あべこべの日
「おめでとうございます」 エレベーターを降りた所で数人に囲まれておれは面食らった。 「は? え?」 「進藤天元、今日がお誕生日ですよね、だからお祝いしたくて」 居たのはなんとなく顔を覚えている院生だろう女の子と、まったく見覚えの無い、その 子と同い年くらいの女の子達。 「先日の碁聖に続いて2冠ですよね。棋聖もタイトル寸前ですし、こんなに短い期間に 3冠達成なんてすごいです」 「いや、棋聖は塔矢だし、そんな簡単には獲らせてなんかもらえないし」 不意を突かれてたじたじとなっているおれに、その子達は大きな花束と紙袋に入った プレゼントを寄越した。 「応援してます! これ私たちの気持ちです」 「や…え?…ありがとう」 花束はそれこそ三冠達成した時に貰うぐらいの大きな物で、紙袋も受け取るとずっし りと重かった。 なんだろうこれと思っているうちに、おずおずとした口調で最初の子に切り出された。 「あの…お忙しいとは思うんですが、少しだけでいいんです。私たちとお茶…出来ませ んか?」 「や…それは」 畳みかけるようなやり取りに、きっぱりと断るタイミングを失う。 「本当に少しでいいんです。10分くらいなら進藤天元のお邪魔にはならないかなって」 「あー、えーと」 そのくらいならと言いかけた時、階段の方から近づいて来た誰かが花束を抱えるおれ の腕を強く握った。 「キミ、まだこんな所に居たのか」 大輪のバラの向こうからおれを睨んでいるのは塔矢で、不機嫌を隠しもせずに厳しい 声でおれに言った。 「先方はもう待っていらっしゃるんだぞ、お客様を待たせるなんてどういうつもりだ」 「は?……ふぇ?」 間抜けな声が漏れてしまう。 「キミ達、申し訳無いけれど彼はこの後大事な用があるので失礼するよ」 「あ、はい、すみません」 迫力に気圧されるように彼女たちはおれから離れると、通りやすいように道を開けて くれた。まるでモーゼの十戒だ。 「さ、早く行くぞ」 塔矢はそんな彼女たちに目もくれず、ほとんどおれを引きずるようにして棋院の外に 出たのだった。 「あのー」 競歩か? という勢いで人混みを分けて歩く塔矢の背中におれは尋ねた。 「何だ?」 「いや、知らなかったんだけど、おれ、今日接待の予定かなんかあったんだっけ?」 棋士と言えど営業活動の一環として、応援してくれる企業のお偉いさん達と会食した りすることもあるのだ。そういう『仕事』をうっかり忘れていたんだろうかと思ったのだ。 「無いよ、接待なんて」 しかし塔矢は振り返りもせず、おれを引きずったままぞんざいな口調で言い放った。 「え? でも今さっき、おまえ客を待たせてるって言ったじゃんか」 「言ったね」 「じゃあ、あれは嘘かよ」 言った途端、イノシシの如き歩みが唐突にぴたりと止まった。 「塔矢アキラって言う人がね、キミの誕生日を祝いたくてずっとキミを待っているんだ」 背中を向けたまま、尖った声が言う。 「その人は元々キミと約束していて、でも一緒に行くのはなんだからって言うキミのリ クエストをきいて、わざわざ時間をずらして待ち合わせ場所に行くつもりだったのに、 肝心の相手がいつまでも女の子達と立ち話なんかしているから待ちくたびれてしまっ たみたいでね」 「あー…えーと…」 「あまつさえ、うかうかと女の子達に着いて行きそうになっているのを見て、堪忍袋の 緒が切れてしまったみたいだよ」 「…その、ゴメンナサイ」 背を向けたままの塔矢におれは素直に謝った。 「まったくキミは…」 どうしてそう八方美人なんだ、見ているこっちの気にもなれと言葉の後半はため息の ようになっている。 「悪かった。おれ、本当に悪かったって! で、その塔矢アキラさんはさ、どうしたらお れを許すって言うか、機嫌を直してくれるのかな」 川のように流れる人混みの中、明らかに邪魔になりながらも塔矢はその場で微動だ にしない。 「…そうだね、かなり怒っているみたいだからね」 しばらくしてぽつりと塔矢が言う。 「取りあえずその花束をどこかにやって、身軽になってから美味しいお酒と料理を楽 しめるお店にでも連れて行ってあげたらいいんじゃないかな」 「よし、上手い酒と料理な」 「それと、今後は誕生日や記念日に他人を優先しないって約束をして、それからその 人が満足するまで打ってあげればいいんじゃないか」 「今日、おれの誕生日だったと思うんだけど」 「何か不満でも?」 「あ、いえ、不満なんか無いっス」 空気がいきなり氷点下を超えたので、おれは慌てて謝った。 「じゃあ、酒とメシと碁ね。ほかには?」 ぼそっと小さく塔矢が言った。 「何?」 尋ね返すと躊躇ったように沈黙して、けれど再び口を開いた。 「機嫌が直るまで、優しく愛してあげればいいと…思う」 聞いた途端、カッと頭のてっぺんまでが熱くなった。 「それは―」 「嫌なら」 「嫌じゃないっ! 有り難く謹んでそうさせて頂きますっ!」 皆まで言わせず言葉を途中で遮ると、おれは掴まれていた腕をふりほどき、逆に塔 矢の腕をしっかりと掴んだ。 ちらりと袖口から覗く塔矢の肌は、後ろを向いたままの項と同じに真っ赤に染まって いて、それを見た瞬間、他の何もかもがどうでもよくなった。 本当にまったくおれは、どうしてほんの僅かでもこいつを待たせられるなんて思ったん だろう。 「こんなもん―」 抱えていた花束と紙袋を道の端の郵便ポストの上に置くと、おれは勢いよく走り出し た。 引っ張りざまにちらりと見えた塔矢のびっくりしたような顔。 どこに行くとも、何を食うともまだ考えていなかったけれど、取りあえずどこでもいいから 美味い店を見つけて、浴びる程飲ませてたらふくメシを食わせてやろうとそう思った。 「誕生日様の『接待』思い知れ!」 怒鳴るように言うとようやく気配が柔らかくなり、背後でクスっと笑い声がした。 「なんだそれは一体」 キミは本当に無茶苦茶だと。その声に自分が許されたことを知った。 祝われる側が祝う側を持てなすあべこべの誕生日。 でもこれはこれで最高に幸せじゃないかと、おれはさっきまでの塔矢のように人混みの 中を突き進みながら、思わずへらりと笑ってしまったのだった。 |
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