美しい人



「キレイな顔をしてるかな」

通りすがりに漏れ聞いた言葉に思わず足が止まった。

「へえ、美人かよ。それで?」

それは打ち掛けから戻った時の控え室でのこと。進藤は友人達と一緒に何やら話をしていて、どうやらそれは
それぞれの『好きな人』についてのことのようだった。


清心の間に入ったふりをして、入り口にしばし立ち尽くす。


「んー、それから髪は長くて」
「ふんふん」


恥ずかしながら告白すると、その時ちらりとそれが自分のことでは無いかと思ってしまった。だからこそ立ち聞
きのような真似をしてまで続きを聞こうとしたのだが。


「大人のくせに結構ガキなんだ」

その一言でくだらない期待は打ち砕かれた。

「へえ、お姉様ってヤツ? 誰だよ、学校の先生か?」
「違うよ。へへへ、秘密」


そしてその後は他の誰かの話に移ってしまったのでそれ以上はわからなかった。

でも進藤の心には美しい人が居る、それはぼくを真っ暗な闇の中に突き落とした。



「キミ…大切な人が居るんだって?」

少し後、冗談めかして聞いてみたことがある。

進藤は少し驚いたような顔をして、けれど否定はしなかった。

「なんだよ、おまえもアレ聞いてたのかよ」
「大きな声で話していたから聞きたく無くても聞こえてきたんだ」


平静を装って言うと進藤は口を尖らせて、それからあっさりと言った。

「うん、いるよ」
「へえ」


その時の気持ちをなんと言ったらいいだろう。一度絶望に落ちたそれを更に本人からダメ押しされてしまっ
たのだから。


「どんな人なんだ? 興味あるな」
「いいだろ、別に」
「それこそいいじゃないか、どんな人なのかくらい教えてくれたって」


聞いたからって、キミの大切な人を盗ったりしないよと言ったらムッと眉を寄せて、それからため息のよう
に吐き出した。


「髪が長くてすっげえ美人。それで」
「それで?」
「碁に関しては鬼」


それっきり進藤は二度とその意中の人に関しては話さなかったけれど、ぼくの胸には深く刻みこまれてし
まった。


進藤にはとても大切な人が居る。

それはとても美しくて、とても碁の強い人なのだと。


顔立ちのことは自惚れていた。

進藤にとって自分が特別なのではないかと思っていたのも自惚れだった。

でも、碁でだけは誰にも負けないと思っていたのにそれすらもその人のものなのかと、それはぼくには
耐え難かった。


どうあがいてもきっとその人にぼくは叶わない。その現実が辛くて、ぼくはしばらく立ち直れなかった。




そして十年。

いつの間にやらぼく達は『恋人』というものになっていた。

相変わらず喧嘩ばかりだけれど進藤は恋人としては優秀で、共に暮らすパートナーとしては更にもっと
理想的だった。


甘い時はひたすら甘く、けれどその甘さに寄りかかることが無い。お互いに相手に依存するわけでは無
くちゃんと一人で立ちながら、それでも睦み寄り添っている。


それはひどく幸福だった。

けれどぼくの胸の奥底にはいつも小さな棘が刺さっていて、ちくちくと心を刺し続けていた。

彼は今ぼくを好きだと言うけれど、それはいつか好きだと話していた『あの人』と比べてどうなんだろう?

もしその人が今目の前に現われたらその人の方を取るのではないかと、時に悶々と悩んでしまう。


「おまえさあ、なんかおれに隠してること無い?」
「別に?」
「んー…でも、何かずっとおれに言いたくて言えないことがあるみたいな、そんな気がするんだよな」
「正々堂々隠し事を持っている人にそんなことを言われたく無いな」



進藤には秘密がある。

いつかそれを教えてくれる約束になっているけれど、正直ぼくは知らなくてもいいような気がして来てい
る。


それはその秘密が、いつか聞いた彼の大切な人に繋がることだと薄々解っているからだ。

「それ言われるとキツいけどさ、でもおまえのそれってなんかすごく辛そうな気がするから」

気が変ったらいつでも言ってと進藤は気を悪くした風でも無くぼくに言って頭を撫でた。



聞きたくても聞けない。

言いたくても言えない。

そんな日々が終わったのは在る年の春のことだった。

夜中にふっと気配に目が覚めて隣に居るはずの彼を捜したぼくはぎょっとした。

進藤が枕元に座り、ぼうっと光る人影と手を取り合っていたからだ。


長い髪。

整った顔立ち。

そして見慣れない昔の装束。

白拍子だと思い、それからすぐにそれが進藤の言っていた人なのだと思い当たった。

「進藤」

跳ね起きて手を伸ばす。

「…塔矢」

ぼくの声に進藤は驚いたように振り返った。

「おまえ」
「進藤、お願いだから」


何か言いかける彼の声を遮るようにぼくは叫んでしがみついた。お願いだから頼む、行かないでくれ
と、必死で繰り返していたら、さらりと何かが頭に触れた。


彼の手では無い。でもそれは非道く優しい感触だった。

「バカだなあ」

続いて進藤の声が聞こえ、温かい腕に抱きしめられる。

「おまえの悩みってこれだったんだ? おれが―と行っちゃうって」

―の部分はよく聞こえない。

けれど、それをずっとこんなにも長い間悩み続けていたのかと問われて涙がこぼれた。

「だってキミは言っていたじゃないか、好きな人って」

大切な人だと言っていたではないかと言い返す声に進藤がぎゅっと抱く腕に力を込める。

「言ったよ、だって―は本当におれにとって大切でとっても好きなヤツだから」

でもそれとおまえは別だよと言われて思わず顔を上げた。

そこにもう、朧な光も人影も消えて無くなっていた。

「愛してるって別なんじゃないのか」
「え?」
「愛していて、一生一緒に居たい人ってのはまた別なんじゃないのかな」


ガキの頃、バカなことをして永遠に失った大切な人を今も心の中で想うけれど、その好きとおまえへの
好きは違うんだよと言われて目を見開いた。


「ごめん、すげえ長く苦しめて来たんだな、おれ」
「いや、違う。ぼくが勝手に…」
「違わないよ、もっとちゃんと早くおまえに教えていれば良かった。―は、おれにとって」


進藤が話し始めるのをぼくは手で口を塞いで止めた。

「言わないでいい」

そっとそれを外しながら進藤が聞く。

「聞きたく無い?」
「今は…まだいい」


いつかもっとずっと後。

ぼくがその人に欠片も嫉妬しないようになるまでは頼むからどうか話さないでくれと言ったら進藤はぼく
の頭を胸に押しつけるようにして抱いて、再びそっと小さな声で「本当におまえバカだなあ」と言ったのだ
った。



※ヒカルにとってアキラも佐為ちゃんもどっちも大切な人なんですよね。でも大切と存在の意味合いが違う。
アキラはわかっているけれど悶々とすることも多いと思います。2013.5.5 しょうこ