恋かもしれない



酔っていたのだろうとは思う。

けれどそれが普段抑制出来ていることを容易く乗り越えさせたことは明らかで、恨めしいと思わずには
いられなかった。



正月、海外に居る父の代わりに、ぼくは縁のある家に挨拶回りに出かけた。

三軒目に行ったのは引退して随分経つ老棋士の家で、けれど未だに親しまれているその人の家は老い
も若いも集まって大層な賑わいだった。


ぼく自身と言えばあまり接した機会が無く、門下としての付き合いもあまり無かった人なので、挨拶だけ
して帰るつもりだったのだけれど、少しだけでもと無理矢理引き止められて未成年なのに飲まされた。


断ったのに強引に勧めて来たのは温厚な老棋士では無く、集まっていた若手の棋士達で、打ったことが
ある者はいなかったけれど、なんとなくぼくにあまり良い印象を持っていないことは知っていた。


それでも何とか失礼にならない程度飲み食いして帰ろうと席を立った。台所に居る奥さんに挨拶をしてそ
のまま玄関に向かおうとした時、いきなり口を塞がれて廊下を奥まで引きずられた。


連れ込まれたのは玄関から一番遠い部屋で、入った途端わっと数人に体を押さえつけられた。

「なっ―」

文句を言う暇も無い。薄暗い部屋で酒臭い息を吐きかけて来るのは先程までぼくに酒を勧めていた人達
で、考えられることはろくなことでは無かったけれど、為す術もない。


下半身に手をかけられて下着ごとズボンを脱がされた所でぎゅっと目を瞑ったけれど、何故かいきなりそ
こで体が自由になった。


「何を一体!」

弾かれるように体を起こした時、ぼくは自分がズボンから下を全て脱がされたことを知った。睨み付けても
怯みもしない。皆一様ににやにやしている。


「いや、暑そうだったんでね。涼しくしてやろうかと思って」

脱がしたぼくのズボンをこれみよがしに揺らしながら、驚いたことに皆はぼくを残して一斉に部屋を出て行
こうとした。


「待てっ」

追いかけようとして入り口で止まる。下半身を晒したまま人目に触れるかもしれない場所には出られない。

「まあまあ。そんな慌てなくてもいいじゃない。お客さんもまだこれからたくさん来る予定だそうだし」

「そうそう。馴染みの先生方に挨拶してから帰ってもいいんじゃないか?」

「塔矢名人の一人息子が来ていると知れば、ご尊顔拝見と思う人も多いだろうしな」

「ただ…その格好でどう思われるかはわからないが」

わっと笑ってそのまま今度こそ本当に去って行った。一人部屋に残されたぼくは慌てて襖を閉めると、へた
りとその場に座り込んでしまった。


(どうしよう)

彼らが普段から快く思っていなかったぼくに、ささやかな意趣返しをしたのだということはよく解った。いつも
なら父や門下の誰かが一緒に居るので手出しすることは出来なかったけれど、今日はぼく一人だったので
いい機会だと思ったのだろう。


未成年で飲酒して酔っぱらった挙げ句に半裸で人前に出たとあれば、ぼくはもちろん父の名前にも傷がつく。

地味だけれど効果的なやり方だった。

遠くからは楽しそうな声が響いて来る。人は皆主の居る座敷を中心に集まっているからこんな奥までは来な
かったけれど、でもいつ誰が来ないとも限らない。


もしこの家の奥さんが何かを取りにこの近くまで来たとしても、客がいきなり下半身を晒して出て来たならば
取り乱すに違い無い。


あの連中もすかさず面白可笑しくはやし立てる筈で、どうにも出来ないという絶望感がひしひしと募った。

「そうだ、携帯」

芦原さんか緒方さんに助けに来て貰おうと思ったのに、こんな時に限ってどちらも出無い。空しく響くコール音
にぼくは本気で泣きたくなった。


(緒方さんは女の人の所で…芦原さんはたぶん寝ているんだ)

万事休す。こんな時に助けてくれるような友人がぼくには一人も居ない。人付き合いを疎かにして来たツケが
こんな所で出たのである。


「このまま夜まで隠れていて、皆が帰った後に正直に訳を話そうか…それとも一か八かで通りがかった誰かに
助けを求めてみようか」


どちらも良い結果になるとは思えなかったけれど、他にこれといって良い考えも浮かばなかった。

この世界は狭い。これから先自分が、父がどんな言われ方をするだろうかと思ったら顔から火が出るような思
いだった。


(…お父さん)

こんな単純な罠に嵌められるような息子を父はどう思うだろうかとぼんやりと考えていた時、ぼくは思わず耳を
欹てた。唐突に聞き覚えのある声が聞こえたからだ。


「なあ、進藤。村上さん、どの部屋だって言ってたっけ?」

「んー? 一番奥って言ってたからそこじゃねーの」

それは誰在ろう、進藤ヒカルの声だった。

だったらもう一人は和谷くんのはずで、二人がこちらに近づいているのだと思ったら顔から血の気が一気に引
いた。


「でもさあ、なんでおれらが座布団なんか持って来なくちゃいけないんだ?」

進藤が面倒臭そうにこぼしている。

「知らねえけど仕方無いだろう、おれら一番下っ端だし」

森下先生のお世話になった先生の家なんだから、言われたことはやらないとと言いつつ、間違い無くこの部屋
に向かって来ている。


よりによって一番見られたく無い相手が近づいて来ようとは。

(どこか、隠れる所…)

見渡しても何も無い。仕方無くぼくは押し入れを開けると中に仕舞われていた座布団の山を掻き出すようにし
て取りだして空いた空間に潜り込んだ。


押し入れの戸を閉めるのと部屋の襖が開けられるのはほぼ同時だった。

「うわ、なんか暗いなここ。電気点けるか?」

「いや、いいよ。座布団なんか出してあるみたいだし」

ゆっくりと畳を踏みながら二人分の足音が部屋の中に入って来る。

「しっかし、随分散らかしてんのなあ」

呆れたような声で言うのは和谷くんで、そういえばこの家の主は森下先生とかつて同門だったと思い出した。

「ひいふうみと、全部で幾つ持って来いって言ってたっけ?」

「十? あれ、でもそれだと足りないなあ。押し入れん中にまだあるのかな」

呟くように言ったのは進藤の声で、反射的に両手で戸を押さえた。

「なんか…随分固いな、この襖」

ガタガタと音をたてて襖が揺れる。

「おい、壊すなよ?」

和谷くんが言うのに進藤は「壊すか」と小さく言い放って更に開ける手に力を込めた。

(この…馬鹿力っ)

このまま押さえ続けたら本当に戸を壊しかねない強さだった。

みしっ、ばきっと戸の枠が嫌な音をたて始めるのを聞いてぼくは観念した。

どうせいつかは誰かに見つかって知られることになるのだ。だったら今見られても同じだ。

ぼくはなるべく奥に身を寄せると戸を押さえていた手を離した。

スパーンと勢いの良い音と共に戸が叩き付けられて、「開いた」と進藤が勝ち誇ったように言う。

「ったく、なんでこんな無茶苦茶固い――」

言いかけた彼の声が途中でぴたりと止まったのは、どうしても隠れきれずはみ出したぼくのつま先を見つ
けたからだった。


「どうした?」

「あ、いや…」

驚きに満ちた表情で、進藤は奥に身を潜めるぼくと確かに目を合わせた。

どうして来たのが彼なんだろう。

羞恥のあまり死にたくなりながら、次に彼が和谷くんを呼ぶものと待ち構えた。でも彼はそうせずにただ
静かに戸を閉めたのだった。


「なんだよ。なんで閉めちゃうんだよ」

「なんか…死んだネズミがいるんだって。この家古そうだし、ネズミ取りでも仕掛けてたんじゃないか? 
かなりデカいネズミだったから見つけたヤツ驚いて逃げたんだな」


「げっマジかよ。でもそれなら座布団散らかってたのも納得だわ」

和谷くんはぼくが散らかした座布団を素直にネズミとつなぎ合わせて考えてくれたようだった。

「おかしいと思ったんだよな、おれらここの研究会にも通って無いのにいきなり座布団取って来いとか言
うからさあ」


「和谷、座布団持って先に戻っててくれよ。おれネズミ片してから行くから」

「え? いいよ。やるならおれも手伝うって」

「それこそいいよ。いつまでもおれら二人が戻らなかったら誰か様子を見に来そうじゃん? そうしたらネ
ズミのことがバレてこの家の先生が恥かくじゃんか。それくらい気を効かせろって森下先生なら絶対言う
って」


「そうだな。客として来てんのに家の人に恥かかせたらマズイよな」

「そーゆーこと。おれもすぐ戻るから聞かれたら適当に誤魔化しておいて」

「了解」

そしてごそごそとした気配の後に和谷くん一人が静かに部屋を出て行った。

途端に空気がしんとなる。

「塔矢?」

少ししてぽつりと声が言った。

「おまえ、どうしたんだ」

仕方無く返事をする。


「…別に」

「別にって状態じゃ無いだろう、それ」

言いながら進藤はそっと戸を開けたので、ぼくと彼の目が再びかち合うことになった。

「なんでも無いんだ。ちょっと…ちょっとトラブルがあって…」

「大丈夫? なんかされたんじゃねーの?」

上から下までぼくを遠慮ない視線で見詰めた進藤は怖い顔で尋ねて来た。

「何もされて無い。本当に何も…そんなことキミに関係無いじゃないか」

言った瞬間腕を掴まれて引きずり出された。

「本当に何にもされて無い?」

「されて無いっ。しつこい」

あられも無い格好を晒すはめになってぼくは進藤を睨み付けた。

「だったらいいんだ。…良かった」

進藤はそれでも更にぼくを見詰めて、やっと納得したらしい、ほっとしたように言ってからぼくの手を離し
た。


「…こんなこと、大人になってまでやるヤツいるんだなあ」

溜息のように言ったのは、ズボンと下着を取られただけと理解したからなんだろう。

「服は?」

「知らない。持って行ってしまったから」

「そっちに貴重品とか入ってる?」

「いや…ハンカチくらいだと思うけど」

「そっか。だったら戻って来なくてもそんなに被害は無いな」

そしてやおらぼくの目の前で履いていたズボンを脱ぎ始めた。

「はい。人の履いてたヤツなんか気色悪くて嫌だろうけど、ノーパンよりはマシだろう」

「いいよ。そんなこと」

「良く無い。ガタガタ言わずにとっとと履けって!」

キツい調子で言われてムッとする。

「キミにそんなことして貰う筋合いは無い」

「無くても履けよ。おまえなあ、そんなすっぽんぽんでどうやってここから出るつもりなんだよ」

「それは…」

「こんな所に隠れてたってことは緒方先生や芦原さんに連絡つかなかったんだろう。だったらもうおまえ
頼れるヤツなんかいないじゃん」


「…ぼくはキミとは違うから」

「そうだよ。おまえとおれじゃ大違いなんだよ。もしおれが同じことされても恥ずかしいだけでそんな困っ
たことにはなんないんだよ。笑われてお終いなんだって。でもおまえは違うだろう」


塔矢先生の顔に泥塗るつもりかよと言われて頬が熱くなった。

「履くよ。履けばいいんだろう」

奪い取るようにして彼のズボンを引ったくり、そのまま履く。

「これで満足か?」

「ああ…上等。上と下、全然合って無いけどな」

そういう彼も上は普通の格好なのに下だけトランクスで妙な具合になっている。

「それじゃあ、おれは座敷に戻るからおまえはこのままさっさと帰れよ」

「正気か?」

「正気正気。めっちゃ正気」

へらへらと軽い調子で言うのが不愉快だった。

「和谷くんや森下先生もいらっしゃるんだろう」

「それでもさ、おまえがあんな格好で出て行くよりも、ずっと失う物は少ないんだよ。おまえなんか上手い
言い訳も言えないで、きっとすげえ可哀想なことになるんだ」


「失敬な」

「うん。でも絶対そうなる。そしてそうなった時に棋戦から外されちゃうような、そんな非道いことにまでな
っちゃうのがおまえなんだって」


つくづく面倒臭い立ち位置だよなあと言われてぐっと詰まった。

「…帰れるよな?」

「帰るよ」

「ズボン、それ、返さなくていいから。どうせフリマで買った安いヤツだし」

「ぼくのは―」

「白きられたらお終いだけど、もし見つけられたら返してやる」

「キミに…借りを作るのは気にくわないな」

「こんなんで借り? 誰だって一度はやられたことあんじゃねーの。ただ大抵は小学校止まりだけどな」

恩なんか着せないよと、進藤は言ってにこりと笑った。

「こんなことぐらいでおまえに恩なんか売れるって思って無い。今、たまたまおれがここに居合わせただけ
で、おれじゃ無かったとしてもきっとおまえを助けたよ」


だから精々胸張って帰って、次にあいつらと顔合わせても堂々としてなと言われて脊髄反射的に返事をし
た。


「当たり前だ」

「うん、それでこそ塔矢アキラだな」

別れ際、進藤は一度だけぼくの顔を覗き込むと指でそっとぼくの目元を拭って行った。

自分では気がつかなかったが、ぼくは半泣きになっていて、目尻に涙を溜めていたのだった。

「それじゃ、またな」

ひらりと手を振って部屋を出て行く。数秒その場で留まってからぼくはそっと彼とは逆の方向に歩いて玄関
を出た。


そして真っ直ぐに駅に向かって歩き、一度も後ろは振り返らなかった。


だから別れた後、進藤がどうなったのかぼくは知らない。

あんな格好で皆の前に出て行って、彼が自分で言う程上手く立ち回れたのかどうかは全く解らないのだ。


「おまえ、本当にアホじゃねえの?」

後に棋院で見かけた時に和谷くんに悪し様に言われていたから、良い結果にはならなかったのかもしれな
い。


噂では森下先生の研究会をしばらく出禁になったとかならないとか。

でも、見かける進藤はいつも笑っていたし、かなりキツイ説教もくらったらしいけれど、それでも元気そうだ
った。


どうやって取り戻して来たのかわからないけれど、ぼくのズボンと下着もきちんとクリーニングされた物がし
ばらくして送られて来た。


ぼくはそれにも礼を言わなかったし、彼もまた目が合っても知らない素振りをしていた。

自分とぼくは関係が無いと。

必要以上に余所余所しく振る舞われて腹が立ってしまったくらいだ。


でもそれ以来、ぼくはぼくをあんな目に遭わせた人達を見かけることは無くなった。

彼がきっと何かをしたんだとそう思う。



朧気ながらその時どうなったのか話してくれたのは更にずっと後のこと。

『マジでそんな大したことは無かったよ。言ったじゃん。おまえよりおれのが失う物が少ないって。それより
も得る物の方が断然大きかったしさ』


『得る物?』

尋ねたぼくを彼は満足そうに指さした。

『これが手に入るんだったら、おれ、裸踊りでも女装でもなんでもしたよ』

馬鹿だと思わず殴ってしまったけれど、彼の言葉は間違っていない。あの日、ぼくは彼の優しさと、人とし
ての大きさに心を奪われたのだから。



それまでも惹かれていたその気持ちに恋する気持ちが加わった。

好きかもしれないから、本当に好きと悟るまでそんなに時間はかからなかった。

別れ際、ぼくの涙をそっと拭った彼の指の感触は、その後ずっとぼくの胸を甘く熱くくすぐり続けたのだから。



※新年からこの話ってどーなのよと思いつつ。この話の二人はまだ結構よそよそしいです。
時々一緒に打つようにはなったけど、それ以外の時は接点が無いっていうか。


でもヒカルはアキラを好きですよ。好きじゃなきゃパンイチで大恥かくなんてことは絶対出来ません。
2013.1.1 しょうこ