう? おれのこと殴る? と言われて思わず本気で殴りたくなってしまった。

でもあまりに距離が近すぎて、その唇がぼくの耳朶を優しく甘噛みしてくるので、どうしても殴ることは
出来なくて、喘ぐようにようやく「殴らないよ」とだけ答えたのだった。



※幼稚園生くらい?小さい頃は本当に女の子とよく間違えられたのではないかなと思います。そして可愛く大人しそうな
外見に反して中身はアレなもので、バカにされたらぶん殴るくらいのことはしただろうと思います。
やる時は徹底的にがモットー。で、大抵それで離れて行ってしまうけれど、ぶん殴られても蹴られても何されても逆に嬉
しそうに抱きついて来るバカが今現在側に居るわけです。バカっぷるです。2012.3.4 しょうこ