Happening Happiness



欲しいと言うからチョコをあげた。

何がいいのか解らないから、取りあえず間違いは無いだろうとゴディバを選んだ。

当日でもまだ売り場には相当な人がいて、かなり恥ずかしかったけれど、ちゃんとラッピングもして貰い、
きちんと手渡しで渡した。


どうして自分が…とか、これはどういう罰ゲームなのか…とか、色々と思う所はあったけれど、それでもど
うしても欲しいという気持ちに精一杯応えたつもりだった。


なのに3月14日、お返しを貰うことは出来なかった。これは一体どういうことなのだろうか―?



一ヶ月前の2月14日、くれくれくれくれくれくれくれくれ、どーしてもくれとねだられて、一悶着あった末に思
わぬ告白をされて、ぼくは進藤ヒカルにチョコを贈った。


こんなものは男が買うものでは無いし、ましてや男に贈るものではない。そう思ったけれど、ぼくを好きで、
どうしてもぼくから貰いたいのだという進藤の気持ちに折れたのだ。


『あげるからキミもぼくにチョコを贈って欲しい』

とは、告白の後に返事を迫られて、しどろもどろぼくが言った言葉だったけれど、それでも彼の真剣な気持
ちに精一杯の真剣さで返したと思う。


なのに一ヶ月後、進藤はぼくが言った言葉も自分が言った言葉も忘れてしまったかのように、ホワイトデー
を完全にスルーしたのだ。


朝、帯坂で会った時、進藤はいつもの人懐こい笑顔でぼくに話しかけて来た。

「おはよっ、相変わらずおまえ早いのな」
「そんなこと無い、普通だよ」


キミがいつも遅すぎるんだと軽口の応酬をしながら、何か貰えるなら今だろうなと思った。お互いに手合い
があるし、ここを過ぎると人の目がある。


誰にも知られないようにチョコの手渡しをするのは難しくなるからだ。

けれどいつまでたっても進藤はチョコのチョの字も言わない。あっという間に棋院に着いてしまい、肩すかし
をくらったような気分になった。


(まあ、まだ打ち掛けもあるし)

そう思った打ち掛けでは和谷くんや他の人達も一緒に食事をすることになり、当然受け渡しなど出来るはず
も無い。


休み時間は尚のことで、だったら帰り道でくれるつもりだろうかと盤に石を置きながら考えた。

「お疲れー」

検討を終えて一階に下りると、ぼくより先に終わっていた進藤がちゃんとぼくを待っていてくれた。

「お疲れ様。キミは今日はどうだった?」

わかっていることを敢えて聞く。

「見なかったのかよ、ちゃんと勝ったよ」
「そう。昼前までは苦戦していたようだったからどうしただろうと思ってた」
「そんなことねーよ。余裕だよ」


いつも通りの会話をして、いつも通りに帯坂を下る。いつもだったら駅に着く前に「どこかに寄ってく?」と彼が
言い、近くのカフェに流れるのだけれど、今日は違った。


「おまえ今日はこの後予定あんの?」
「別に無いよ。キミは?」
「おれ? おれはちょっと実家に行く用があってさー、親戚が来るとかで速攻で帰らなくちゃいけないんだ」


だから今度会った時、今日の並べて見せてくれよなと言われて反射的に「うん」と頷いていた。

「それじゃおれ、今日はこっちから行くから」

たたっと地下鉄への階段を下りられて、思わず進藤を呼び止める。

「…ちょ…進藤っ!」
「ん? 何?」


ぼくの声に振り返った進藤は、無邪気な顔でぼくを見た。何故呼び止められたのか全くわからないと言った風の
表情に、無意識に肩が落ちるのが解る。


「あ…ごめん。なんでも無いんだ。気をつけて」
「うん。おまえもなー♪」


そして進藤はぼくに手を振ると、そのまま階段を駆け下りて二度と戻って来ることは無かった。

後にはぽつんと取り残されたぼく。


なんなんだ、これは。

呆然として、しばらくはなんだか解らなかった。電車で揺られている間も放心して、歩きながらも心ここに有らず
といった状態だった。


今日は3月14日だ。

ひと月前、彼はぼくにお返しをくれると約束した。それなのにそんな約束など無かったかのように進藤は帰って
しまったのだ。これは一体どういうことだ?


(もしかしてホワイトデーを忘れていたのかな)

そうも思ったけれど、打ち掛けの時お返しが大変でという門脇さんの振った話題に進藤も確か加わっていた。

それどころか彼はぼくに向かって、『おまえもたくさん貰ったから大変だろう』などとふざけたことも言っていたの
だ。


ということは忘れていたわけでも無く、何かの勘違いというわけでも無い。進藤はもともとぼくに何もくれる予定で
は無かったのだと思ったら、歩いている途中なのに座り込んでしまいそうな程のショックを受けた。


(どうして?)

ぼく達はお互いの気持ちを確認して恋人同士になった。

ただの友達だった頃より濃密な時間を過ごしているし、時に触れ合ったり、隠れてキスをしたりすることもある。

ぼくはそれを順調な証拠と思っていたけれど、もしかしたらそうでは無かったのかもしれない。

バレンタインがきっかけで付き合い初めて一ヶ月、そろそろ互いの悪い所も見えてくる頃で、彼は男と付き合うと
いうことの意味をようやく理解したのではないだろうか?


そもそもぼくは彼が言うように可愛くは無いし、優しくも無い。

美人などと言うけれど、単純に母親似なだけで、もっと綺麗な人は女性の中に幾らでもいる。体も骨張っていて柔
らかく無くて、抱き心地は悪いだろうなと思っていた。


一緒に居ても安らげるわけでは無くて、始終碁のことばかり、怒鳴り合いはしょっちゅうだし、差し入れの一つも作
ってくれるわけでは無い。


そんなぼくに彼はもしかしなくても失望したのではないだろうか?

「だったらあれは…」

遠回しな別れの催促ではないかと思ったらドキリとした。

自分から迫っただけに切り出すことは出来ないだろう。だから進藤は直接言葉にする代わりに約束したチョコを渡
さないことで、察しろとぼくに言っているのかもしれない。


(でも…それにしたって…)

それならそうで、はっきりと口に出して言って欲しいとぼくは思った。

叶わないと思っていた恋。それが思いがけず叶ってしまってぼくは気持ちを抑えられなくなっている。

今更あれは間違いでしたと言われても、はいそうですかと気持ちを切り替えることはたぶん出来ない。

だからもし本当に彼がぼくと別れたいと思っているなら、はっきりと言葉に出して思い知らせてくれなければダメ
なのだ。


「大体、いつもはストレートなくせに…」

思わず恨み言のように呟きが漏れてしまう。

「どうしてこういう時だけ湾曲するんだ」

嫌いなら嫌い、冷めたなら冷めたとそう言ってくれればいいだけなのにと、言葉に出して罵っていたら、ふいに目
の奥の方が熱くなって来た。


拙い、このままでは泣いてしまう、そう思った時にぼくはようやく自宅にたどり着いていた。

(とにかく家に入って、それから気持ちを落ち着かせて)

それから進藤に気持ちを確認してみようと思いながら、ポケットの中の鍵を探っていた時だった、いきなり誰かが
「わっ」とぼくの背中を強く叩いた。


「おかえりっ、塔矢! おまえ帰って来るの遅いからすげー待っちゃったじゃん」
「――え?」


そこにいたのは帰ったはずの進藤で、ぼくは状況が解らずに返事も出来ずに立ち尽くした。

「キミ…なんで?」

ようやく出たのはそれだけで、でもまだ状況が飲み込めない。

「もしかしてどこか寄り道してた? あ、まさかホワイトデーで誰かにお返ししてたんじゃないよな」
「いや…まっすぐ帰って来たけど…」


でも帯坂の下でぼくはかなり長い時間呆然としていた。それは進藤が先回りをして更に待ってしまうくらいの時間
になったのではないだろうか。


「…キミ、帰ったんじゃ無かったのか?」

ようやく頭が回り出して、ぼくは軽く進藤を睨むとそう言った。

「帰ってなんかいないよ。3月14日だぜ? おまえと約束したのに何もせずに家に帰るわけなんかないじゃん」
「だったらどうして…」
「んー、サプライズ?」


せっかくの告白返しなんだから一生忘れられないようなものにしようと考えたのだと進藤は言う。

「おまえはおれから貰えるって思ってるじゃん? なのにいつまでたったもくれなかったら、きっとイライラするだろ
うなって」


ああ、イライラさせられたともと、苦い気持ちでそう思う。

「それでもおまえはたぶん辛抱強く待っちゃうから、そこをぐっと堪えて渡さないまま別れてさ、がっかりした所を先
回りして家でおれが待ってたら、すごくびっくりするだろうなあって」
「ああ…びっくりしたよ」
「ハッピーホワイトデー、塔矢。おれからのチョコ貰ってくれる?」


にっこりと笑って紙袋を差し出されて、ぼくは安堵するのと同時に大きな声で怒鳴っていた。

「ばっ―」

バカじゃないのかキミはぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁっ!



轟くようなその声は、一区画先まで聞こえたかもしれない。それくらいの絶叫だった。

「せっかくだから忘れられないようなものにした? そんなことのために、今日一日ぼくの気持ちを弄んだのか!」

怒濤のように迸る言葉はそのままぼくの感情だった。

「ぼくが待っているのを解っていて、朝からずっとわざと無視していた? 面白がっていたんだな?」
「あ、いや…別に面白がったりは―」
「同じことだよ。ぼくは今日一日、キミのことばかり考えていた。最初は純粋に楽しみに、それからどんどん不安に
なって―」


最後には別れを告げられることまで覚悟した。その救いようの無い気持ちをどうしてくれると言いながら、ぼくはふ
いに喉が詰まって咳込んだ。


「塔矢、大丈―」

進藤が驚いて絶句する。

ぼくは自分でもその自覚無く、けれどいつの間にかバカみたいに泣いていたのだ。

「ぼくは女性じゃないし可愛くも無いし、だからキミに愛想を尽かされたんだって、キミに嫌われてしまったんだって
―すごく」


すごく悲しかったと言ったら進藤が我に返ったようにぼくの手を握った。

「ごめん、おれそんなつもりじゃ無かったんだって」
「知らない」
「ごめん、本当にごめん。おれ浮かれすぎて、肝心のおまえの気持ち、全然考えて無かった」


ぱあんと、気がついたらぼくの手は彼の頬を思いきり叩いていて、でもそれでも気持ちが収まらなくて返す手で反
対側の頬も殴った。


「ごめん…おまえのこと傷付けるつもりなんか無かったんだ」

進藤は避けられただろうに、ぼくの手から逃げないでまともにビンタをくらった。

「泣かせるつもりなんて無かった。そんなふうに誤解させるつもりなんて全然無かったんだ」

温かい両手がそっとぼくの頬を挟む。

「確かにおまえ女じゃないけど、可愛く無いなんて嘘だ。だって今こんなに超絶にカワイイのに」

可愛くて、大好きで、愛してるのに愛想を尽かすなんて絶対無いと、進藤はぼくの目を見ながら静かに言った。

「ごめんな。もう…許してくれない?」
「…わからない」
「だったら許してくれなくてもいいから、一生おれ、おまえの奴隷でもいいからさ」


だから頼むからおれのこと捨てないでくれよと言われて、あまりの必死さに小さく笑ってしまった。

「なっ、なんで笑うんだよっ」
「だってぼくは、キミに捨てられるかもって泣いていたのに」


そのぼくがキミを捨てるなんて有り得ないんだよと言ったら、進藤は、ぱっと嬉しそうな顔になって、でも即座に
痛そうに顔を歪ませた。


「ごめんな―塔矢」

喜ばせるつもりで悲しませてしまってごめんと、そしてぼくに口づけた。

「許してくれる?」
「チョコ…」


涙でドロドロの顔を慈しむように撫でる、進藤の手の温かさを感じながらぼくは言った。

「チョコ?」
「さっきキミがぼくにくれようとしたチョコ、あれはキミの気持ちがこもっているんだよね?」
「ああ―」


進藤が用意していた紙袋は一連のやり取りの間に哀れにも地面に投げ出されている。その箱から覗いてい
る鮮やかなリボンを見詰めながら言った。


「…チロルだったら許さない。でももし、ちゃんとキミの気持ちがこもっていたなら」

許してあげるよと言ったら進藤は今度は本当に笑って、それから至極真面目な顔で「おれの気持ちはチロル
なんかに篭もりきるほど小さく無い!」と、きっぱりはっきり言ったのだった。



※えーと、今年のバレンタイン若葉マークバカっプルのホワイトデー編です。「あげるから、キミもぼくに」は本来なら
そのままチョコの交換になる所ですが、この人達は相談の末、ホワイトデーにヒカルがチョコを返す形に落ち着きました。
でも気持ちは解っているから日々ラブラブで。なのにこの始末。まあ若葉マークだから仕方無ということで。


そしてホワイトデーはマシュマロやキャンディーやクッキーなどを贈るもんですが、この人達はチョコVSチョコ。あくまで対
等で無いと気が済みません。
2012 3.16 しょうこ